彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

June 2021

霧ケ峰高原・霧ケ峰湿原の初夏、レンゲツツジは今が盛り

6月21,22日の両日にわたって車山肩の湿原と霧ケ峰高原を訪れた。

初日は車山肩のコロボックルヒュッテから見下ろせる湿原を歩き、湿原を貫く木道の両脇に広がる植物群落のなかにオレンジ色の花をつけたレンゲツツジや白い花をいっぱいに咲かせたコバイケイソウの群生を鑑賞した。

コロボックルヒュッテから見下ろす霧ケ峰湿原植物群落
ただ、ヒュッテから見下ろす湿原の遠景には白いコバイケイソウの植生は確認できるものの、レンゲツツジのおだやかなオレンジ色は残念ながら目に映えてはこない。

コロボックルヒュッテの脇から湿原におりる石ころの道を下ってゆくと、途中から湿原を貫くように一本の木道が伸びている。

⊆峪格の霧ケ峰湿原植物群落木道
この日は梅雨の合間とあって、自然道を歩く酔狂な人もほとんどない。車山のふもとに広がる湿原は静寂が支配している。湿原に響く音といえばそこここで啼くウグイスの声に、時折、ツガイの雉が鳴く声が交じるていど。頭上はるかに広がる大空と湿原の間にはまことに心鎮まるゆるやかな時の流れが満ちていた。

その木道の両脇に目をやるとようやくあの柔らかな橙色の彩りを目にすることができる。

細君はずっと昔見た写真ではオレンジ色がびっしりと敷き詰められたようなレンゲツツジの群落があったはずと云う。しかし、いまわれわれが目にできるレンゲツツジの木は老木が多いのか枝の半分くらいが枯れてしまい花のつかないものが数多く、また鳥にでも啄まれたのか枝につく蕾はまことに貧相である。

じ呂貉泙多く花の付きが悪いレンゲツツジ
そのため、オレンジ色が密集して目にも鮮やかに映えて見えるというのではなく、白っぽい枯れ枝の合間にチョロチョロと揺らめく小さな橙色の焔(ほむら)を観るようなものである。

勢いのあるレンゲツツジのオレンジは綺麗
その一方で、小さな白い花をとんがりコーンのような穂先に乱れ咲かすコバイケイソウは今を盛りと生気に満ちて見事である。湿原の各所に白い花で身を装い群れ咲いてみせている。

Д灰丱ぅ吋ぅ愁Δ侶架遒涼罎レンゲツツジの橙色
この梅雨の真っ最中に信州の高原を訪れる機会はこれまでめったになかった。コバイケイソウがこんなに清潔な白い花を咲かせるのだとはちょっとした驚きであった。というのもいつも盛りが過ぎた盛夏の頃によく湿原を訪れるためか、土気色の斑(ぶち)を染みつかせた葉っぱと、盛りを過ぎた花を冠したコバイケイソウの落魄した姿をたびたび目にするだけで、わたしはどうもこの花に薄汚いイメージを抱きつづけてきたようだ。

ジ事なコバイケイソウの白い群落
この度現金なもので、その可憐な白い花を穂先にまとわせる様を心ゆくまで目にしたゆえか、コバイケイソウという花が高原に初夏の訪れを告げる先触れの花、「高原の夏の魁(さきがけ)」とも名付けるべきであると掌返しに思ったところである。


次の日はレンゲツツジが多分、車山肩よりも沢山咲いているはずとの植物博士として我が家で高名な奥方さまがおっしゃるので、久しぶりに車山肩を過ぎてちょっとだけ足を延ばし、霧ケ峰高原へ向かった。

霧ケ峰高原へ ビーナスライン
霧ケ峰高原へ ビーナスラインをゆく
そこには自然研究路というアカデミックな名を冠する自然道がある。そこに目指すレンゲツツジの群落があるはずというのである。

〔献永自然研究路案内板
霧ケ峰自然研究路の説明板
小学生の時からどうも植物の名前を覚えるのがとんと苦手な私である。すぐ覚えられたのはイヌノフグリやブタクサといった悪ガキにはとても好ましい語感を伴う草花のみであった自分に、蓮華躑躅などというどこかありがたい名前をもつ植物を鑑賞する機会を持たせてくれた連れ合いには感謝するしかない・・・と、心より思っている。

