自民党二階俊博国対委員長が5日のNHK「日曜討論」で、中川昭一政調会長や麻生太郎外相の核保有の議論容認に関し「誤解を招きかねない発言を何度もすると任命権者の責任が問われかねない。発言を慎むべきだ」と自制を求めた。度々の自粛要請に拘らずこの3日に佐賀市の講演で中川政調会長が「(北朝鮮の軍事)能力も日々充実しているとするならば、平和と安全をどう守っていけばいいのか、核も含めて、なぜ議論しないのか」と重ねて発言し続けていることなどに対するものであろう。

 

二階委員長は「非核三原則は国是であり」、誤解を招く発言は慎むべきであると言った。民主党をはじめとして「閣内不一致」と一斉に非難の声をあげており、スムースな国会運営に責任を持つ国対委員長としての気持ちは、たしかに分からぬではない。わが国が掲げる「非核三原則」は唯一の被爆国としてもちろん世界に誇れるテーゼであり、その精神を世界に向けて発信し続けていく使命があることもよくわかる。

 

しかし、二階氏の言葉もまがうことのない自民党の要職にある議員の発言である。野党が批判するのとは、おのずからその意味合いと重みは異なってくる。政治家の最も重要な責務が「国民の生命と財産を守る」ことにあることは論を待たない。政権党の要職にある政治家が、国家の安全保障に重要な係わりをもつ核兵器保有の「議論」すら控えろという不見識と言論弾圧に、わたしはこの国の平和ボケと「安全保障」に対する無警戒さが度し難い水準にまできていることを感じてしまう。

 

 そもそも「非核三原則」とは、1967年12月の衆議院予算委員会において、当時の社会党成田知巳委員長が返還の決まった小笠原諸島への核兵器再持込みにつき問い質し、時の佐藤栄作首相がわが国は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という三原則を示したのが始まりである。当時の国民の核アレルギーを強烈に意識した答弁であったと言えよう。

しかしその時代に、日本に核攻撃を受けるかも知れぬという懸念があったかといえば、それはなかった。非核三原則は、逆に核保有国たる加害者(米国)の核攻撃に、結果として加担することの懸念に対し国民が大きく反発した結果の産物である。

 

さて現在わが国が置かれている状況はと言うと、核攻撃に曝される危険性、蓋然性が高まっている点で、当時とはまったく異なる環境にある。当り前だが、国際情勢は時々刻々と変容する。北東アジアの政治的緊張感や米国の国際社会での位置付け、軍事力の余裕も40年前の状況とは大きく異なっている。そうした情勢のなかで、この国の安全保障につき「核の保有」をタブーとしない「議論」を行ない、持つメリット・デメリット、持たぬメリット・デメリットを含め、どう国民の生命と安全を守るのか具体的な議論・シミュレーションを深めることに、何の不都合があるのか。

与党の要職にある政治家が国会運営という日常事に目を奪われ、国を守るという議論、危機管理の対応策を検討することすら控えろと言うのであれば、北朝鮮が仮に核で威嚇をして来た場合、わが国は同国が侮蔑したように米国の53番目の州であることを現実的に容認するのか、それとも事前に具体的対応策を議論したうえで独立国として生きぬく道を模索し選択するのか、究極の選択を迫られた場合、二階氏はどういう答えを現在、用意しているのかはっきりと問い質したい。

 

「非核三原則」が国是であるから議論すらまかりならぬというのであれば、「非核三原則」を念仏のように唱えておれば北朝鮮が核保有を断念してくれるという確実な担保があることを、二階氏は国民に納得のいくように説明すべきである。

 

政治家は国の安全保障に重い責任を有する。核実験等暴走を重ねる北朝鮮の不穏な動きを勘案すれば、正論は無責任な言説を強弁する二階氏や大手メディアになく、中川昭一氏や麻生太郎氏にあると考えるのが大人の判断であると考えるが、いかがか。