読売新聞に「子供の声『騒音』の時代、自治体への苦情増加」(10月22日)という記事がのっていた。その記事の冒頭にもあったが、10月1日、東京都西東京市にある「西東京いこいの森公園」の噴水で遊ぶ子供の声を東京地裁八王子支部が騒音と認定し、翌2日から市が噴水を止める事態となったとのテレビ各局の報道に接したわたしは正直、驚きを隠せなかった。
この西東京市の公園の噴水と子供の騒音問題については、公園の設計思想そのものが周辺地域への配慮を欠いている等の指摘もなされているので、この件を「子供の声が『騒音』の時代」の象徴的な事例として取り上げることはふさわしくないのかも知れぬ。
しかし、それを契機とし読売新聞社が全国の県庁所在地や政令市等73自治体を対象に調査を行った結果にはまたまた驚かされた。何と48もの自治体において子供の声や部活動で生じる様々な音に対する苦情が寄せられていることがわかった。そしてその実態を知って、正直、驚きを隠しきれなかった。
もちろんこの調査結果のなかに西東京市の例のように何らか特殊事情が絡んでいるケースも含まれていると考えられるので、一概にその数字を鵜呑みすることは危険である。しかし、やはり子供の声を騒音と捉えるか否かについて議論がなされること自体、最近の世相を表したものとしてやはり戸惑いを隠せぬのである。
開発後40年ほどが過ぎたわたしの住宅地では小さな子供の姿を見かけることが珍しくなり、近所の公園をたまに訪ねてもそこで遊びに興じる子供たちの姿を見ることもここ久しくなくなった。子どもたちの歓声を耳にすることやその活気を肌で感じることが少なくなったことに、最近では共同体としての活力の減衰を思うことの多かったわたしには、「子供の声が騒音の時代に」はやはりショックであり、その世相の移り変わりにある意味で「脱力感」を覚えてしまった。
昭和の高度成長期の時代、この国は燃え上がるような熱気やエネルギーを放ち、そして子供心にもなにか夢にあふれた社会が自分たちの将来に待っているように思えたものである。子どもたちだけでなく大人たちの瞳もキラキラと希望に輝いて見えた。日本全体に成長という槌(つち)音が響き、その果てに夢がかなう現実があると信じた社会全体の大きな鼓動を刻む躍動という音にまぎれて、大人たちの耳や心に子供の歓声などは「騒音」として入りこむ余地などなかったのかも知れぬ。
時代は成熟し、少子高齢社会となり、格差社会と呼ばれる時代の閉塞感から街角から夢という槌音を拾い採ることが難しくなったこの時代、次の日本を背負う子供たちの活力を「騒音」と聴いてしまう今の大人たちそして社会。いつのまにかこの国は大事なものをどこかに置き忘れ、不健康・不健全な社会を作りあげてしまったのではないかと、この読売新聞の記事を目にして考えさせられた。そして「昭和は遠くなりにけり・・・」と思ってしまったのである。
下町で家が密集していたところでも、無制限に騒げるような場所はなかった。騒げば友達のお母さんに厳しくもやさしく注意された。私たちはそれを当然のこととして受け取った。それが世の中のルールとして学習した。今のお母さんたちは、少子高齢化を理由に、子供の無制限に騒がせることを正当化し過ぎている。子供に社会のルールを教えるべきところできちんとルールを教えられない親が多くなっている。
また、こうも言えるかもしれない。うるさい所に住んでいても、何時かは私や俺は立派な家に住めるんだ。そのように考えれば騒音も一時との付き合いとなり、心にも余裕があった。今はそのような余裕などない。
昔のノスタルジーを持ち出して、騒音被害者を変人扱いするべきじゃないと思う。