彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

November 2011

三分一(さんぶいち)湧水公園でカラマツの落葉と紅葉を見た!

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黄葉したカラマツ

かねて家内が見たい見たいと言っていた銀色にきらめきながら落ちて来るカラマツの落葉を見に蓼科へ向かった。そもそも今回は、もうカラマツの落葉も終わっているとの話もあったので、どこかでちょっとでも見られたらいいねと、当初から無計画な道行きとなった。


それでも銀色の落葉に執念を燃やす家内は克明な?事前調査を敢行。北杜市にカラマツ並木があって、そこだと標高もそう高くないので、まだカラマツの銀色の雨を浴びながらドライブが楽しめるのではないかとの提案がなされた。


地図を見ながらレインボーライン(八ヶ岳広域農道)をたどっていたところ、甲斐小泉の“三分一(さんぶいち)湧水”が目にとまった。かねて行ってみたいと思っていた私も、それではと、長坂ICで中央高速を降り、“三分一湧水”(山梨県北杜市長坂町小荒間292-1)に立ち寄った。  

三分一湧水分水枡

レインボーラインの道すがらカラマツ並木にお目にかかることはなかったが、思いがけずその“三分一(さんぶいち)湧水”公園で素晴らしいカラマツの落葉と紅葉を見ることができた。

三分一湧水公園
三分一湧水公園
湧水池

“三分一(さんぶいち)湧水”は昭和60年に環境庁により“日本名水百選”に選定されたほどの八ヶ岳南麓からの清らかな伏流水を噴出、日量8500トンの湧水量を誇る。

三分一湧水の湧水源
日量8500トンの湧出口

“三分一(さんぶいち)”という変わった名前の由来は、昔、武田信玄が永年にわたる農民の水争いをおさめるため湧出口に石枠の枡を造り、その中に水分石として三角柱石を置き、自然と水量が1/3ずつに分水してゆく仕組みを作ったという伝説が元となっている。 

湧水池から分水枡へ流れる
湧水池から三分一分水枡へ
三分一分水枡
分水枡から三方向へ水路が

正確には1/3の水量とはならないとのことだが、農民は湧水が三角柱石により三方向へ分かれていくことで平等だと納得し、その後、水争いが絶えたという逸話であり、その智謀を讃え“武田の三分水”とも呼ばれているとのことである。

三角柱石
湧水が落ちてきた所に三角柱石がある
三角柱石で湧水が三方向へ分かれる
水が分かれて三つの水路に
林間をゆく真中の水路
林間をゆく水路

現在は水元であった坂本家より水源を含む一帯の土地が長坂町に寄贈され、“三分一湧水公園”として整備され、四季を通じて人々の憩いの場となっている。


公園内には三分一湧水の近くに、“大荒れの碑”という巨石が置かれているが、これは昭和1895日に起こった山津波でこの辺りが広く被害に遭い、それを後世に伝えるためのものである。この大石もその時山津波により押し上げられたものである。

大荒れの碑
”大荒れの碑”の脇に山津波の鎮魂を祈る石仏が彫られていた

公園内に散在する大きな石はその時に八ヶ岳山麓から押し流されてみた土石流の跡だということであった。

公園内のいたるところに山津波の跡の石が散在する
山津波の地に紅葉と青い空が・・・

当然、この“三分一湧水”も埋没したが、その後、この湧水を利用する旧6ヶ村と坂本家が協力し、“三分一“を掘り出した。その際に分水枡を現在のようなものへと整備、変貌を続けてきたらしい。最初、水争いをおさめた400年以上前の分水枡というにはずいぶんきっちりしていてちょっと違和感を覚えたが、”山津波“という過去の甚大な災害から立ち上がった村人たちの復活の証しなのだと知って、違和感は希う力の強さへの粛然たる確信へと変わった。

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晩秋の陽光を全身にまとうカラマツやモミジ
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黄葉したカラマツと青い空

“三分一湧水”という仕掛けで諍(イサカ)いをおさめた人間の智恵と山津波で埋没したものを掘り出し復元し、ふたたび伏流水という自然の恵みを活用し続けた人間の営みの真摯な姿勢を愛でるかのように、この日の三分一湧水公園のカラマツの黄葉とモミジの紅葉は晩秋の陽光を存分に身にまとい、それはそれは見事であった。

