彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

June 2014

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺

湖東三山巡りの最後に、十一面観世音菩薩をご本尊とする百済寺(ひゃくさいじ)へ向かった。

18・百済寺石碑
途中に百済寺の石碑

百済寺に向かう細い参道にベンガラを塗った家並みがつづく。何だかここから別世界へ入ってゆくような気がしてくる。

19・ベンガラの家並みがつづく
ベンガラ塗りの家並みがつづく

百済寺は飛鳥時代・推古14年(606年)、聖徳太子の発願により百済国の梵閣龍雲寺に擬して造られた。標高772mの押立山の山腹にあり、戦国時代に城塞化された城郭寺院だった頃の石垣遺構も残る湖東三山の中で最も古い寺院である。


平安時代に天台宗に改宗してからは300余坊の塔頭を構え、「湖東の小叡山」と云われるほどの大寺院として栄えた。


その後、大火事や兵火によってほとんどが焼失、その後、本堂などの再建は果たしたものの往時の殷賑を取り戻すことはなかった。


さて、駐車場で車を降りると大規模な石垣のようなものが見える。

20・中央が本坊の裏門。両脇に石垣がつづく。
石段の上に本坊裏門(受付)

その一画を割るように設けられた石段を昇った先に喜見院本坊(不動堂・書院・庭園)の建つ境内に入る裏門(受付)がある。

21・本坊・裏門受付
本坊・裏門

裏門をくぐると眼前に平坦地が広がる。

22・百済寺・本坊の建つ平坦地
裏門より表門をみる。左建物が不動堂、その左側に書院がある

遥か昔、二百を超える僧坊が林立していたかのと思うと、意味合いは異なるが、これもひとつの“兵どもが夢の跡”なのだとの思いが胸に去来した。


往時をしのぶ唯一の縁といえば、本坊辺りを二百坊跡、表門を挟んだ反対側を百坊跡と呼びならわす呼称のみである。

23・本坊横の庫裡と裏紋を見る
表門から庫裡・裏門を見る。庫裡の右側に書院

不動堂脇から書院横を抜けて池泉回遊式庭園へ出る。

24・本坊手前に不動堂
不動堂

切り出した自然石を池の周りに幾何学的に配した庭園である。

25・切り石が池泉を廻る
左の軒が書院、自然石の道が池泉をめぐる

切石を伝って池の反対側の狭い石段を昇ると、そこが天下の絶景を見渡せる自然の展望台となっている。

26・喜見院・池泉回遊式庭園と本坊(書院)
展望台への途上、書院を見る

展望台に立ち、前方を見はるかすと書院の甍の向こうに湖東平野が広がる。その向こうに初夏の陽光に白く光る琵琶湖をわずかに見下ろすことができる。

27・喜見院展望台から湖東平野を望む

さらに視線を凝らすと、とおくに薄墨を掃いたような比叡山の山容が認められる。

28・遠くわずかに琵琶湖、比叡山

その比良山脈の遥か先にこの地に多く住みついたという百済人の母国、百済国があるという。悠久の歴史を見つめてきた壮大な浪漫に満ちた望郷の丘である。



そして庭園を抜けて、いよいよ本堂へと向かう。長い石段が上っている。

29・百済寺の階段

この百済寺城の石垣の大半は織田信長が築城した安土城の礎とするため“石曳き”され、途中にわずかに城郭寺院時代の石組みも残されている。

30・百済寺城の石垣遺構

なかなか雰囲気のある味のある参道である。


そして、巨大な草鞋を掲げる仁王門に到達する。

31・仁王門
仁王門

そこから石段がまっすぐに本堂へと登っている。急勾配の石段を一歩一歩、踏みしめながら歩む。

32・仁王門からまっすぐ石段を昇ると本堂の石垣

やはり中世の一時、百済寺城であったことを偲ばせる苔生す石組みが圧倒的存在感を示している。いまにも鬨の声が頭上より響(とよめ)いてくるようなそんな気分になってくる。


そして石段を登り切るとそこは標高350mの押立山の中腹。突当りに城郭の石垣のような石組みにぶつかる。

33・本堂を支える城塞のような石垣
石垣の上に本堂が見える

石垣を右に迂回して、重要文化財の本堂の側面へ出る。

34・本堂横から
本堂の側面

百済寺は唐破風付き庇を掲げる正面から堂内へと入る。

35・本堂
唐破風庇付きの本堂

堂内は簡素かつ剛健な造りである。

36・本堂内・格子の奥に十一面観音立像
堂内・格子の奥に秘仏

その正面をふさぐ格子の内にお目見えが叶うご本尊、十一面観音立像が安置されていた。

37・釈迦山百済寺・十一面観世音菩薩
十一面観音菩薩

高さ3・2mにおよぶ大きな観音様である。

御開帳記念・百済寺


百済国の龍雲寺と百済寺の本尊は、同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わっている。巨木の上の部分が龍雲寺、下の根っこの部分から彫り出したのが百済寺の観音様であるという。そのため、秘仏・十一面観音立像は“植木観音”とも呼ばれているのだそうだ。


