履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(上)
履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(中)

 

そして早稲田大学や山形大学の当り前の対応がなぜか凛々しく見えることに、虚しさと寂しさを覚えてしまう。推薦入学申請に当たり提出する内申書の改ざんは、りっぱな私文書偽造罪にあたる。この訂正を求めるのは当然の行為であり、訴えられれば高校側は罪に問われる。法治国家としては至極、当り前のことである。そうした法治国家に帰属する国民に遵法精神のイロハを教えることは、言うまでもなく教育の重要な要素である。その原理原則を教育する側の犯した罪は、本来、「申し訳ない」で済む話ではもちろんない。

 

 では、今回の履修漏れ問題にどのように対応すべきなのか。

 

答えはひとつしかない。会津藩の幼時教育で行なわれた「什(じゅう)の掟」で、最後に唱える誓いの言葉「ならぬことは、ならぬものです」という教育の原点にもどり、対応するしかないのだと思う。教育基本法の改正を議論する前に、われわれ自身が、教育とは何か、学ぶということは何か、原点に立ち戻り結論を出すべきであると考える。

 

 すなわち「履修単位が不足すれば卒業は出来ぬ」ということであり、法の穴を抜けるような姑息な手段をこの国の将来を担う若者たちに慫慂し、形だけ整えればよいといった処世術を教唆することは避けねばならぬと考えるのである。社会通念を超えた特例措置、いや誤魔化しは決して子供たちの将来の利になるはずはないからである。姑息な単位の辻褄合わせなどは、「学ぶ」という基本を過たせる百害あって一利なしの行為そのものであるからである。これから人生の花を向かえる若人たちに、これからの一年は決して無駄ではないと教えることこそ、大人たち社会が「教育」するべき大切なことなのではないだろうか。

 

 そのことは、こうした履修スケジュールを作った学校現場の校長、それを知っていて見過ごしてきたであろう教育委員会、それらを総括的に管理する文科省が、数万人におよぶ卒業できぬ高校生たちの心と経済的負担および可能性のある貴重な一年間を奪い去る代償として、自らの今後の人生で償うことと同時になされねばならぬ。その責任のとり方こそが教育基本法改正の議論の前になされるべき、まさに教育そのものであると考える。戦後教育の抜本的改革とは、それほどに重くそして大きな犠牲なくして成就することはありえぬ難題であると考えるからである。