ぢ茖官狠呂惴かう自然研究路
第4園地に向かう自然研究路
日頃運動不足の私である。5コースある自然研究路なる散策道を、できるだけ距離が稼げる、しかし、そんなに熱心に歩くことはどちらかと言えば避けたい。そんな自分が選んだのは第4園地をめぐる所要時間は40分ほど、距離にして1・5kmほどのコースである。


¬献永高原のレンゲツツジ
目指すレンゲツツジは園地の奥のほうに群生していた。なるほど車山肩よりも間近に鑑賞できて、まだ成木が多そうである。蕾も喰い荒らされていない。

トロトロ歩きの私である。途中で写真を撮るという理由で休憩しながらの歩きである。結局、1時間10分ほどの野辺歩きとなったが、群生するレンゲツツジの花をすぐ脇で鑑賞し、しっかり堪能することができた充実した時間であった。
ヂ茖官狠呂埜つけたアヤメ
と、ここで筆を置きたいところではあるが、実際のところは、野辺歩きのそこここで雑草の中からアヤメやハクサンフウロなどを見つけては歓声を上げる細君を横目に、いまだイヌノフグリに仲間意識を覚えてしまっている私に気づかされ、ひそかに舌を出している自分に、ほとほと情けなさを感じさせられた霧ケ峰高原のアカデミックな散策ではあった。

昔ながらの信州そば ビーナスライン沿いの「そば庄」

いつのころからか蓼科のビーナスラインは“そば街道”の別称を持つようになった。調べてみると、「ビーナスラインちの観光協会」が2016年に観光客の集客のために作成したマップにどうもその由来は求められるらしい。

蕎麦畑の白い花
蕎麦畑に白い花が・・・
県道192号線沿いにそば屋が多いので命名したというが、そもそも信州はそば処で有名。県内のどの街道もそば街道と呼ばれる資格を有するが、昔と比べて、ビーナスライン沿いにそば屋がふえてきているのは確かである。

なかでもバラクラ・イングリッシュ・ガーデン前のイタリア料理、リストランテ・イルポルトに隣接する“みつ蔵”というそば屋、いやそば処がいつも門前に蕎麦通を自認するであろう客が列をなしている。

2006年8月のブログでビーナスライン沿いのそば屋について記述しているが、それを読み返してみると、「みつ蔵」は5点満点の2点とずいぶん冷たい扱いをしている。

創業してすぐ訪れたはずなので、蕎麦がでてくるまでにずいぶんと待たされるなどまだ客あしらいに手馴れておらず、蕎麦の質というよりサービスの在り方に不満を抱いたようだ。

ところが、いつの頃からか“みつ蔵”の門前には群がる人々が目立つようになり、今では店の前には何台もの車が順番待ちをしている。

それを車上から横目で見るたびに、そこまでして蕎麦如きを喰らうことがあろうかと天邪鬼の虫が疼いてきて、15年間再訪を果たしていない。ということで店頭の写真すら撮ることもなく、だからここに掲載できないでいる。

しかし、日頃から価値観の多様性に重きを置く、要は自己主張にこだわらぬだけだと思うのだが・・・細君さまは、おいしい店で食べようと列んでいるのだから「人其々でいいんじゃない」といたって冷静で大人の対応で終始する。

現に、わたしの息子家族は何度か訪れているみたいで、「みつ蔵、おいしいよ」と若夫婦そろって無邪気にのたまっている。


そんなこんなでビーナスライン沿いのそば屋も栄枯盛衰の歴史を積み重ねてきているのだが、その15年前の彦左衛門のランキングで最下位に位置していたのが、今回、アップする「そば庄」である。

ビーナスライン沿いにあるそば庄_LI
ビーナスライン沿い、温泉旅館”滝の湯”手前に”そば庄”はある
「そば庄」は見るからに観光地の蕎麦屋という風情の館なのだが、旧中山道下諏訪宿にあった脇本陣(天保年間建築)をそのまま移築したものだそうだ。
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店内は今ではほとんど目にすることのできぬ三和土の土間づくりとなっている。それだけでも一見の価値があるので、だまされたと思って一度訪ねてみるとよい。