湖東三山最後の秘仏をゆっくりお参りし、しずかな境内へ出る。本堂左手に千年菩提樹が植わっている。

千年菩提樹と本堂
千年菩提樹と本堂

信長の焼き討ちの際に本来の幹は焼け崩れたものの、樹霊が命をつなぐかのように、その蘖(ひこばえ)は成長し、いまも本堂の脇に立っている。


絶対権力者の暴挙により形ある大伽藍は姿を滅したものの、百済寺の菩提樹は連綿と時を刻み、その命を紡いできている。


こうした姿を見せられると、ひょっとして神様、仏様はやはり存在しているのだ、人の心の中に秘かに棲まわれているのだと、そんな心持ちに捉われていったのである。


湖東三山・秘仏巡り、思いがけず一挙にその礼拝が叶い、また一段と仏像の魅力に魅かれてゆく老夫婦であった。



湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

西明寺のそんなしっとりとした気分を乗り越えて、次に聖観世音菩薩をご本尊とする金剛輪寺(こんごうりんじ)へ向かった。新緑がすばらしい。

9・明寿院書院・緋色と新緑
金剛輪寺・明寿院書院

金剛輪寺は奈良時代・天平13年(741)に聖武天皇の勅願により行基が開山した。


黒門(惣門)から本堂までまことに味わい深い石段が続いている。

10・金剛輪寺・黒門
金剛輪寺・黒門

苔生した石垣の真ん中に自然の石を敷いた参道がつづく。風のそよぎにつれ石畳に緑の影がゆらゆらと映える。

11・新緑の石畳・金剛輪寺

そよ風も山気も石畳も碧色一色に染め上げられたような新緑の隧道をくぐって本堂へ向かう。緑陰とはこれを言うかという涼やかな道である。

12・参道の両脇に千体地蔵がならぶ

参道の途中からは庶民の祈りをつなぐように千体地蔵が参道の両脇にずらりとならぶ。一歩、足を進めるにつれ粛然とした心境になってゆく。


やがて、石段の上に室町時代に建立された重要文化財の二天門が見えてくる。

13・重文・二天門
草鞋を吊るす二天門

二天門をくぐるとそこに本堂がある。鎌倉時代に建立されたどっしりとした本堂である。国宝に指定されている。

14・国宝・金剛輪寺本堂
国宝 金剛輪寺・本堂

堂内に安置されるご本尊・聖観世音菩薩から衆生を救うべく導きの紐が外界へと伸びている。

15・本堂のご本尊から導きの紐が延びている
秘仏・聖観世音菩薩と繋がる導紐を境内で握る

われわれ衆生がこの紐を握ることで菩薩と結ばれるのだという。早速、われわれ夫婦もその紐を握り、家内安全・家族の健康を祈った。

御開帳記念・金剛輪寺

そして、本堂の横から堂内に入る。ご本尊の正面に坐る。

16・松峰山金剛輪寺・生身の観音・聖観世音菩薩
聖観世音菩薩

秘仏の観音さまをひたすら拝む。


明寿院・緑雪崩れる
明寿院書院・碧雪崩れる

このご本尊については次の言い伝えが残されている。


行基菩薩が一刀三礼で観音さまを彫り進めたところ、木肌から一筋の血が流れ落ちた。この時、魂が宿ったとして粗彫りのまま本尊としてお祀りしたというのである。


その故、この聖観世音菩薩は「生身(なまみ)の観音」と呼ばれるようになったと伝えられている。


薄暗い堂内から初夏の日差しが眩い外へ出て、頭上に広がる新緑を見上げた。

17・新緑に埋もれる三重塔
新緑に埋まる三重塔

その先に新緑の葉叢に埋まるようにして建つ三重塔が見えた。とても爽やかで素直に美しい光景である。

新緑のなか
新緑に透ける本堂

そして、最後にうしろを振り向くと目にも眩い新緑に透けて、観音さまを守る本堂がひっそりと鎮まっていた。





湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺

湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=百済寺

2014年4月4日〜6月1日までの2か月間、天台宗の湖東三山〔西明寺(さいみょうじ)・金剛輪寺(こんごうりんじ)・百済寺(ひゃくさいじ)〕の秘仏とされるご本尊が一斉に公開された。


本来であれば御開帳時期は各寺で『住職一代で一度』の公開、つまり数十年に一度、それもくどいようだが三つのお寺で時期はバラバラであった秘仏の公開が。今年度は「湖東三山IC開設と交通安全祈願」を記して三山一挙の特別公開となった。


いつものように家内がその特別公開情報をキャッチ、葵祭で京都へ向かう途上、一時下車し、秘仏を拝観することとなった次第。


お蔭で当日は20年ぶりに新幹線“ひかり”に乗車。米原でJR東海道本線に乗り継ぎ、ひと駅先の彦根駅で降車。


そして事前に予約しておいた近江タクシー(湖東三山巡り4・5時間 19,890円)で5時間弱のスピード遍路の観光、もとい敢行となった。


たいへん親切で朴訥な運転手さんで半日だけの同行であったが、夕方、彦根駅でお別れする時は、何だか少ししんみりとなったものである。


湖東三山巡りの途中、まず、多賀大社へお参りした。

1・多賀大社拝殿・神楽殿・幣殿・本殿
多賀大社 拝殿・神楽殿・幣殿・本殿

古事記に「(子の須佐之男命を根の国に追い払い)故(かれ)、其の伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)は、淡海の多賀に坐(いま)す」と記される由緒ある神社である。


それからいよいよ秘仏巡りである。


まず、秘仏・薬師瑠璃光如来をご本尊とする西明寺(さいみょうじ)に参拝。

平安時代・承和元年(834)、三修上人が湖東に一寺を建立、仁明天皇より西明寺の勅願を賜わっている。

3・西明寺・惣門
西明寺・惣門

惣門から自然石を敷き詰めた幅のゆったりした石段がのぼっている。

4・二天門へのぼる石段

その最後、急勾配となる石段のうえに新緑の鮮やかな碧に染められた重文の二天門が見える。

5・新緑の西明寺二天門(重文)
新緑に染まる二天門

二天門をくぐって、本堂の位置する内境内へと入る。右手に美しい三重塔が建つ。鎌倉後期の飛騨の匠による建造物で国宝である。

6・国宝・三重塔

本堂は鎌倉時代初期に建立され、別名“瑠璃殿”と呼ばれる。鎌倉様式の釘を一本も使わない純和風建築で国宝に指定されている。

7・国宝・本堂
二天門より本堂を見る

本堂にあがり、回廊を左手に廻り、横から堂内に入る。いよいよご本尊の秘仏・薬師瑠璃光如来に相見えることになる。


薄暗い堂内、薬師瑠璃光如来がしずかにわれわれを見おろす。手を合わせ、お祈りする。

2・龍應山西明寺・薬師瑠璃光如来
西明寺本尊・薬師瑠璃光如来

そのお顔をじっと仰いで、もう生きているうちにこのご本尊にお会いすることはないのだろうなぁと思うと、人の一生って宇宙という悠久の時間の流れのなかでは、ほんの0コンマ0、0、0、0、0、0・・・・の1秒の世界といおうか、僕の肉体を構成する無数の細胞のなかでたったひとつの細胞がひっそりと命を終えていくような、そんな無限大のなかの虚数みたいな・・・、なんだか自分で何言っているのかよく分らないようなとても切ない気分になってくるのであった。

