沖縄の空

沖縄の空

 

沖縄さとうきび畑

さとうきび畑

 

沖縄の海

 

 

 

 

 

 

                                   

                                       沖縄の海

 

 30日に文部科学省は高校用教科書の検定結果を発表した。「教科書用図書検定調査審議会」が行なった教科用図書検定基準に基づく内容審査を経て提言を受けたものについて、同省は昨年12月下旬に各教科書会社に検定意見(ふさわしくない文言についての再検討)を通知していた。決定保留を受けた教科書会社が修正表の提出を行なったものに対する審議会による再度の審査を経たうえでの検定結果が公表されたものである。

 

この一連の教科書検定制度は学校教育法の第21条の「文部科学大臣の検定を経た教科用図書又は文部科学省が著作の名義を有する教育用図書を使用しなければならない」等の条項にその法的根拠を有する。さらに検定は、それぞれの教科書についておおむね4年ごとの周期で行われている(文科省HP「教科書制度の概要――教科書検定の趣旨」)。

 

さて今回の検定決定の通知によって明らかになったもののなかに、沖縄戦に関する記述について修正提言があり、検定意見が同省より通知された。その修正を行なったうえでの該当教科書をふくんだ検定合格通知であった。

 

 修正意見は沖縄戦が始まってすぐに起きた慶良間(けらま)列島島民の集団自決の説明に関する部分である。申請時の修正箇所の文言は「日本軍に『集団自決』を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた」が、検定意見を受けたのち検定合格となった当該箇所は「追いつめられて『集団自決』した人や、戦闘の邪魔になるとかスパイ容疑を理由に殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた」と前半部分の文言修正がなされた。

 

 わたしは330日、31日付けPJニュースにおいて連載「二つの資料館が語る戦争の異なる実相――ひめゆりの塔を訪ねて」を記した。その書き出しは「(沖縄到着の)325日、その日は62年前に米軍上陸を許した日本軍の命令により559名もの慶良間列島の島民が集団自決させられた前日であった」と始めている。

その記述は159ページからなる「ひめゆり平和祈念資料館」というタイトルのガイドブックのなかに「26日、米軍は沖縄本島上陸の足がかりとして、那覇の西25キロの慶良間列島に進出。軍・民が混在した小島では、命令による村民の集団的な死という惨劇が発生しました(p46)」とあることに基づいたものである。

 

1945年3月23日、慶良間列島への艦砲射撃・艦載機による空襲が始まり、沖縄戦の火蓋は切って落とされた。その3日後の26日に米軍はまず慶良間列島の慶留間島、座間味島、次いで27日には渡嘉敷島に上陸した。そして島民の「集団自決」という惨劇が発生した。渡嘉敷島329人、座間味島177人、慶留間島53人、合計559人もの幼児を含めた多くの島民が犠牲となったものである。(下に続く)

 

 これまでの教科書の記述にあった「日本軍に『集団自決』を強いられたり」が「追いつめられて『集団自決』した」と修正するもとになった「検定意見通知」には「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」とあった。

 

 審議会が「軍の強制」という記述の削除を暗に求めた背景には、梅澤裕(大正51221日生。座間味島で第1戦隊長の元少佐)と赤松秀一(大正9420日生・昭和55113日死亡。渡嘉敷島で第3戦隊長の故赤松嘉次元大尉の弟)両氏により平成1785日に大阪地裁に提訴された、「沖縄ノート」の著者である作家大江健三郎と出版社の岩波書店を被告とする「沖縄集団自決冤罪訴訟」の存在が大きいものと思われる。

 

 訴状の請求原因のなかの「集団自決命令は架空だった」において島民の証言として「原告梅澤少佐に弾薬供与を懇願に行った5人のうちで生き残った女子青年団長は、一時期部隊長の集団自決命令があったと証言し、その後、原告梅澤に対し、部隊長の自決命令はなかったと謝罪している。また、自決した助役の弟は、座間味島の戦没者、自決者の補償交渉に当たる座間味村の担当者となり、原告梅澤少佐による自決命令があったと証言していたが、昭和62年3月28日、座間味島を訪ねた原告梅澤に『勝手に隊長命令による自決とした事はすみませんでした』と謝罪している」旨が言及されている。 

 

 一方で昨年には、関東学院大学の林博史教授により「慶留間島の住民への尋問で『住民らは日本兵が米軍が上陸してきた時は自決せよと命じたと繰り返し語っている』と記述されている。『集団自決』発生直後の記録として、住民への命令状況を伝える」と記された米歩兵第七七師団砲兵隊による1945年4月3日付『慶良間列島作戦報告』が米国立公文書館で発見された。それは「沖縄戦時下の慶良間諸島の『集団自決』をめぐり、日本兵が住民に『集団自決』を命令したことを示す記録である」と沖縄タイムス紙(2006.10.3)は報じている。

 

 このように『島民の集団自決』を正式に軍が命じたのかどうかについては、現在、その事実は定かでないと言える。またその問題は、軍の命令による集団自決とする「沖縄ノート」(岩波書店1970年発刊)を著した大江健三郎氏と曽野綾子氏の日本軍の住民自決命令はなかったとする「ある神話の背景」(文芸春秋社1973年発刊)など言論界においても、過去、正反対の議論や意見があったところでもある。(下に続く