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今は珍しい三和土(たたき)の土間
こんなことを痴れっと言っている今の自分、まさにエッ!ということなのだが、実は最近、何度か通っているのだ。過去の自分の舌の感度を恥じ入ることもなく、こうして紹介しようとしている己に忸怩たるものはある。

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柱や梁に時代を感じさせる店内 

ただ、我が舌の名誉のためにいうのだが、“そば庄”も一時期、味が落ちたと感じて夫婦して足が遠のいた時期があった。あくまで推測ではあるが、当時は何らかの理由で本当に味が落ちていたのだと思う・・・たぶん・・・おそらく・・・。

ところが、2、3年前にほかの蕎麦屋が閉まっていたので、仕方なく入ってみたところ、あれっ!結構おいしいじゃないかとなったのである。

爾来、昼時に近くを通る際には時々立ち寄るようになった。そういう顛末で、本日、ご紹介する運びとなった。

セ該擇修
素朴な山菜蕎麦
今回、温かい山菜蕎麦の素朴な味を知ってもらいたくて、また、15年前のわたしの原罪を赦していただきたくこうしてブログにアップさせていただいた。

先日、食べた鴨せいろもシンプルでおいしかったので、写真を載せておく。

ヽせいろ そば庄
鴨せいろ
またそば庄のちょっと先のプール平から沢に下りてゆくと大滝という知る人ぞ知る名勝がある。

B臑譴ら流れる小川
老木の根が縦横に這う青苔の樹林を抜けた突き当りに大滝がある。
大滝
人声もなく、ただ滝の音のみが聴こえてくる。水音はすさまじいのだが、それをうるさいと感じるのではなく、逆に静寂を感じるのだから人の心とは不思議なものである。


また、“そば庄”を下ったところには、5月のGWの頃に満開となる桜の名所、聖光寺がある。今年は全国どこも桜の開花が早く、蓼科も5月1日でもう花が散り始めていた。

Δ修仂蔚瓩に桜が有名な聖光寺
聖光寺の桜
周辺にもいろいろ自然を愛でる場所も多い、そんな“そば庄”をぜひ御贔屓に。どこかのテレビ局の女子アナたちのように“そば庄”から何も利益供与は受けていないので、このブログ、ステマではないことだけははっきり言っておく。

2021年京都の桜 琵琶湖疎水・“哲学の小径”を辿る

京都最終日の3月26日は哲学の小径を法然院あたりから南禅寺までゆっくりと散策することにした。


⓪法然院の茅葺の山門
法然院 山門
椿で有名な法然院であっても、桜の樹くらいはあるだろうと高をくくってお参りしたが、境内に桜を見つけることはできず、手水鉢に浮かべられた椿の二輪の花びらで花見に替えた。
法然院手水鉢に二輪の椿
ただ、未練がましく寺域内をうろついたところ、墓地の傾斜地に枝垂れ桜が一本咲いているのを見つけたので、写真を撮った。

法然院の墓地に立つ枝垂桜枝垂桜
法然院の墓地に一本の枝垂桜
桜がないからだろう、現金なもので訪れる人はほとんどなかった法然院をあとにして、大きな石段を下り、“哲学の小径”いや現在でいう“哲学の道”に出た。疎水の両岸に桜並木が続いている。それなりの人出である。

疎水の満開の桜
疎水沿いに哲学の道 桜が満開
不自由な脚で南禅寺まで歩きとおせるか不安であったが、疎水沿いの桜は満開であった。

哲学の道
のんびりと細君とそぞろ歩いた。追い越していく人も多くいたが、もう少し頭上の桜花を愛でながらゆったりと歩を進めたらよかろうになどと、年寄りの負け惜しみとでもいおうか、風流を解せぬ輩は困ったものと嘆いたものだ。

さて、琵琶湖疎水に沿ってつづくこの“哲学の道”であるが、はじめて歩いたのは今を去ること半世紀も前のことになる。一浪後に大学入学を果たして無上の解放感とほとばしる希望に溢れた19歳の春のことである。入学手続きを終えた4月、京の安宿には炬燵がまだ設えてあり、朝夕の冷え込みが厳しい季節であった。