そして、西明寺には蓬莱庭という名勝の庭園がある。

8・蓬莱庭
蓬莱庭

ここの新緑のモミジは素晴らしい。さぞ、紅葉の季節は息を呑むような景観になるのだろうと趣きのある西明寺の石段をおりながら思った。

9・蓬莱庭から本堂へのぼる趣きのある石段
苔と新緑の緑がゆるやかに下る石畳にゆらゆらと反射し、わたしの心中に碧色の陽炎がするりと映り込んでゆく。

肺を思いっきりいっぱいに膨らませてみた。爽快なペパーミントの薫りがキューっと泌(し)み渡ってくるのがわかった。


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彦左の美術館=佐渡の幻想・大野亀

佐渡といえば〜・・・金山、もちろんごもっとも!!

0・道遊割戸
佐渡金山・道遊の割戸

もうひとつ佐渡といえば〜・・・ハ〜イ・・・トキ! そう学名ニッポニア・ニッポンの朱鷺であります。


てなことで、佐渡到着当日に早速、“トキの森公園(佐渡市新穂長畝383番2)を訪ねた。

2.トキの森公園入口
トキの森公園入口

両津港から3kmほど、車で10分ほどのところにあり、観光バスで来られた観光客も多かった。

3・トキ資料展示館
トキ資料展示館

まずトキについての基本的知識をお勉強しようとトキ資料展示館へ向かう。

4・サドッキー

その手前で、ゆるキャラの“サドッキー”がお出迎え。挨拶するも、声が聞こえなかったのはちょっと残念で物足りなかったかな。いや、老夫婦にそんなサービスしないのかな・・・


館内にはトキの生態やこれまでの飼育の概要や絶滅した日本生まれのトキのはく製などトキをめぐる苦難に満ちた歴史がわかりやすく展示されている。

5・日本最後の朱鷺、キン(2003年死亡)
2003年に亡くなった日本産最後のトキ”キン”のはく製

最後の日本産トキ“キン”のはく製は、人間の欲と都合で絶滅させられた朱鷺の恨みをみるようでどこか恨めしく哀切の表情を浮かべているように見えた。


そこで現在のトキの飼育数は何羽いるかであるが、


平成26年6月8日現在、国内で飼育中のトキは219羽で、平成26年度最初の放鳥は6月6日の19羽だそうです。われわれが訪ねた前日に放鳥されたのですね。


そして、飼育場所も鳥インフルエンザのリスク分散もあって、現在、佐渡のほかに多摩動物公園、いしかわ動物園、出雲市トキ分散飼育センター、長岡市トキ分散飼育センターで数羽から20羽程度がそれぞれ飼育されている。


また、放鳥されて自然界に生息するトキは70羽余り(トキの森HP)だという。


この6月20日、環境省は、佐渡市で放鳥されたトキから数えて3世代目にあたる野生の幼鳥1羽が、単独で餌を探す姿を初めて撮影したと発表した。徐々にではあるが自然界でたくましく生きるトキが増えていく様子が知れてうれしい限りである。


さて、数字の話ここまでで、われわれは展示館を抜けてガラス張りの観察回廊へ向かう。回廊から20mほど離れて繁殖ケージが設置されている。

6・観察回廊からトキの繁殖ケージを見る
繁殖ケージのひとつ。拡大してください、トキがいます。

ちょっと見づらいが、止まり木に憩う成鳥のトキたちが見える。朱鷺色の羽を広げた写真をと狙うも思うように朱鷺もサービスはしてくれない。当然、もちろん当然である。

7・トキふれあいプラザ
トキふれあいプラザ

少々、粘ってみたが見晴らしもそうよくないのであきらめて、次の“トキふれあいプラザ”での機会に賭けようとそちらへ足を運ぶ。ここは2階建てになっていた。

8・飼育ケージ
ふれあいプラザの飼育ケージ

まずケージ全体を見渡せる2階へ上がった。

雛はまだ羽の色もグレーがかっていて、まだ、トキらしさ?が感じられない。

9・二羽の朱鷺

何とかあの朱鷺色をと・・・飛んだ・・・撮ったがボケている・・・

これは腰をすえてシャッターチャンスを待つしかない。なかなか、朱鷺も飛翔しない。

10・3羽の雛が生まれた

ボランティア・ガイドの方も夕方になると活動し始めるので、もうそろそろですよと一生懸命にサービス相勤めてくれるのだが、ようやく飛んでくれても次の止まり木までのほんの2、3秒。

11・わずかに朱鷺色

羽ばたいただけのところを撮るのが精いっぱい。


音の洩れないガラスの内側にいる見物客からは一斉にため息が漏れる。
番(つが)いの朱鷺と今年生まれた三羽の雛がケージ内にいた。

1階から上を見上げてシャッターチャンスを狙ったのだが、雛の羽はまだ朱鷺色になっていないのだといわれた。なるほど・・・

12・子供なので朱鷺色までは
頑張って、これです。雛の羽、まだまだ・・・トキめき色には遠い

写真は撮って構わないが、もちろんフラッシュは禁止。なおさら、ブレるわなぁ・・・


ってなことで、ここでも冒頭に載せた両津港で飛翔するトキのポスターを撮影しておいてよかった。やはり、玄人は違う・・・、当り前か。


1階の窓からはエサを食べるトキを目線の高さで、それも数センチの間近さで見られるというが、この日はこちらには来てくれなかった。ちょっと先にある餌場でエサをついばむ雛鳥を撮らせていただいた。

13・エサをついばむ雛鳥

何だかこのうちの一羽はず〜っと食べていましたが、こうした鳥が生命力があるのだるなぁと感心したりしながら30分ほど頑張ってみたが、後の予定もあるので“トキの森公園”を後にした。

