来月からスタートする裁判員制度で、もし自分が裁判員だったらと、この和歌山カレー事件の最高裁の上告棄却を聞いて急に恐ろしくなった。

 

 1998年に起こったこの事件は、当時、テレビ、新聞、雑誌などメディアの過激な報道合戦によって、林真須美被告の一挙手一投足が連日、テレビ画面や紙面を通じて国民の目に曝され、被告の水撒きといった印象的な行動が繰り返し放映されたりしたことから、逮捕前から心証は「真っ黒」であった。

 

しかし、刑事訴訟法第336条は「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と、いわゆる「無罪の推定」つまり裁判官側に立った「疑わしきは罰せず」を定めている。

 

今回の事件は殺人を犯したという林真須美被告につながる直接的物証がないことに加え、犯罪の動機が解明されぬまま一、二審そして最高裁まで争われた点で、「疑わしきは罰せず」という「刑事裁判の原則」がどう扱われ、最高裁がどう判断するのか、わたしは非常の関心を持ってこの日を待ったのである。

 

 そして21日、一・二審で死刑判決を受けていた林被告に対し、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は上告棄却を告げた。

 

 その判決主旨は、.レー鍋から検出されたものと同じ特徴のヒ素が林被告宅などから発見された、⇔喩鏐陲蓮頭髪から高濃度ヒ素が検出されており、ヒ素を扱ったと認められる、N喩鏐陲世韻ヒ素を入れる機会があり、カレー鍋のふたを開けるなど不審な行動をしていた等の「状況証拠」を挙げ、「被告が犯人であることは合理的な疑いを差し挟む余地がない程度に証明されている」として、林被告人の上告を棄却した。

 

これによって事件発生後約11年を経て、同被告の死刑が確定することとなった。

 

 また最高裁は、この事件の大きな疑問点であった無差別殺人の動機について「動機が解明されていないことは、被告が犯人であるという認定を左右しない」と一蹴、動機は解明されないままとなった。

 

 刑事裁判においては当然のことだが、挙証責任は検察側にある。ところが林被告の「無差別殺人」の「動機」は何かを証明できぬまま、無罪を終始主張し続けた(一審は黙秘)被告の極刑が確定したことになる。

 

 刑事訴訟法では「有罪の言渡をするには、罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示さなければならない」(第335条)となっており、証拠については標目いわゆる証拠の目録・目次を示せばよいとされている。そのため最高裁は「これこれの証拠によって罪となすべき事実を認めた」、その理由を述べる必要がないことになる。

 

わたしが今回の最高裁の判断を理屈で理解できないのは、どうもその点にあるようである。被告を有罪しかも極刑に処するのに、被告の犯罪と決めつける直接の物的証拠がなく状況証拠だけで、しかも最も重要と思われる「犯罪動機」も解明されないままの判決である。

 

 実際に今回のような刑事事件の裁判員になったときの自分を想定した時、こうしたケースで法曹のプロはどう判断するのだろうかと固唾を飲んでいたのだが、何らわたしに解決のヒントを与えてくれはしなかった。

 

 心証はメディア報道のお陰で「真っ黒」であった。しかし10年余にわたる公判のなかで被告と犯罪を直接的に特定する物的証拠は提示されなかった。しかも動機も。そして判決主旨のなかで林被告が犯人であることに合理的疑いを挟む「余地がない程度に証明されている」と、「程度」という曖昧な単語を使用し、直接的につながる証拠がないことをいみじくも語っているのである。

 

 こういうケースは、まさに「疑わしきは罰せず」になるのではないのか。

しかし、メディア報道や被告の言動を思い出すと、限りなく「真っ黒」である。

 

それでは決断を迫られた時、どう裁いたらよいのか。「庶民の常識」でと言われても、こうした場合「死刑」という極刑判決を下すほどわたしは強靭な精神力と炯眼を持ち合わせていない。こんなことではわたしはとても裁判員として「人を裁く」資格、いや度胸などないと思ったのである。