「言語は国を体現する唯一独自の文化」

 

 二十七日、中央教育審議会の外国語専門部会が小学校で全国一律に英語を必修とするという審議報告をまとめた。それを受けて二十八日付けの日経新聞の「春秋」では、シラク大統領がEU首脳会議で「フランス人ならフランス語を使うべきだ」と怒って席を立ったことを引き合いに、行過ぎた英語の優位性と母国語の情感や文化の奥行きを見失うことへの危惧を述べている。その春秋子の主張に全く同感であるし、この国の専門家なり識者とは一体どのような国家観と思考回路を有しているのか、私には皆目見当がつかない。

 

 その国の言葉並びに言語表現は、我々の先祖がそれぞれの時代を生き抜くにおいて、時々の生活観あるいは思考方法と云った庶民の息遣いとともに手垢にまみれた表現方式が、歴史という長い時間により濾過されて徐々に形を成し、出き上がってきたものと、私は理解している。だから日本語という言語は日本人と云う民族が生き続ける限り、時代という濾過装置を潜り抜けながら将来に渡って存在をし続けるべきものと考えている。

 

 そう考える私には、抑々、この国の国語教育の貧弱さ、哲学のなさを日頃から慨嘆してきたところである。国際人は英語が喋れる人と勘違いするこの国の知識人の愚かさに、ほとほと愛想がつきる。海外の生活が長い人々や海外で活躍をする日本人は、ある時機に必ずと云ってよいほどに、自分が日本と云う国について何も知らず、ましてや日本文化に薀蓄などを持って語れない自分に気づいて、愕然としたことを多く経験したとよく聴く。そうした人たちは口を揃えたように「国際人とは母国文化を自己のアイデンティティとして世界で自己表現のできる人であり、だからこそ他国の人々からその表現なり考え方に共感を得ることができるのだと思う」と、語る。まさにそのとおりだと自分も思う。語学ができるだけで、自国の文化も説明できぬ人物をどこの国の人間が尊敬を持って遇しようか。

 

 自国の文化に造詣を深めるのに外国語で学ぶ馬鹿はいない。母国語にこそ自国文化の真髄や先達が伝承してきた文化の心が内包されており、そこに最も大切な感情表現という文化の結晶のようなもの、国という求心力の源こそ国語なのだと思う。

 

 その国語が乱れていると云われ出してからずいぶんと時が流れた。そして、有効な対策が打たれぬままに、巷で耳にしたりTVのバラエティ番組で交わされる日本語の汚さには虫唾が走り、この国がメルトダウンして行っているような気持ちに捕われる。そして韓流ブームで韓国人のスターがマスコミに頻繁に顔を出すようになったが、彼らの口から日本語の素晴らしい敬語や美しい丁寧語を聴くと、本当に情けなくなる。一方で、相方で喋るお笑い系のタレントが文法もなっていない日本語を喋っているのを聴くと、情けなさを通り越して諦めの念が強まっていくことを留めることが出来ない。

 

 こうした壊滅的、悲観的な言語環境にあるのに関わらず、今回の英語必修の審議報告はこの国の文化を後世にどう伝承しようとしているのか、我々世代の責任は余りに大きいと云わざるを得ない。