14・たくさんの観光バス

入館締切の4時半まであと30分というのに、まだ、観光バスが到着していたのには驚いた。でも、このご一行のなかで、偶然、美しい朱鷺色を写すことができる人がいたりするんだよなぁ・・・


人生ってそんなところあるでしょ、貴方。ほんと面白いですよねぇ。


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文中3年(1374)、京都の新熊野(いまくまの)神社(東山区今熊野椥ノ森町42)にて観世清次(後の観阿弥)は結崎座を率い”今熊野勧進猿楽”を興行した。

世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字を刻む石碑
新熊野神社に建つ世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字

時の将軍足利義満はそこで藤若丸(後の世阿弥)を認め、その美貌と技量を高く評価し、父と共に将軍の同朋衆へと取り立てた。


世阿弥は生来の素質を開花させ、義満の庇護の下で申楽を能へと大成させていった。

新熊野神社
能発祥の地、新熊野神社

しかし、齢とともに将軍も代が変わりその恩寵も薄れてゆくなか、観世流の本流は甥の音阿弥(世阿弥の弟・四朗の子)が仕切り、公職たる楽頭職も同人に移っていった。


世阿弥71歳の時、著作・『却来華』のなかで「(後継者であった嫡男の)元雅早世するによて、当流の道絶えて、一座すでに破滅しぬ」と記すなど、能の表舞台から遠ざけられ、後継者たる嫡男を一年前に失い前途を悲観していたことがうかがわれる。


そうした失意のなかにあった永享6年(1434)、罪状は定かではないが72歳という高齢で、第6代将軍義教により佐渡配流の憂き目にあうのである。


さて、世阿弥は佐渡で七編よりなる小謡曲舞(こうたいくせまい)集・“金島(きんとう)書” を著している。それに拠って世阿弥所縁の地を訪ねてみることにしよう。


第二編の『海路』に、「下(しも)の弓張りの月もはや、曙の波に松見えて、早くぞ爰

(ここ)に岸影の、爰はと問えば佐渡の海、大田(おほだ)の浦に着きにけり」とあるように、世阿弥は日蓮が上陸した松ヶ崎に隣接する多田の地に配流の一歩を刻んでいる。


「(佐渡に着いた)その夜は大田の浦に留まり、海人の庵の磯枕して、明くれば山路を分け登りて、笠かりという峠に着きて駒を休めたり」とあり、「そのまま山路を降り下れば、長谷と申て観音の霊地わたらせ給。故郷にても聞きし名仏にてわたらせ給えば、ねんごろに礼拝」している。

3.観音堂から見る長谷の山々
長谷寺観音堂から見る長谷の山並み

配流一日目は多田の浦で一泊、翌日、笠借峠(現在の笠取峠・誤記との説も)を越える。そして、長谷(ちょうこく)寺に立ち寄っている。

4.長谷寺・仁王門
長谷寺・仁王門

そこで今では33年に一回開帳される秘仏のご本尊、十一面観音立像三体を世阿弥は礼拝したと記している。

5.階段上に観音堂
自然石の急な石段がつづく

長谷寺の急な石段を登り切った処に観音堂が建つ。

6.長谷寺・本堂
長谷寺・本堂

そして本堂は石段半ばに位置している。

7.世阿弥も参拝した観音堂
観音堂

当時、世阿弥がどちらに礼拝したかはもちろん詳細は分らぬが、説明板は観音堂の前にあった。


長谷寺に立ち寄ったあと、「その夜は雑太(さうた)の郡、新保(しんぽ)と云ところに着きぬ。国の守の代官受け取りて、万福寺と申す少院に宿せたり」とその行程を述べている。

8.世阿弥配処・万福寺跡石碑
佐渡市役所の西側辺りが万福寺跡

いまの佐渡市役所の西に隣接する万福寺跡が最初の配処ということになる。わたしが立つこの地をあの能聖・世阿弥も同じように踏みしめたのかと思うと、”跡”という語感もしみじみと耳に響いてきて趣きがある。

9.万福寺跡説明板

ここが、世阿弥の最初の配処である。

10.万福寺跡石碑

現在、万福寺は廃寺となっており、往時をしのぶよすがはそこに建つ石碑のみである。


第四編の『泉』に、「泉と申す所なり。これはいにしえ順徳院(順徳天皇)の御配所なり。・・・鄙(ひな)の長路(ながじ)の御住居、思いやられて傷(いた)はしや。所は萱が軒端の草、忍ぶの簾絶々(たえだえ)なり」とある。

11.黒木御所跡前
県道306号線に面する順徳天皇配処・黒木御所跡

世阿弥は次の第五編で述べているが万福寺より泉という地に移された。その泉の配処・正法(しょうぼう)寺から北へほんの400mほど歩いたところに順徳天皇(承久の変で配流)の仮御所・黒木御所跡がある。

12.黒木御所敷地内
黒木御所跡敷地内

世阿弥は徒然なるままに近くの黒木御所跡をたびたび訪れていたのであろう。


そして22年間の流刑の末、この地で果てた順徳天皇が荼毘に付された真野山・火葬塚(真野御陵)にも世阿弥は足を運んだに違いない。

13.真野御陵
順徳天皇の火葬塚・真野御陵

そこには天皇が失意のなかたびたび散策されたという御陵参道の先に小暗がりの石道があるからである。

14.奥に順徳天皇の御陵
手前柵外から撮る・この奥に火葬塚

おそらくこの石道を世阿弥は順徳天皇に心を寄せながらひとり歩いたことだろう。

15.真野御陵参道
真野御陵参拝所への参道

今では“順徳天皇遺愛の石道”と刻まれた石柱が道端にぽつんと建つのみである。

16.御陵前に建つ”順徳天皇御遺愛の石道”を刻む石柱
御陵参道の礼拝所への曲り角に建つ”ご遺愛石道”の碑

人影のまったく見えぬひっそりとした世の中から取り残されたようなさびしい小道である。


第五編『十社』に、「かくて国に戦起こりて国中穏やかならず、配所も合戦の巷になりしかば、在所を変えて今の泉という所に宿す。さる程に秋去り冬暮れて、永享7年(1435)の春にもなりぬ」とあり、戦によって新穂の万福寺から逃れ、泉の正法寺へと配流先が変わったことを述べている。

