彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

June 2022

「葵祭」転じて初夏の京都グルメ旅 一日目

長崎市在住の83歳になる叔母からかねて京都を案内しろと命じられていた。これまで延ばし延ばしにしていたが、元気印の叔母が一時体調を崩したこともあり、そろそろ手形を落としておかねばなるまいと今般の京都行きを決行した。

”屋から東山と比叡山
ホテルオークラ京都から比叡山と東山連峰をみる
叔母には従妹夫婦が付き添いで来ることとなり、わが夫婦と併せ総勢5名、平均年齢69歳となる「黄昏老人の修学旅行」となった。

コロナウイルスの猛威も沈静化した5月14日に京都で落ち合い、3泊4日で「葵祭」を愉しむ旅の計画を練った。

ところが旅の眼目であった葵祭であるが、コロナ禍のなか斎王代が行列をなして京都御所から下鴨・上賀茂神社へと巡行する「路頭の儀」は早々と2月頃には中止が発表された。

2014年・斎王代の参進
2014年葵祭・社頭の儀
そこで2014年に参列した「社頭の儀」に参加できたらと思い、下鴨神社に連絡を入れたが、今年は列席者の人数を絞っておこなうということで、5名もの一行は難しいと丁重に断られた。

_竺神社・神楽殿
下鴨神社・神楽殿
といった事情これあり、急遽、旅の目的は千四百年つづく「聖なる神事」に参列することから、急転、「食い意地」という「業の世界」にどっぷりつかることと相成った。

ゝ毒軌
菊乃井・本店(2019.1)
老い先短い人生、享楽に現を抜かし、京都の初夏を思いっきり「食い尽くす」ことにしたというわけである。

その一日目は二時頃にホテルで落ち合い、コロナ禍もあり上京もままならなかった叔母の元気な姿に安堵し、まず葵祭の下鴨神社に参拝を済ましておくことにした。

「五月一五日 賀茂祭」と大書された柱聯(ちゅうれん)がかかる燦爛たる楼門をくぐり本殿境内に入る。

_竺神社・楼門
下鴨神社・楼門
橋殿前には「社頭の儀」参列者用の椅子が整然とならべられていた。

ー卞の儀の列席者用の椅子が橋殿前にならぶ
橋殿前に参列者用の椅子
翌日の参加が叶わぬわれわれは、せめてもと本殿への昇殿参拝をさせてもらうことにした。

_竺神社・昇殿参拝
下鴨神社・本殿
本殿内の祈祷所で「黄昏老人一行」は権禰宜の方にありがたい祝詞をあげていただき、巫女さんに玲瓏な神楽鈴の音でお祓いをしていただいた。

_竺神社の巫女さんに修祓をうける - コピー
下鴨神社・巫女
その際に従妹の夫君は清冽な風が吹き抜けたのを感じたと社殿を退出してから興奮気味に繰り返し語った。

それに対し他の黄昏四人組は誰一人、神気など感じなかったと微塵の畏敬の念も見せぬ不逞ぶりであった。

そのあと女性陣は、京都の夏の風物詩である「足つけ神事」が斎行される「みたらし池」で「水占い(みずみくじ)」に興じた。

,澆燭蕕契遒醗羮綣
みたらし池と井上社
どんな卦()がでたのか、このお二人さん・・・

 匹澆燭蕕契遏匹膿綫蠅い鬚垢
水占いに興じる女が二人
どこか可愛らしくおだやかな人生の一景ではあった。

 

下鴨神社でのそれなりの敬虔な?ひと時を過ごした一行はホテルへと戻り、「煩悩の食慾」に身を焦がす「割烹やました」へ出陣する英気を養うことにした。

.曠謄襯ークラ京都・スーペリアツイン
ホテルオークラ京都のスーペリアル・ツイン
割烹やましたは昨年の三月下旬、醍醐寺の花見の際に訪れて以来、ほぼ一年ぶりである。

ヽ篷やました 押小路橋から
押小路橋から割烹やました
この夜は話に夢中となり、夏の定番の鱧の炙りをはじめ細君が取り仕切った料理が皿に盛られてきたというのが実際で、写真もあまり撮れていない。

