履修単位不足が発覚した茨城県立佐竹高校(同県常陸太田市)の校長、高久裕一郎氏(58)が10月30日に自殺。「生徒に瑕疵(かし)はない・・一命を副(そ)えて(生徒に不利益にならないご処置を)お願い致します」と結ばれた遺書の一部も公表された。次いで11月6日、愛媛県立新居浜西高校(同県新居浜市)の政岡博校長(60)が、自宅で首つり自殺をした。同県教委宛てに必修逃れをほのめかす「自分の認識不足や怠慢があった」との内容の遺書が残されていた。

 

わたしは11月3日付けブログ「履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)」で、「現場の校長、・・教育委員会、・・文科省が、(履修漏れを引き起こした)代償として、自らの今後の人生で償わねばならぬ。その責任のとり方こそが・・・まさに教育そのものである」と訴えた。履修漏れに導いた責任を「今後の人生で償う責任のとり方」で示すことこそ教育の原点であると言った。それは、卒業資格がとれない生徒の一年間の代償として、自らの職を辞し、教育というものを今後の人生のなかで見つめ直すべきだと訴えたのである。そうした出処進退、生き様を教育者自らがやって見せることが、感受性豊かな高校生らにとって「これにすぐる教育はない」と主張したのである。

 

 いま、いじめの問題で小、中、高校生が自ら命を絶つ事件が続発している。そうしたなかで、校長や教師など教育に携る人間がいくら精神的に追いつめられ、苦しいからといって「自殺」によってその責任なり、問題から逃避することは許されることではない。自殺されたお二人の校長先生が、いかに責任感の強い人物であったかは察して余りある。その死に対し哀悼の意を表することはもちろんやぶさかではない。

だが、しかし、彼らはやはり死ぬべきではなかった。不様でもよい、精神的に追いつめられたその苦難を「乗り越える」姿、悩みながら「生きる」姿を、生徒たちに見せることこそ、彼ら教育者がやらねばならぬことであると思ったからである。

 

「死ぬ」ことは、何の問題の解決にもつながらないこと、両親を始めとした廻りの人々に深い悲しみと心の傷を刻み込むだけなのだと、自らが「生き続ける」ことにより生徒たちに教え込まなければならなかった。どんなに苦しくとも、それが教育者たるものの最も大切な使命であるから。