17・正法寺山門
正法寺(しょうぼうじ)山門を見る

そして、この正法寺にて、「ここ当国十社の神まします。敬神のために一曲を法楽す」とあり、能を奉納したことが記されている。

18・正法寺本殿
正法寺・本殿

これが佐渡で世阿弥が能を舞ったといわれる唯一の記録である。

19・この本堂内で”ろうそく能”を催す
この本堂内で行われる”ろうそく能”のように、世阿弥もここで舞ったのか・・・

であれば、正法寺に伝わる世阿弥の“雨乞いの面”を被り、世阿弥がこの本堂で能を舞ったということも十分、考えられるのである。

20・神事面べしみ・佐渡HDR写真研究所より
正法寺に伝わる世阿弥の雨乞いの面(佐渡HDR写真研究所より)

後日、分かったのだが、事前に正法寺に電話でお願いしておけば、住職自ら、雨乞いの面を見せていただけるということで、残念至極、無念やるかたないところである。

21・世阿弥太夫御腰掛石
世阿弥の腰掛石

境内には、世阿弥が腰掛けたと伝わる“腰掛石”も史蹟として残されている。

能に興味のあられる方は、是非とも訪れる価値のある正法寺である。

22・山門前に”世阿弥太夫旧跡記念碑”
正法寺山門前に建つ”世阿弥太夫旧蹟記念碑”

正法寺は記録で確認される限り世阿弥が最後に能を舞った処である。まさに能のパワースポットともいえる場所である。


そして、嫡男元雅亡き後、後継者と定めた女婿・金春禅竹に宛てた書状、永享7年(1435)6月8日付の “佐渡状”を最後に、世阿弥の足跡は張りつめた絹糸を断ち切ったように見事なまでに絶たれ、その行方、没年も杳(よう)として知れないのである。


一説によれば、嘉吉3年(1443)、世阿弥は81歳で他界したという。

観月能・紅葉狩り
厳島・観月能

その歿地も佐渡であったのか赦免されてどこか他国にて死去したのか、宿敵義教暗殺が観能の最中だったという宿怨、まさに怨霊を演ずる夢幻能のごとく世阿弥はその現身を霧の中にかき消すようにして己の生涯の幕を閉じたのである。


能を能たらしめた夢幻能を世阿弥自身が存在を晦ますことによって昇華させたとしか云えぬ不思議な夢現の生涯であったように思えてならない。





彦左の美術館=佐渡の幻想・大野亀

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佐渡島の北端に巨岩、大野亀はある。

早朝、二ツ亀にあるホテルから海岸へ降りる。海岸から賽の河原の方向を見ると、遠くに大野亀が見えるはずであった・・・
海霧に沈む大野亀
大野亀は海霧のなかに埋もれるようにしてその巨体を隠していた。
霧の山・大野亀
幻想的な風景である。
幻想
海と空と巨岩が織りなす早朝の造形・・・
朝霧にかすむ大野亀
おとぎの国にでもいるような・・・
霧に隠れる大野亀
ファンタジーがこれからはじまるような・・・

そんな不思議の国が佐渡島の大野亀にあった・・・




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家内が会員となっているJR東日本・“大人の休日倶楽部”から毎月、“旅マガジン”という小冊子が送られてくる。そのなかに、日本海をバックにトビシマカンゾウが群生する写真が掲載されていた。


花が大好きで、毎年、やれレンゲツツジだ、もうニッコウキスゲだと蓼科へ通っている家内がこの景観に飛びつかぬはずはない。

霧ヶ峰・富士見台のニッコウキスゲ
霧ヶ峰・富士見台のニッコウキスゲ(2013年7月17日)

ということで、トビシマカンゾウとの出逢いを求めた佐渡の旅となった次第。時期は6月上旬がよいというので下調べをすると薪能もその月に全島で開催されるというので観能も兼ねての旅となった。


今を去ること“うん十年”前の青春時代に訪れた北海道・積丹(しゃこたん)半島の覆いつくすように乱れ咲くエゾカンゾウの話を何度聞かされたことか・・・


さて、トビシマカンゾウであるが、ニッコウキスゲとの違いがよく分らぬ。そこで調べてみると、こうである。


トビシマカンゾウはユリ目・ユリ科・禅庭花(ゼンテイカ)orワスレグサ属の一種であり、ニッコウキスゲもこの系統のなかにあり、ゼンテイカ属に属す一種なのだという。


要は高原に咲くのがニッコウキスゲ、島嶼部に咲いているのがトビシマカンゾウと素人はザックリと覚えておけばよさそうである。


そこで、なぜ、トビシマかと云うと山形県酒田港沖合39kmに浮かぶ飛島で発見されたことからその和名がついたとのこと。


そして、このトビシマカンゾウは飛島と酒田海岸とここ佐渡の地にだけ棲息している稀種であるという。


さぁ御託はそれくらいにして、大野亀のトビシマカンゾウの群生をご覧にいれよう。


大野亀は佐渡島の北端にあるひとつ岩の山塊である。佐渡45号一周線で佐渡島の西海岸を北上し、その突端に近づくと遠くに岬が見えて来る。海に向かって沈み込んでゆく岬の先っぽに瘤のようなものが見え隠れする。

奥の岬突端にポコンと盛り上がっているのが大野亀
遠くに見える岬の突端にポコンと見えるのが大野亀

海上に突き出しているのが大野亀である。

岬の突端、大野亀

まさに日本の三大巨岩のひとつと謳われる“海抜”167メートルの一枚岩である。大きい、これ全部がひとつの岩だと思ってみると、自然の造作とは半端でないことを思わざるを得ない。

