ソマリア沖海自護衛艦派遣=体系的な法律論議を

「なしくずし派遣」はもう限界!

 

ソマリア沖の海賊対策を目的として海上自衛隊護衛艦「さざなみ」「さみだれ」(両艦乗員約400人)の2隻が呉基地を出航(314日)してから早、一ヶ月が過ぎた。

 

護衛艦2隻は日本時間の330日にソマリア沖・アデン湾に到達すると、その夜から早速、日本関係船舶の護衛任務を開始。この2週間の間ですでに、3日と14日の2回、海賊と思われる不審船排除を行なったが、幸い今のところ武器を使用する深刻な事態にはおよんでいない。

 

414日から衆議院本会議においてようやく「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律案」(通称「海賊対処法」)の本格審議に入った。その同じ頃に2回目の不審船排除が現地で行なわれていたことになる。

 

現在の海自護衛艦の派遣および護衛活動は「自衛隊法」6章「自衛隊の行動」第82条定める「海上における警備行動」を根拠としている。同条には「防衛大臣は、海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊に海上において必要な行動をとることを命ずることができる」とある。

 

つまり日本関係船舶の海賊からの護衛を行なう為、自国領海内ではなく、アフリカ東海岸まで遠路はるばる海上自衛隊の護衛艦を派遣した根拠が、上記の第82条の「89文字」のみなのである。

 

その第6章「自衛隊の行動」及び第82条「海上における警備行動」の文脈のなかに、海上自衛隊の行動海域を世界の七つの海どこでも構わないのだと読み取ることはきわめて難しい。ましてや「専守防衛」を国是としてきたわが国自衛隊が、世界の公海上でドンパチやることなど眼光紙背に徹し何度読み直してみても、とてもそんなことができるとは理解できない。

 

また武器の使用については「海上における警備行動」の場合は、「海上保安庁法」や「警察官職務執行法」に定められた規定が準用されている。

 

派遣された護衛艦には、艦対艦ミサイル(90SSM・射程150km)や683連装短魚雷発射管(搭載魚雷射程515km)そして54口径127mm単装速射砲(射程2.4km)といった重火器が装備されている。そうした「軍艦」の武器使用を、例えば「警察官職務執行法」第7条にいう武器使用、すなわち「警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法第36(正当防衛)若しくは同法第37(緊急避難)に該当する場合(以下略)」という、いわゆる犯人に対するピストルの使用を想定した法律に準拠するとしている。

 

何が起こるか分からぬ遠く離れた公海上で、ピストルの使用基準あるいは、正当防衛か緊急避難を根拠として、護衛艦は54口径127mm単装速射砲を撃つのだろうか。これはどう考えても無理がある。「牛刀」を備えている自衛隊の(海上警備に係る)武器使用規定が、鉛筆を削る「小刀」を使う使用注意書きのような「警察官職務執行法」に依拠する「自衛隊法」の建付けに、やはり無理があると言わざるを得ない。

 

さらに海上保安庁法第202項の一において「船舶(海賊船)の進行を停止させるために他に手段がないと信ずるに足りる相当な理由のあるときには、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる」場合も、「我が国の内水又は領海において現に(海賊行為を)行つていると認められることとなっている。

 

そうした出来合いの法律をつなぎ合わせた不具合、居心地の悪さみたいなものは、詰まるところ自衛隊は「軍隊」であるか否かというきわめて明々白々の事実から目を逸(そ)らしてきた政治の責任である。そして国を守るという至極当然の問題について「非武装中立」というお題目だけで善しとしてきた政治家、メディア、さらには国民をふくめたすべての怠慢である。

 

そして本来、自然権であるはずの「交戦権」すら認めないとしたわが国憲法(第92項)および理想主義に対する行過ぎた妄信が、国益が複雑に錯綜し、ぶつかり合う国際情勢のなかにおいて、ひとり赤子のような心理的、理念的無防備国家を作り出してきたと言える。

 

17日、政府はソマリア沖・アデン湾へのP3C哨戒機2機の派遣を決めた。同時に現地駐機場(隣国ジブチ国際空港)での警備が必要として陸上自衛隊の派遣も行なうと発表した。

 

「憲法」や「国防」、「自衛隊」の本質的議論を避けたままで、自衛隊と言う「軍隊」の海外派兵がなしくずしで、しかもあれよあれよという間に既成事実化していっている。

 

幾多の法律を駆使し、その細かな条文を錯綜させ、牽強付会(けんきょうふかい)の法的正当性を唱え、「思い込みの国際的要請」や議論と呼ぶにはあまりに浅薄な生煮えの「国益論」を根拠に、このソマリア沖の海賊対策の海自護衛艦派遣は行なわれた。

 

いま国会で審議されている「海賊対処法」は、現在の根拠法では対処できぬ「日本関係船舶」以外の「外国船舶(軍艦等外国政府保有のものは除く)」への警護も可能なものとなっている。そして武器使用規定も「停船命令に応じなければ船体射撃が可能」と大幅に緩和するなど、これまたズルズルと自衛隊による国外での初の武器使用への道を拓いて行こうとしている。

 

海賊対策として「海賊対処法」ひとつを採り上げれば、前述したように現実の海上警備を想定すると、実情に即した権限を自衛隊に与えねば安全な任務遂行は難しい、海賊対処法は現実的な法整備であると見える。

 

それだからこそ、非常に怖い話だと考えるのだ。対処法的な法律、それもミクロで見れば妥当に見える法律のツギハギだけで、国の骨格にかかる正面切った論議をしない。つまり「交戦権」「国防」「軍隊」「安全保障」といった核心の論議をせずして、「軍隊」の「国外」での運用が着々と既成事実として積み重ねられてゆく。そのことの怖さをわれわれは知らねばならないし、知っているはずである。

 

われわれの先達が先の大戦で本質的問題に正面から対峙(たいじ)せず、ひとつひとつは事情やむを得ぬとの「なしくずし的」既成事実の積み重ねにより結果として筆舌に尽くしがたい悲惨な体験をしたからである。

 

国民自身がこの国の「平和憲法」をもう一度、真摯に見つめ直し、交戦権まで認めぬ憲法を戴く覚悟は本当に出来ているのか。ミサイルを平気でぶっ放す「ならず者国家」がすぐ指呼の距離に存在する今、「平和憲法」の言う意味、われわれがそれを厳密な意味において遵守することは、理想のために愛する家族・恋人・親友たちの命を場合によっては無条件にならず者に差し出すことなのだという決死の覚悟を持ち、イザの場合にそう行動することなのだということを、本気でわが良心および国政の場において問うてみる時機が来たと考える。

 

そしてその覚悟に国民の合意を得るのであれば、その「必死の理想」、「理想に殉じる覚悟」を声高く国際社会に訴え、理想の旗を翩翻(へんぽん)と掲げ直せばよい。

また、逆に軍隊を国防のために保有するのであれば、実効的なシビリアン・コントロールのあり方、専守防衛や武力行使可能地域の定義等もっと徹底・厳密化した形での憲法改正議論をする必要がある。そして真の独立国として日米安全保障条約の見直しも併せて行わねばなるまい。

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