〔5い覆ぅ灰蹈並弍のカウンター
コロナ対応の味気ないカウンター
ただ、何かいつもと趣向の異なる珍しい料理にお目にかかったので、これはこれでよしとするのであろう。

ゝ都の夏の定番 炙り鱧と大将
夏の定番・鱧の炙りは絶品
その中でも、やましたで鰻を食べようとは驚きだった・・・

,笋泙靴燭留靴粒焼
鰻の蒲焼
そんなことで、八時半頃には一日目の晩餐が終了。

店の暖簾の前で、大将と黄昏老人一行と記念写真を撮り、ホテルへと戻った。

,い弔發里出迎えの折り鶴
オークラのいつもの折り鶴のおもてなし
かつて八時頃から第二陣の客が押し寄せ、十時前まで賑わっていた超人気店の「割烹やました」ですら、八時を過ぎると入れ替えの客もほとんど来る気配もなく、コロナにより人の夜の行動パターンが確実に変わってしまったと実感させられた京都の夜でもあった。

 

そして、帰京後の6月18日に放映されたNHKの「ブラタモリ 鴨川編」の「川をたどれば京都がわかる?」を観てビックリ!!

我々が廻った行程をほぼそのまま辿った番組となっていたからである。

東京と長崎の間でスマフォのビデオ通話で旅のあれこれ会話が盛り上がったことは云うまでもない。

コキコキドライブ旅 7日目 その一 永平寺

福井県を訪ねて、曹洞宗の大本山・永平寺を参拝しないわけにはいかぬということで、朝一番で市内中心部から東へ16kmほど山間部へ入ったところにある永平寺を目指した。

門前町の土産屋・上街堂に車を置き、九時過ぎに龍門と呼ばれる正門についた。

々藩佞垢訥の参道
永平寺の朝の参道
11月半ばの平日の朝。人影もまばらな参道には“もみじ葉”が紅や黄の枝葉を重ねていた。

修行道場での思いがけないもてなしに、素直に道元禅師に感謝した。

参道の少し先にある参拝者入口の通用門をくぐりコンクリート造りの吉祥閣で拝観受付をし、雲水の方から伽藍配置など説明をいただいた。

 ̄癖浸参拝者入口
参拝者通用門
140名を数える雲水が現在修行中てあり、堂内で雲水の写真撮影は控えてもらいたいこと、修行中の雲水が起居する僧堂内には立ち入らぬことなど拝観の際の注意があった。

それから順路案内通りに伽藍内を拝観して回ることになる。

わたしに永平寺のイメージを一つ挙げろと言われれば、厳寒の季節、長大な階段を鉦を鳴らしながら疾駆する雲水の姿や無駄のない動きで素早く雑巾がけする若き修行僧のひたむきな面差しである。

座禅をくみ瞑想する“静”の世界より、堂内を駆け抜けてゆく颯爽とした“動”の映像世界こそが、わたしの「That's Eiheiji」である。

その“動”の象徴である大階段を、古希を迎えた老人がこれから杖を衝きながら黙然と上り下りするのである。

山の傾斜面を利用した七堂伽藍の最上部には他宗でいう講堂や本堂にあたる法堂(はっとう)がある。

)‘欧硫廊
法堂の廻廊
そこまで己の足で長い階段を昇ってゆき、そして降りてこなければ永平寺を拝観したことにはならない。左脚の不自由なわたしにとっては苦行の修行なのである。

そこで息を整え、杖を片手に握り直し、覚悟を決め、そして仰ぎ見た。

 ̄癖浸の長い上り階段
永平寺の階段
視線の先には・・・非情にも急勾配の昇り階段がつづいていた。

覚悟の先っぽからため息が洩れたが、踏み出してみると、階段の踏み面には奥行きがあり、蹴上げの高さも適度であったため、足や膝への負担は思ったほどでない。

‘Г潴未広い永平寺の階段
踏み面の奥行がある
とはいっても、時々小休止をとりながらの老体には結構な修行である。

陸上部で校庭を駆け抜けていた10代の頃、この程度の階段、どこまでつづこうが、一段跳びにも二段跳びにも飛び跳ねて行けたのになどと、誰への負け惜しみかわからぬが、雑念が次々と湧き出てきた。

そんな邪念とは無関係に、機械的に何とか一段一段、数をこなしていく。

階段に小さな踊場があった。僧堂への這入り口である。

〜瞭押[入禁止
僧堂への入口
140名もの雲水が起居しているとは思えぬほどの狭い廊下でつながっていた。

そこから少し昇った先に仏堂があった。

(殿 斜めより
仏殿
その前面の廻廊から右下に僧堂の全容をみることができた。

(殿より僧堂
仏殿前から僧堂をみる
このひと棟で雲水が起居し、厳しい修行に耐えながら生活しているのかと思うと、永平寺が今なお精神鍛錬の峻烈な道場であることが、実感できた。