ひとつの山塊である大野亀

因みにあと二つの巨岩は、和歌山県古座川町の高さ100m、幅500mにおよぶ“古座の一枚岩”と屋久島の高さ200mの“千尋(せんひろ)の滝の花崗岩”だとのこと。


広い駐車場に車を置き、早速、大野亀の裾のなだらかな丘陵を登ってゆく。

なだらかな丘陵を登ってゆく
正面丘の左手に大野亀

突当りで左に曲がれば、大野亀の頂上を目指す道となる。

大野亀への道傍にはトビシマカンゾウが見当たりません
写真真ん中のT字路で右手に上がってきました。見えるのは大野亀頂上。

こちらの方は日当たりの関係かそもそもトビシマカンゾウの株が少ないのか、黄色い花は疎らである。頂上に登って見渡す景色は圧巻とはわかっていても、傾斜のきつい一本道を見るだけで、当方、あっさり登頂を諦める。


反対に右手の二ツ亀方向の斜面一面はいまを盛りにトビシマカンゾウの群生である。


大野亀を背に、二ツ亀方向を
右手にトビシマカンゾウの群生、海上に二ツ亀が見える

橙黄色で埋め尽くされて、これはさすがトビシマカンゾウと唸り声を上げるしかないダイナミックな景観である。

トビシマカンゾウと二ツ亀

信州の霧ヶ峰や車山の高原で見るニッコウキスゲの風景とは異なり、橙黄色の花々の向こうに空と海を切裂く絹糸のように繊細な水平線が見える。胸のすくようなスカッとした光景である。


そして遊歩道の手すりから身を乗り出すと、切り立った崖から海際まで橙黄色の絵の具を垂れ流したようにカンゾウの花が滴り落ちていた。

波打ち際までカンゾウの花が

群青色の穏やかな海面には沖合に出てゆく漁船の澪が二筋、暢々と糸を曳いている・・・

漁船とトビシマカンゾウ

真っ青な空をバックに橙黄色のトビシマカンゾウの花を見上げる。美しい・・・

佐渡の空にトビシマカンゾウがよく似合う

梅雨入りして間近だが、前日の小雨模様は一転、日本晴れである。空高く、一羽の鳶がゆっくりと輪を描いている。

日本晴れ

当日は6月9日、例年開催される“カンゾウ祭り”の翌日であった。

トビシマカンゾウの群生

花は7分咲き程度とみられるが、日当たりの加減であろうか、一日花のカンゾウはある所はもう萎んでいるが、ある個所は一面、満開と目を向ける方向で橙黄色の世界には濃淡がある。

BlogPaint

昭和30年代にはこの大野亀は牛の放牧が盛んで、牛が雑草を食べてくれたので、6月には本当に橙黄色の絨毯を一面に敷き詰めたようであったという。

トビシマカンゾウと大野亀

その放牧がすたれてゆくと同時に熊笹をはじめ雑草が繁茂し、徐々にトビシマカンゾウが駆逐されていき、このままでは大野亀のトビシマカンゾウも絶滅の危機に瀕した時期もあったそうである。


それを見て、地元の人々が雑草の手入れを行なうようになり、現在の景観を取り戻していったということである。

佐渡を世界遺産に

いま、佐渡は佐渡金山の遺跡を柱に世界遺産登録を目指している。心から応援したいと思う。


と同時に、大切に守られてきた素晴らしい自然が大勢の人出で踏みにじられる危機をわざわざ作り出さなくともよいのではないかという逡巡する気持ちも生まれて来る。


トビシマカンゾウ越しに眼の前に広がる渺々(びょうびょう)たる日本海を眺めていると、そうした相矛盾した気持ちが交錯し、ちょっと複雑な気分に襲われたのである。





海江田民主党党首、党首討論・集団的自衛権の行使容認批判は笑止

佐渡旅行から帰って来てまだまだアップしたい記事が多数ある。


しかし、11日の海江田万里民主党党首と安倍晋三総理との党首討論を聞いていて、さすがに佐渡のトビシマカンゾウがきれいだったと報告する前に、ひと言、集団的自衛権の行使容認について述べざるを得ない。


そもそも民主党は結党時に「基本理念」と「基本政策」を定めたものの、いわゆる公党としての綱領を有せずにきた。就中、現行憲法の在り方については党内意見の集約をこれまで怠ってきたと言える。


2013年2月24日の党大会で、民主党綱領をようやく採択したものの、公党結成の中軸となるべき国家観の共有に強くかかわる現行憲法の在り方に関し、その記述はあいまいであり、1998年結党時の基本理念の域を出ていない。


採択された党綱領で憲法については、「憲法の基本精神を具現化する」として、「私たちは、日本国憲法が掲げる『国民主権、基本的人権の尊重、平和主義』の基本精神を具現化する。象徴天皇制のもと、自由と民主主義に立脚した真の立憲主義を確立するため、国民とともに未来志向の憲法を構想していく」と、現行憲法の護憲なのか、改憲なのか、はたまた新憲法制定を目指すのか、まったく分らぬ表現となっている。


現下の東アジアには豺狼(さいろう)のごとき無法国家が跋扈する。


11日も東シナ海公海上を警戒監視していた自衛隊機2機に対し、中国の戦闘機2機が30mもの近さまで異常接近してきたという。つい2週間ほど前にも中国戦闘機がやはり30mの至近まで異常接近している。


そして、中国公船等が尖閣諸島周辺の接続水域内への入域や領海への侵入を繰り返すなど東シナ海における空・海での中国の力による脅嚇(きょうかく)行為は、今やいつ偶発的事故、衝突が起きても不思議ではない緊迫した状況となっている。


他方で、核兵器開発を急ぐ独裁国家・北朝鮮の動向もミサイル発射実験の多発とも併せ、東アジア情勢の弾薬庫と化し、その存在は金正恩の思考が読めぬこともあってきわめて不気味である。


先の大戦以降、国家安全保障上初めての目の前の危機といってよい現下の国際情勢を前にして、昨日の海江田民主党党首、野党第一党党首の討論は涙が出るほどに情けなく、これが日本国民を代表する国会議員の一方の旗頭なのかと、呆れ果ててしまった。


6月4日に民主党内の勉強会「防衛研究会(会長・前原誠司元外相)」が公表した「安全保障基本法案」の骨子では、集団的自衛権の行使を限定的に認める内容となっている。


現実的な対応としては、自民党の認識、方向感と大筋においてほぼ同じといってよく、国家安全保障に重大な問題について日本の最大野党は党内の意見統一が図られていない。党の分裂を惧れるあまり、国家安全保障上の重要課題について議論さえ行われていない。