哲学の小径
かねて高校の恩師から東山の麓には疎水に沿って“哲学の小径”と呼ばれる鄙びた土手道があるから一度歩いてみるとよいと勧められていた。あの偉大な哲学者、西田幾多郎京大教授が思索を深め、“思惟”の重みで踏み固めていった散歩道があるというのだ。

善の研究 西田幾多郎
青春時代のど真ん中、精一杯背伸びしていた頭でっかちの自分にとって、難解な哲学を語る思想界の巨人が日々逍遥したという土手道、しかも“哲学の小径”なる尊称を冠された小径を歩いてなぞることで、哲学という高邁な空気感のようなものを肌で感じることができるのではないか、

哲学の道
疎水のほとり、まだ見ぬ風致のなかにわが身を置くことで、幾多郎のいう“微妙幽遠なる人生”の奥義の片鱗にでも触れてみることができるのではないか・・・などと夢想を逞しくし、土手伝いに歩いてみようと思ったのである。

哲学の小径 満開の桜が
“哲学の道”はもともと1890年(明治23年)、琵琶湖疎水が完成した際に設置された管理用道路であったということを、この度、知った。


そんなことだったから、昭和46年当時は未舗装の堤の両側に雑草がはびこる何の変哲もない細長い土手道であった。その夕暮れ時も観光客がわざわざ歩くほどのこともなく、地元の人が散策に使う常の道という景観であった。

その日は銀閣寺から南禅寺までを逍遥というよりは一気にせかせかと歩きとおしたが、哲学の小径の終焉近くに琵琶湖疎水を跨ぐ鄙びた土橋があった。どこか風情を滴らせる橋であったので、興味本位に対岸の東山の麓を少し上ってみることにした。

その山道をわずかに登ったあたりに苔むした石塔がいくつも転がっているひと隅があった。摩滅した刻字のなかに元号らしきものが見えたので、これは室町時代の頃の無縁仏だと勝手に決めつけてなぜか大発見をしたような気分でひとり悦に入ったことを思い出した。

遠くに土橋のような橋が
疎水を跨ぐ橋が目に入ってきた
それから50年後、記憶の中ではずっと土橋だと思っていた古ぼけた石造りの橋に遭遇した。確かに意識の底ひに埋もれていたあの土橋だ、山麓への道ならぬ細道がかすかに記憶に残っていた。そこで、足を止め、暫し双眸を閉じた。十九歳の自分を瞼の内に投影してみようと思ったからである。

それからしずかに目を開けてみると、目前には背を丸めた老人が欄干に腰をおろし無心に写生する姿があった。

写生する人
そして、山麓への登り口には鐵柵が立ちはだかっていた。わたしの“青の時代へ続く小径”は無情にも立ち入り禁止となっていた。

暗擽兇寮茲藁ち入り禁止
その登り口のすぐ脇に、当時はなぜか気づかなかった王女のお墓があった。江戸時代末期の皇族伏見宮貞敬親王の皇女・宗諄女王のお墓だと駒形の説明にあった。室町時代?の無縁仏といい、王女の御廟といい、この一画はひょっとしたらむかしは墓所として利用されていたのかもしれない。

宗諄王女の墓所
白塀で囲われた宮内庁管理の宗諄王女の墓所
この思い入れ深い“土橋”を過ぎると、“哲学の小径”もいよいよ終着点の若王子(ニャクオウジ)橋が視界に入ってくる。天気にも恵まれ、法然院を出立してから杖を片手にほぼ2時間の長閑な道行きとなった。

花びらを山風に散らす桜並木も途絶え、おだやかに流れる疎水に視線を転じると、点々と桜花を貼りつけた川面に番(ツガ)いの鴨がゆったりと身を任せるように浮かんでいた。

曳屬い粒が疎水の流れにのって・・・
思えば、50年前に19歳の青年が独り歩き通した哲学の小径を、いま、縁という糸で結ばれた男と女が共に老いを迎え、陸続と続く若人たちに先を譲りながら人生の終着駅へと一歩一歩、時を刻んで歩をすすめている。そんな懐旧と寂寞の想いを惹起させた“哲学の小径”の道行きであった。
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