さらに、ここから山門と仏堂の間に位置する美しい中雀門を見下ろすことができた。

(殿より中雀門を見る
仏殿から中雀門
しばしの休憩ののち、いよいよ最頂部の法堂へと向かった。

)‘
永平寺の法堂
法堂の外廻廊には長椅子が置かれていた。

そこで、永平寺の伽藍の佇まいを俯瞰した。

)‘欧らの眺望
法堂からの景色
眼前には伽藍の甍が重なり、遠く鬱蒼とした緑のなか一抹の黄葉を覗かせる山が見えた。

朝靄のように修錬場に流れ落ちる山気がわたしの胸中に満ち満ち、世俗の世で澱み、萎えた心のなかを一陣の清らな風が吹きぬけた。

永平寺という禅寺の佇まいはまるで水墨画のなかに鎮まっているようであった。その精神世界のなかに身を置いた己を見つめた。

)‘欧ら大庫院と仏殿の大屋根を見る - コピー
水墨画の世界
ここまで昇ってきた階段の数々・・・それはこれまでの人生の日々のようでもあった。

これから下ってゆくであろう長い階段・・・

 ̄癖浸の長い階段を下る
下り階段
それは残り少なくなったわたしの人生の下り階段のようにも思えた。

そして、そのどこかの踏み面にいまの自分の歪(いびつ)で小さな足跡がつけられるのに違いない。

その足跡はこれから訪れる無数の人々により踏みつけられ、削り取られて、いつの日にかそのわずかな痕跡でさえも、未来の雲水たちによって、きれいさっぱり拭き取られてしまう・・・そう思いなしたのである・・・

〇殻腓畔殿の間に位置する中雀門
山門と仏殿の間に中雀門
さて、永平寺の長い階段を下りきったその先にはどうした景色が待ちうけているのだろうか。

いや、人生という映像フィルムは唐突に断ち切れ、レンズの絞り羽根が閉まるように下り階段の途中で尻切れトンボの「終」を迎えるのかもしれない。

その時、世界はどんな色相を自分に見せてくれるのだろうか。それとも無意識界で色合いもへちまもないはず、そんな由無し事を考えながら下りはじめた。

途中で中雀門から表からは拝観できない山門を見下ろすことができた。

〇殻腓鮹羶門から_LI
山門を中雀門から見下ろす
この山門は一般人の通行は不可で、雲水のみが通ることを許されているのだそうだ。

しかもその雲水も、上山(修行開始)を認められて入門する際と厳しい修行に堪え行をおさめ乞暇(こうか=修行修了)・下山する際のたったニ度に限られるのだという。

大きな山門には外界と隔てる扉が存在しない。

その柱と柱の先の空間を見ると、この門は「入るにも易く出ずるにも易い」と感じるが、柱には「聯(れん)」と呼ばれる大きな長板が掛けられている。そこには「家庭厳峻不容陸老従真門入」、「鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来」と難解な漢字がならんでいる。