笑止である。これで公党としてよく国会論戦に恥ずかしげもなく加われるものだと呆れてしまう。だから、昨日も党首討論冒頭に海江田代表が集団的自衛権に対する民主党の考え方を次の通り述べたが、安倍総理から、「果たして(民主党の)立場はどこにあるのかよく分かりませんでしたね」と軽く一蹴される始末。


*「集団的自衛権の行使について民主党の見解を申し上げる。これまで長年にわたる憲法解釈があり、この解釈を正面から否定して、集団的自衛権の行使一般を容認する変更は許されない。集団的自衛権を行使したいのならば、憲法改正の申し出をすべきだ」


いま目の前にある危機に対処するに際し、政治家はひたすら冷徹な現実主義者であらねばならない。そうでなければ、国家の安全、国民の生命・財産など守り切れるものではない。


その意味で、今回の党首討論はあまりにお粗末で、一国を代表する与野党のトップによる安全保障論争とはおよそ遠く離れた幼児の言葉遊びを見せられているようであった。


海江田党首が集団的自衛権の行使容認については憲法改正でやるのが筋だというのなら、それでは今の間近の危機を民主党はどうやって乗り越えようと考えているのか明確に国民の前に示したうえで自民党を責めるべきである。


よもや日本の国会議員が列をなして中国や北朝鮮へ赴き、習近平国家主席や金正恩第一書記の手を戴き、笑顔で握手でもすれば事は無難に済むとでも考えているわけではあるまい。


こんな野党第一党の体たらくゆえに本来の安全保障議論の深まりが期待できないのである。


本来、集団的自衛権の行使容認議論を行なう際には、この国の防衛を将来ともに現行憲法の枠組みのなかで日米安全保障のフレームを前提に考えるのか、それとも憲法改正あるいは自主憲法制定を想定し、急迫した現在の国際情勢への対処に慰労なきことを期し次善策として議論を深めるのかの、そもそもの現行憲法に対する姿勢が問われなければならない。


わたしは米国がかつての力を失ったいま、この国は本気で自分の手による防衛を考える時期に来ていると考える。


海江田代表が「日米安保条約は総合的にバランスの取れた義務をそれぞれが負っている。首相は米国とのイコールパートナーシップによって、先の太平洋戦争の歴史をひっくり返そうとしているのか。そうした考え方こそが日本の安全保障にとって大きなリスクだ」と言った意味がよく分らぬ。


いまのこの国の防衛が日米の“総合的にバランスの取れた義務”によって担保されていると本気で考えているのだとしたら、この人物は国際政治をまったく理解できていないと言うしかない。


また、日本国の真の独立とはいったい何なのかといった国家観に関わるテーゼについてもこれまで思念をめぐらせたことがないのかも知れない。


現行憲法を金科玉条とするのなら、まず前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とした国際政治に対する認識が大きく損なわれた現在、この憲法に謳う9条第2項の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」ということでは、自国の防衛は果たせぬのではないのか。


また、米国の核の傘に守られてきた戦後日本の安全保障も、日米安全保障条約の陰に隠れた“日米地位協定”、即ち、「合衆国の軍法に服するすべての者に対して、また米軍基地内において、合衆国の法令のすべての刑事及び懲戒の裁判権を日本国において行使する権利を有する。」という治外法権適用の外人疎開地の存在を自儘に許した不平等条約との代償によって確保されてきたと言えるのである。


日米地位協定を法律的にそのまま準用すれば米軍は米軍基地を日本国内に必要とすればどこにでも設置することが可能とされている。


戦後、70年が経過した現在でも、沖縄はもとより首都東京に敵国であった軍事基地が存在する国家など、およそ独立国家と呼ぶことはできない。


国家の尊厳を見失い、屈辱的地位を当然としてきた“植民地根性”丸出しの安全保障議論でよいのか。自分たちで自国を守るという普通の国、尊厳ある国家をめざすべき時が来ているのだと考える。


 


世阿弥が配流された佐渡島で“天領佐渡両津薪能”にパルピテーション=佐渡の旅

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彦左の美術館=佐渡の幻想・大野亀
佐渡・“トキの森公園”で、朱鷺色?のトキに“トキ”めいた〜=佐渡の旅


六月七日、椎崎諏訪神社にて“天領佐渡両津薪能”に興じた。

薪能・花月

佐渡には神社の境内を中心に33もの能舞台が存在し、その数は日本全体の能舞台の1/3におよんでいる(新潟文化物語・佐渡の能)という。

2・大膳神社能舞台
大膳神社能舞台

佐渡がこれほど能に縁の深い土地となったのには、初代佐渡奉行となった大久保長安の貢献が大きい。

3・佐渡奉行所
佐渡奉行所

佐渡金山の生産量を飛躍的に伸張させた大久保長安であるが、大和の猿楽師の息子に生まれ、必然、能の愛好家でもあった。

4・佐渡金山・道遊の割戸
佐渡金山・道遊の割戸

それゆえ長安は佐渡に春日神社を建立し、大和から常太夫と杢太夫を招き、能を奉納した。その後、二人は佐渡(相川)に留まり、土地の人に能の手ほどきをしたと伝えられている。


当初は武士の間で能が楽しまれてきたが、孤島の佐渡では支配階級の武士の人数も少なく、任期も短いなか一国天領というのびのびとした国柄もあり、徐々に庶民が能に接するようになり、神社への奉納舞としての出自を背負ったこともあり、神事として領民の生活の一部ともなっていったものと考えられる。

29・ワキと地謡
地元の人による地謡とワキ

そうした経緯、背景から佐渡の人々にとっての“お能”は、単に受け身の観るものではなく、自らが舞い、謡(うた)い、囃(はや)す能動的なもので、まさに自らが能を演じる“演能”として育っていったのである。

