夕張市職員のあきれた公僕意識

 

 1114日に「夕張市財政再建の基本的枠組み案について」が公表され、18日から23日にかけて6地域で住民説明会が行われた。これまでの行政のあり方、今後の対応など総括なくしてただ住民に負担を押し付ける市側再建案への不満や怒りをぶつける夕張市民の様子がTVの映像などを通じて伝えられた。そうしたなかで夕張市職労(厚谷司委員長)が11月末に実施したアンケートで、市職員の約85%が「退職を検討せざるをえない」と考えていることが判明した。単純計算をすればこの4月現在の市職員数は269人(除く消防職員、病院職員等)であるので、数年後の残留職員数は60人の計算となる。

財政再建団体への転落が確実視されている夕張市再生の担い手の中心になるべき市職員の85%もの人間が職を辞するということは、すなわち行政機能の壊滅を意味する。もし壊滅しないと言うのであれば、これまで85%(209人)もの余剰な地方公務員を漫然と税金で雇用していたことになる。

行政機能が壊滅するとは、具体的にどのような事態が起こるのか容易には想像がつかない。卑近な例で考えて見ると、ゴミ収集がなくなれば各家庭内は生ゴミなどで溢れ返り、衛生面での問題が浮上する。また下水道のサービスが途絶するとなれば、街はどういう状況に陥るのか。市内に病院がなくなれば、重篤な病気に罹ったときにこの雪深いところでどうして命を繋いだらよいのかなど考えれば考えるほどGDP世界第二位と言われる経済大国で起ころうとしている事態とはとても思えないのである。だから、そうした事態をわたしは浅学にして第二次大戦直後の大混乱期を除いてはすぐには思いつかない。

公務員とは「公僕」と称されるように、憲法第15条において「公務員の本質」は「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定められている。国民に奉仕する公僕であるからこそ、公務員には一方でさまざまな面での保障がなされている。言葉を変えれば国民は「国民に奉仕するサーバント」として雇用する代償として、公務員に身分保障を与えたと言ってよい。然るに今回の夕張市で起きようとしている事態は、国民たる市民に奉仕することなくして、破綻という最悪の状態に自治体を陥れた挙句に、自治体再生という最も重要でかつ重大な使命を果たすことなく逃亡を図ろうとしていることである。

 

 われわれ国民はこうした公僕のために敢えて憲法で公務員の本質を規定し、地方公務員法第30条で「服務の根本基準」として「すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」と噛んで含めるようにあらためて定めている。まさにいま夕張市職員は「公共の利益のために全力を挙げて自治体再生に専念しなければならない」はずである。その意味では、夕張市にのみ再建のすべてを任せようとする北海道庁、総務省の姿勢も一方で厳しく問うていかねばならない。

そもそも夕張市壊滅に至るまで市当局が行政のスリム化を怠ってきたことが、今回の総人件費の急激な圧縮という事態を招来したわけだが、今度は、それではと一斉に逃亡を決め込む夕張市職員とは、一体、どういった了見をもった集団なのであろうか。市職員は今後予想されるであろうどんな困難に対しても、市民生活を守るため公僕として奉仕を続けていく使命が課されているはずである。総人件費の大幅削減という行革と行政サービスを崩壊させぬ均衡点を探し出すことが、どんなに難しかろうが、どんなに過酷であろうが、夕張市行政当局に現在、課せられている義務であり、それを成さぬのであれば国民との契約に対する重大な背任行為であると言わざるを得ない。

 

われわれは引き続き夕張市行政当局への目配りを怠ることなく、決して公僕たちの「いいとこ取り」を許すことがないよう監視の目を強化していかねばならない。

 

 いま木村拓哉主演の「武士の一分」という映画が好評を博しているが、夕張市職員の中に凛とした「公僕の一分」を持った人物はいないのだろうかとふと考える。職労のアンケート調査によれば「退職は当面考えない」は26人、「定年まで勤める」はわずか7人である。一概に評価はできないが「公僕の一分」を示した人物はわずかに33人とも言えなくもない。自主退職85%という公表数字を見て、「それでは公僕の一分が立たない」と、これから考え直す人物が出てくることを祈らずにはいられない。高齢者比率が全国一高いと言われる夕張、美しい響きをもつ「ユウバリ」という土地に、これからの生活に大きな不安を抱える年寄りたちを放置してわれ先に逃げていこうとする「公僕」たちの姿はあまりにも醜く、あさましく見える。

 

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