永平寺を知悉する人の説明によれば、

「永平寺の家風は非常に厳しいものである。地位や富がある者でも、真に仏法を求める者でなければこの門から入ることは許されない」

「この門には扉も錠もなく開け放たれているのだから、真に仏法を求める者はいつでもこの門から入ることができる」

と告知しているのだそうである。

読み下すのも解文するのも、息も脳みそも詰まりそうな白文ではある。

その「聯」の戒律を今尚守る永平寺は鎌倉時代の厳峻な精神世界を現代に伝える生きた史跡であるといってよい。


そしてわたしは雲水によって磨き抜かれた階段を最後まで降り切り、入館した通用門から伽藍の外へと出た。

法堂の廻廊で覚えた諸々の雑念は、疲れきった足腰と思考力の失せた脳漿で物の見事に雲散霧消し、SNOBに戻ったわたしは思い切り胸をそらし深呼吸をした。

俗世へ舞い戻る龍門へと向かった。

ゆるやかな下り坂である。永平寺の下り階段はまだ続いていた。

〇殻腓らの水墨画
山門から中雀門と僧堂をみる
そして水墨画の小世界の廻廊を巡ってきたわたしの頭上には、色鮮やかな紅葉の世界が広がっていた。

々藩佞留癖浸参道
龍門への参道は錦の饗宴
永平寺の下り階段の先にこんな世界が待っていたとは・・・、わたしの足取りはすこし軽くなった。

はてさて、龍門の外の俗界は今度はどんな色合いを見せてくれるのか。

まだまだ古希のドライブ旅はつづいてゆくのだったと、思いなして正門の外へ初めの一歩を踏み出した。

コキコキドライブ旅 6日目 その三 継体天皇の母・振媛の高向宮跡と足羽山公園の継体天皇像

東尋坊からわずか3kmのところ、九頭竜川河口に三国湊はある。

継体天皇が男大迹王(おおどおう)と呼ばれていた頃、福井平野は九頭竜川、日野川、足羽(アシワ)川が注ぎこむ大きな湖沼であった。度々洪水による水害に見舞われていたその一帯を、男大迹王が堰を切り壊すことで湖水を日本海へ流出させ、その泥地を肥沃な田園に変えたり、澪筋を浚渫し湊を築いたと伝えられている。

ゞ綟竜川
九頭竜川の河口
その湊こそ三国湊である。古来、水運による物流拠点として発展し、江戸時代には北前船交易の中継地という地の利を活かし物流の一大集積地として町は大きく発展した。その礎を築いた人物こそ継体天皇というわけである。

現在の三国は、全国にある中世に栄えた港町の景観と違わず、かつての繁栄を偲ぶ縁(よすが)は、僅かに残る豪商の旧宅を資料館として保存する人影も少ない“古い街並み”と呼ぶひと筋の往来のみである。

〇姐駝座
三国湊座
そこにならぶ「三国湊座」という字もかすれた看板を掲げる食堂で、われわれはご当地グルメと紹介されていた“三国バーガー”を注文し、ランチとした。

〇姐颯弌璽ー640円
三国ハンバーガー
その後、九頭竜川河口にたたずみ、往時、殷賑を極めたであろう湊の情景をしばし想った。

ゞ綟竜川河口と三国港
かつて殷賑を極めた三国湊はこの先の河口あたり
三国湊から内陸へ22km入ったところに、継体天皇ゆかりの「高向(たかむこ)宮の跡地」がある。

々盡神社社殿裏を走る県道160号板倉高江線
鄙びた県道160号線沿に高向神社
「日本書紀」によれば、五世紀の中頃近江国高島郡三尾に住んでいた彦主人王(ヒコウシオウ)は、越の坂名井(さかなゐ)から振媛(ふりひめ)を妻として迎え、その間に男大迹王が誕生する。がまもなく彦主人王が亡くなったので振媛は幼い男大迹王を連れて一族が支配する高向の郷に帰り養育したとある。

‥脹爐広がる高向の郷
田園地帯が広がる高向の郷
その跡地は現在一帯が田園地帯であり、まばらな人家のなかに紛れ込むようにして建つ式内社・高向神社(坂井市丸岡町高田)はまことに小さな神社であったが、古来、四字久保庄あたりで『古堂様』と呼ばれ、振媛一族の氏神を祀る高向郷の総社であった。現在のご祭神は振媛・継体天皇・応神天皇の三柱である。

々盡神社社殿と境内
小さな高向神社
狭い境内の一画には高向宮の跡地を標す石碑がぽつんと建てられ、この地が現在の天皇家につながる古い、古い縁の地であることを控えめに伝えていた。

々盡宮跡石碑
高向の宮跡を伝える石碑
そして、いよいよあの有名な継体天皇像を拝むために福井市内の中心近くにそびえる足羽山へと向かった。

継体天皇石像
継体天皇像
その足羽山山麓に祀られる足羽神社は男大迹王が越前平野の大干拓事業を興す際に、宮中神の「大宮地の霊(オオミヤドコロノミタマ) 」(=宮中の座摩5座の神(座摩巫祭神五座(イカスリノミカンナギゴサイジンゴザ)、足羽神はその1座)を勧請して創建したと伝わる。

足羽神社拝殿 修正
足羽神社拝殿
当社のご神紋は日と月と星をあしらうきわめて珍しい「三光の紋」であり、わざわざ宮中に祀る神々を継体天皇がこの地に勧請した事実に加え、天地を統べる天皇である証のような意匠はわたしに何かを暗示しているようにも思えた。

