「論座7月号の西村正雄氏の論文に久々の知識人の見識を見た」

論座7月号の「元自民党幹事長・安倍晋太郎氏の弟が直言、次の総理になにを望むか ―― 経世済民の政治とアジア外交の再生を」を読んだ。西村氏(元日本興業銀行頭取)は故安倍晋太郎氏の実弟だそうで、今をときめく安倍晋三官房長官の叔父に当たることになる。

その叔父が、「次の総理になにを望むか」というタイトルでものした論文である。身内に甘い内容ではと思って目を通したが、次期総理は「テレビに出る回数が多く、若いとか格好いいとかで選ばれることだけは避けなければならない」と、真っ向からの正論を展開し、久しぶりに緑陰の湧き水を口に含んだような爽やかな気分を味わった。

小泉総理がポピュリズム政治の見本のような手法でTVやメディアの力を巧妙につかい、国民の目を欺いてきたことを考えると、次の総理には是非とも、その対極にある「国家百年の大計」を見据えた堂々とした政治姿勢で、日本の舵取りを行なって欲しいと願う。

論文のなかで、同氏は次期宰相の資格として次の四つを求めた。

(1)政(まつりごと)の基本理念である「経世済民」の原則にもどること

(2)国の根本である「人づくり」において「教育のありかたを見直すこと」

(3)ポピュリズム政治と訣別すること

(4)アジア外交の建て直しを早急に行なうこと

の四つを正に骨太の宰相の要件として、提示した。まったく同感である。

この五年間の小泉政治が切り捨ててきた弱者。「格差社会」の拡大がここにきてようやくメディアでも取りざたされてきたが、小泉総理が股肱の臣として重用した竹中氏が強烈に推進した市場原理主義の当然の帰結といってよい。そもそも、市場原理主義は「弱肉強食」こそ、そのルールの大原則である、というより、原理というものはそうでなければならぬのである。強いものが正当なルールの下で、正当な手段で正当な利潤を享受する。それは至極、単純明快な理屈である。ルールさえ守れば、富める者はとことん富み栄えて構わない社会が現出するのは、市場原理主義を野放図に突き進めれば、当然の結果なのである。そして、競争に敗れた弱者はとことん社会の低層に沈み込んでいく。格差が幾何級数的に拡大していくのは必然である。

小泉総理は、国会で「格差は必ずしも悪いものではない」と答弁した。機会の平等は保障されるべきだが、結果の平等は必然ではなく、その人それぞれの能力、努力の差によって、凹凸がでるのは、ある面、公平であるという。

このことをわたしは否定もしないし、批判もしない。それは、小泉氏の言っていることは、尤もだからである。

しかし、政治は理屈の正当性や口先だけのごまかしで済まされる代物ではない。政(まつりごと)は現実社会を透徹、洞察し、たとえ理屈に合っているとしても、苦しんでおる国民がいれば、それを救うことこそ求められる最大の責務のはずである。一国の宰相が、血も涙もない市場原理主義により国民間の格差が拡大している事実に眼をそむけ、現実を直視することをせずして、役人の作った数字や文書のみで、その事態を誤って判断、いや国会答弁を切り抜けるという一点の目的のみで意図的にそれを活用しているとすれば、言語道断の極みである。

よく言われるニートやフリーター問題にいかにも関心を持つ素振りなどせず、メンフィスのプレスリーの生家を訪れる時間と余裕があるのであれば、国内の地方の経済的疲弊と人心の荒廃を知るべく、国内視察こそ今、行なうべきである。そのうえで、機会の平等というものすら崩れようとしている現実に冷徹な目を向けるべきである。そして、その平等を保障すべく、政府を挙げて智恵を絞るべきである。政(まつりごと)とは、その機会均等を保障し、努力を怠らぬ人間が社会の低層に沈み込まぬように、西村氏が述べているようにセーフティーネットを用意することなのではないのか。

「働かざるもの食うべからず」は良いが、「働きたいものでも食うべからず」はあってはならぬことであるし、「努力するもの食うところに与(あずか)らず」もあってはならぬ。それは、政(まつりごと)の本質、責務であると思う。

西村正雄氏の「経世済民」という言葉、そう云えば昔、倫理社会で習った「政治の要諦」を思い出しながら、昨今の小泉政治の問題点に考えが及び、次期総理には、同氏の言う四つの要件を是非、肝に銘じ、国家運営を行なってもらいたいと願う次第である。