「葉桜」

 

 桜前線があわただしく日本列島のうえを過ぎ去り、葉桜が街路に目立つようになると、街に落ち着きのようなものが戻ってきた気分になる。という樹はどうしても満開になった花びらが主役であり、その絢爛豪華さとひと雨で散りゆく潔さという対極の概念が取り合わさって古来、日本人の心を捉えて離さない。

 

だから葉桜になって遅まきに咲いている桜の花びらに対して、ほんの一週間ほど前にはあれほど嘆声をあげていた人たちも思いのほか冷たい視線を向ける。と云うより、大半の人は明らかに無関心となる。そんな葉桜の花びらはどこか居場所を失った老人に似て、新緑若葉の脇で目立たぬようにさも申し訳なさそうに咲いている。

 

ところが目を凝らせばその新鮮な若葉色と薄い桜色のコントラストは、また満開の桜とは異なった趣があることに気づく。葉桜の美しさは緑の若葉の領域が増えるにつれて薄れていく。おそらく葉桜は若葉色と桜色の対照の或る一瞬に最高の輝きを放つ「刹那の美」とでもいってよいのだろう。満開の桜は少なくとも三、四日の賞美する猶予を人々に与える。しかし、葉桜のかもす特有の微妙なコントラストは「一瞬の時」しか我々にその鑑賞する自由を与えない。考えてみればずいぶんと誇り高い存在であったのだと気づいた。

 

 そう思い至った時、花見にはもうひとつの果かなさがあったのだと知った。そして若葉が枝々を占領し尽くす頃、いわゆる桜蘂(さくらしべ)が並木敷きを覆うように落ち敷き、宴の後のがらんとした座敷の静謐を思わせる光景が眼前に広がる。その春泥に桜蘂が張りついている寂しげな情景は、しかし、翌年の「刹那の美」を待つための、そう・・・序章なのだと感じた。