’凖惰癲神紋”三光の紋”
三光の神紋を飾る拝殿内
現在は、宮中で祀られる大宮地の霊(オオミヤドコロノミタマ)に加え、主祭神として継体天皇が祀られている。

足羽神社・社殿
足羽神社
そこから標高116mの福井市内を見下ろす足羽山頂上へと登ってゆく。頂上には福井市自然史博物館の建つ足羽山公園が整備されている。

足羽山公園・三段広場
足羽山公園
その三段広場の頂上に、足羽山でのみ採掘される青緑色の笏谷 (しゃくだに) 石で造られた継体天皇像が建っている。

〃兮療傾珍
笏谷石の継体天皇石像
三頭身の特徴ある継体天皇は威風堂々、あたり地をはらう雄姿を見せていた。

〃兮療傾弔里顔
継体天皇
そして、その大きく見開かれた眼は遠くに視線を投げ今もそしてこれからも福井平野の発展を願うように、その両肩に越の国の悠久の山風をおだやかにたなびかせていた。


陽も西に傾いてきた頃、最近、地方に行くと愛用している大浴場完備のドーミーインホテルチェーン、ドーミーイン福井(天然温泉「羽二重の湯」)へと向かった。

‐討鯖寿司完売の越前田村屋_LI
越前田村屋
夕食はJR福井駅直結の「プリズム福井」に入っている「越前田村屋」で名物・焼き鯖寿司を購入し、ホテルで摂る予定であった。

)未料饑廚房禿朕声
北の庄址に建つ柴田神社
駅までの途中、戦国武将柴田勝家の居城であった北の庄址に建つ柴田神社にお参りした。雨も降り暗くもなっていたので、遺構をくわしくみることは叶わず、残念であった。
)未両云覦箙
境内の北の庄遺構がきれいに整備されている
駅中のショッピングモール「プリズム福井」でお目当ての田村屋に辿り着いたが、人気店とあって焼き鯖寿司は既に完売、他店で購入し、夕食とした。それでも、結構、おいしかったので、夫婦ともに満足の態で越の国の一日目が過ぎた。

コキコキドライブ旅 6日目 その二 継体天皇と越の国

東尋坊を後にしていよいよ謎多き継体天皇(26)の伝承が多く残る福井県こと越前国へと分け入ってゆくことになる。

その越前国について簡単な説明をしておく。

全国を68か国に区分けした令制国(りょうせいこく)制度 (大化二年(646)の「改新の詔」にはじまり大宝律令、養老律令により整備された地方統治機構)において越前国は、国力基準(大国・上国・中国・下国)では「大国」13か国の一つで、日本海側では唯一、大国に分類されている。

また都からの距離基準(畿内・近国・中国・遠国)では、「中国」16か国の一つとされている。

このことから令制国制度が整備されていった7世紀から8世紀初頭にかけて、越前国は日本海諸国のなかで一頭地を抜いた国力を有する強国として認識されていたことがわかる。

その繁栄の礎を築いたのがこの地に多くの伝承を残す男大迹王(おおどおう)、のちの継体天皇であるという。

々谷(しゃくだに)石で造られた継体天皇の石像
足羽山公園三段広場の頂上に建つ継体天皇石像
その代表的なものを記すが、足羽神社に伝わる『越前国神社明細帳』などに残されている。

  日野・足羽・九頭竜の三河川のたびたびの氾濫で泥濘地から巨大湖(琵琶湖の約1/5)へ変貌したが、三国辺りで堰堤に水門を開き、湖水を日本海へ落とすことで肥沃な福井平野を創出した

  九頭竜川周辺の砂鉄から製鉄業を興し、刀剣など武具は勿論だが鉄製農具により灌漑用水の整備、農地の開墾を飛躍的に進めた

  男大迹王が壊れた冠を片山集落(鯖江市)の塗師に修理させたところ、見事に冠を修復し、加えて黒塗りの漆椀を献上。その出来栄えに感服し漆器づくりを奨励した

  男大迹王の時代に、川上御前(本邦唯一の紙の祖神)が村人に和紙漉き技術を伝え、日本三大和紙の一つとして最高品質の越前和紙技術をいまに残す

など、越前国の産業勃興にかかわる継体天皇伝誦の数の多さには驚く。

しかも畿外の地域でこの種の伝誦を数多残す天皇は私の知る限りこの継体天皇のみである。

‖羽山から福井市街が一望できる
継体天皇像から見渡す福井市内 

そんな継体天皇は応神天皇(15代)の5世の孫とされ、放埓暴虐を極めた武烈天皇(25代)が崩御され皇統が絶えなんとしたことを受け、仁賢天皇(24代)の皇女(手白香皇女(タシラカノヒメミコ))を娶り皇統をかろうじてつなぐこととなった。