30・囃方
囃方ももちろん地元の方々

能が最盛期となった幕末から明治、大正年間には、島内の能舞台は200を超えるほどの数となったということである。


現在に残っているのは33と大きく数を減らしているとはいえ、依然、日本全体の1/3の数を擁する能興行のメッカであると言ってよい。六月は週末ごと集中的に能が上演されており、週末に来島した観光客はどこかで能を鑑賞できることになっている。


6月7日(土)に“天領佐渡両津薪能”を椎崎諏訪神社で観覧した。

7・諏訪神社
椎崎諏訪神社

椎崎諏訪神社の境内にはりっぱな能舞台が常設されている。

10・椎崎諏訪神社・能舞台
椎崎諏訪神社能舞台

当日は境内内といってよい場所に立地するホテルを宿泊先としていた。薪能の開演は7時半ということで、まず賀茂湖を見下ろす露天風呂で一汗流し、荷物をホテル従業員に預けて、そのまま諏訪神社におもむく。

6・薪能案内板
薪能案内板

境内には能舞台前にブルーシートが敷かれ、その後ろに椅子席が設けられていた。観覧料はひとり五百円。

8・諏訪神社拝殿と薪能の見所
諏訪神社拝殿と見所

われわれは地の利を活かし、一時間少し前に席を確保した。椅子席の方が足腰には楽だし、能舞台の床、つまり演者の足元もよく見えるのでよいのだが、かぶりつき(下世話な言い方で失礼)で見ることなどそうそう機会はないということで、正面の階(きざはし)の真ん前に陣取った。

9・見所正面に陣取る
見所正面に陣取る

どっかとシートに腰を下ろし、開演までの一時間余を拝殿での参拝、舞台の見学、薪能の開演直前の段取り等を具に観察させてもらった。

11・火入れ式を待つ巫女さん
火入れ式を待つ巫女さん

七時半に近づくと、ぞくぞくと客が集合。旅館の送迎バスも繰出すなど、この演能月間が観光客に周知されていることを知る。


時間通りに開演するも、場内アナウンスで開演直前から強まってきた風の影響で、火入れ式は行わないという。火の粉がお客に降りかかるので説明されるが、わたしをはじめ観客ははしたなくも「えぇ〜!」と、ブーイングの声を上げた。


これでは薪能のあの幽玄の空気感が整わない・・・

佐渡まで来たのに・・・と、心中、恨み節でいっぱいである。


時折、強い風が境内の巨木の枝をご〜っと鳴らすなか、いよいよ開演である。

ふと頭を上げると西の上空に上弦の月が鮮やかに見えた。

12・上弦の月
上弦の月

天気は大丈夫そうだ。まず、能の前に仕舞が披露される。

切戸口から舞手と地謡が入場してくると、さすがに場内は一斉に鎮まり、舞台上に目が吸いつけられる。

高校生だろうか鈴木貴江さんが天鼓を舞う。

13・仕舞 天鼓

次に、福島かおりさんが山姥を舞う。

15・仕舞 山姥

両人ともその所作、構えと運びはりりしく、美しい。本格的に修行をされていると心から思った。

14・天鼓を舞う鈴木貴江さん

そして賀茂湖を渡る風が能舞台の演者と見所の観客を包み込むようで、一体感を感じる。

16・山姥を舞う福島かおりさん

厳粛な仕舞が終わる。暗くなった境内に咳(しわぶき)のひとつもない。


そこに風がおさまってきたので、薪に火をつけるという。場内に拍手が湧く。正式な火入れ式は残念ながら省略され、待機していた巫女さんもさぞ残念であったろうと思う。

32・篝火

それでも、松明を手にした古風な装束の火守り役の若者が二人、篝(かがり)に火を燈す。

17・薪能の篝火

炎が夜風に揺れ、火の粉が飛ぶ・・・やはり、薪能はこれでなくっちゃ・・・


薪能に興じる脇正面の観客
脇正面の観客も薪能に見入る

気分が盛り上がったところで、いよいよ能・“花月”の上演である。

19・シテの登場
シテの登場

 
“能・花月”は行方不明になった息子を探し、僧となって諸国をめぐる父(ワキ)が、都の清水寺の門前で喝食(かっしき)となった息子・花月(シテ)と再会する場面の遣り取りを描いた物語である。

20・シテと間の絡み
シテと間の絡み

出逢いを仲立ちした門前の男(間)が旅僧のために所望し、花月に恋の唄を詠わせ、弓矢の舞を舞わせる。

21・弓矢で・・・ 22・鶯に狙いをつけるも・・・

次いで、清水寺の縁起を曲舞で舞う、その演技は見物である。

23・曲舞を舞う 24・曲舞

そして、その間の遣り取りで親子と判って、花月が鞨鼓を打ち叩きながら天狗にさらわれてからの身の上話をする件(くだり)が能の最高潮の場面となる。

26・鞨鼓を打つ

能舞台の灯りと白洲の篝火と月明かりのみの闇のなか、自然の風が渡る神社の境内で繰り広げられる薪能・“花月”。

27・序破急の急

東京の国立能楽堂でのいわゆる職業能、玄人による能と比較しても、一歩も引けを取らぬ出来栄えであり、質である。

25・殺生を思いとどまる

もちろん、当方、能についてはズブの素人ではあるが、その全身で受け止めた“天領佐渡両津薪能”からのパルピテーションPalpitation)は、あきらかに国立能楽堂のエアコンの効いた人工的空間で受けたインパクトとは大きく異なるものであった。

28・終焉へ・・・

薪能が終了、演者が橋掛りから去り、切戸口に消え人影がなくなった能舞台。

31・余韻・・・

まだ灯りを燈され能舞台の明るさが、四囲に押し寄せた漆黒の闇に徐々に融け込んでゆく様子は人間世界の夢うつつの境の実相を顕わしているようでもあり、つい先ほどまで仄かに残された“生”の温かみが冷酷な “死”の世界に非情にも浸み出していっているようにも感じられた。


そんな人の“生き死に”の儚(はかな)さ、老いは確実に“生命”を切り刻んでいるという冷厳な現実を胸に秘め、ホテルまでのわずかな夜道を二人で黙然として戻っていった。






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