書紀・継体紀(即位前紀)はその父母について、

「彦主人王(ヒコウシオウ)は近江国高島郡三尾(滋賀県湖西地方の北部)別邸から使者を遣わし、容貌端麗な振媛(フリヒメ)を三国の坂中井(=さかない・福井県坂井郡)より迎え、妃とした」と記す。

男大迹(オオド)はその父母の間に嫡嗣として近江で生まれた。

だが幼年時に父を失い母とともに郷里である三国の高向へ戻り、武烈帝の後を襲い即位する57歳までこの地方で王として威勢を張ることになる。

 

さて、応神天皇の五世の孫が皇統を嗣いだ経緯を詳らかに理解することは、昨年12月22日に岸田総理大臣に手渡された「皇位継承にかかる有識者会議」(座長 清家篤・元慶應義塾塾長)の最終報告書の内容を沈思潜考するうえで、きわめて示唆に富むものと思料する。

 

皇位継承にかかる有識者会議・最終報告要旨

制度的安定性が極めて重要で皇位継承の議論は機が熟していないとしたが、皇位継承の問題と切り離して皇族数を確保することは喫緊の課題であるとし、その方策として、

一、女性皇族が結婚後も皇室に残る 

二、旧皇族の男系男子を養子に迎える 

という二案を提示。

 

ここでいう旧皇族とは世襲親王家・臣籍降下宮家をいうものと理解するが、これが男系皇統をつなぐキーワードとなる。

 

そこで、皇族の定義についてであるが、大宝令(701)の原文が現存しないため、その後実情に合わせ改修した養老令(757)にまでさかのぼる。

養老令の全30編の第13「継嗣令」の1「皇兄弟子条」に、「親王より五世は、王の名を得るといえども皇親の限りにあらず」とされている。つまり、天皇の御子である親王を1世と数え、5代目は皇族にあらずということである。

 

また「続日本紀」によると大宝元年(701)3月に「初めて新令(大宝令)に基づいて官名と位号の制を改正した」とあり、それにつづく、新たな位階毎の服装を定めたり、中納言の官職が廃止されるなどの具体的記述をみると、大宝令が養老令と同程度に実態を伴ったものであったことがうかがわれる。

 

その「続日本紀」慶雲3年2月庚寅条(文武天皇・706年)、上記の養老律令発布の50年ほど前、大宝律令発布の僅か5年後に、大宝律令の7項目の改正が実施されている。

その「格・全7条発布、その7条」で、「継嗣令によると、天皇から五世の孫に相当する王は、王という名を得ているが、皇親(皇族)の枠にははいらない。現在、五世の王は皇親の籍から切り放し、臣下の扱いにしている。しかし親族をいつくしむ情からは戸籍を断ってしまうことに、心の痛みを覚える。今後は五世の孫も皇親の範囲に入れることとせよ」と、継嗣令の大改正が行われた。すなわち、天皇の皇子親王(1世)から五世の子孫までを皇族とするとこれまでの一代先の子孫まで皇族の範囲を広げたのである。

この改正により武烈天皇で途絶えようとした皇統を応神天皇5世の孫とされる男大迹王が皇統を嗣ぐにあたって正統性と法的根拠が与えられたことになる。

ではなぜ706年という年にこうした大改正が必要だったのか。

その時代、天皇の系譜を眺めるに皇統が絶える心配など微塵もないのにである。どうしても改正せねばならなかった必然性を次のようにわたしは考えている。

この時期、現在記紀と呼ばれる「古事記」(712)・「日本書紀」(720)の編纂の中身がほぼ固まったものと思われる。

そのなかで、天照大御神からの天孫族としての血統を時の天皇である文武天皇につなぐ正統性を示すには、武烈帝で途切れた皇統を継体帝につなぐ理屈をつくる必要に迫られた。そこで、急遽、継嗣令の改正に至ったと・・・。

皇統をつなぎ守ったわれわれの先祖の苦衷の選択を物語るはなしである。

 

そうした悠久の謎と先祖の智慧を胸に秘めて、東尋坊からわずか3kmのところにある九頭竜川河口の三国湊へと向かったのである。
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