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まさに燃えるように紅いモミジ

当日は風が吹くとカラマツから黄金色の針葉が舞い落ちて来て、顔に当ると痛いと感じるほどであったが、家内が期待していた光にキラキラと輝き銀色に見える“雨”というわけにはいかなかった。

カラマツの落葉
カラマツの針葉が風に舞い落ちる

しかし、思いがけなく素晴らしい自然の恵みと人間という生き物が本来有する“強さ”を目にすることができ、心を洗われるような清新な道行きとなった。

 

 

 

韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その3 魚板・雲板

大雄殿の廻廊に魚板(ギョバン)と雲板(ウンパン)が吊るされていたが、同形のものは日本では中国色の濃い禅宗寺院で見ることができる。

仏国寺・魚板と雲板
大雄殿廻廊にある龍頭魚身の魚板(ギョバン)と雲板(ウンパン)
仏国寺・魚板
下部が大きく空洞にされ、角の生えた魚板・この空洞の中を叩くという

日本の魚板は食事や修業開始の時を告げるときに叩くものと教えられたが、今回、もっと深い意味があったことをガイドの趙(ジョウ)さんから説明を受けたので、ここに記録として書き留めておく。

「魚板は水中で生きる衆生に、雲板は空に生きる衆生に、これを叩くことで仏法を教え、すべての衆生が天国へゆけるようにと祈るもの」だという。

「魚の口に見える珠は衆生の持つ3つの毒を表していて、魚板の腹中を叩くことで、この毒を体外に吐き出させる」のだそうだ。つまり、魚板は日本ではお腹の部分を表面から叩くが(下に穴が開いていない)、韓国では以上の意味から腹中から叩かないと吐きださせる意味がないとのことであった。なるほど・・・仏国寺の魚板には内臓が抜かれた肴のようにぽっかりと大きな空洞がある。

仏国寺・魚板
なるほど大きな空洞である・・・

それで三毒とは華厳経の一説である懺悔文(ザンゲモン)に云う、「貪(トン)・瞋(ジン)・癡(チ)」のことだと帰国して調べて分かったので、ここに記す。

「我昔所造諸悪業(ガシャク・ショゾウ・ショアクゴウ) 皆由無始貪瞋癡(カイユ・ムシ・トンジンチ) 

従身口意之所生(ジュウシンゴイ・シショショウ) 一切我今皆懺悔(イッサイ・ガコン・カイサンゲ)」

「我昔より造るところの諸々の悪業は皆無始の貪(トン=貪欲)・瞋(ジン=怒り)・癡(チ=愚かさ)に由る。身・口・意従(ヨ)り生ずる所なり、一切、我今皆懺悔す」

ということなのだそうだ。

そして韓国の魚板には肴の頭に角が生えているが、これはどうしたことか。よくは分からぬが「竜頭魚身」ということらしく、この形の木魚を魚板ということらしい。

通常日本のお寺で住職がポコポコ叩く丸いものを木魚というが、角の生えたこの魚の形をしたものが魚板と呼ぶのだと、どこいらに書いてあったが、これまで日本で見た“魚板”に角は生えていなかったので、どういうことなのか・・・、もう少し勉強してみなければ・・・。  


また、これまで“雲板”を目にすることは少なかったが(というより気づいていなかったのだろう)、江戸中期(1740年・第13代竺庵浄印)まで歴代住持を中国から招聘していた宇治の黄檗宗・萬福寺には、仏国寺と同様の雲板が存在するものの、魚板には角はなく、彩色もほどこされていず、下方に穴も開いていないため写真のようにお腹を表面から叩くため、腹部中央がへこんでいる。    

宇治・萬福寺の雲板(ウンパン)
宇治・萬福寺の雲板
萬福寺大雄宝殿
萬福寺大雄宝殿
宇治・萬福寺の魚板(ギョバン)
萬福寺の魚板・腹の中央部分が叩かれてへこんでいる
仏国寺・大雄殿の雲板
仏国寺紫霞門から雲板を見る

長崎の唐寺、長崎三福寺のひとつ興福禅寺の魚板は下腹を叩くのだろう、萬福寺とは異なり、下腹部がえぐられたように削り取られている。こちらの叩き方のほうが毒を吐き出させる意味合いから云うと、大陸の魚板の叩き方をわずかに今に伝えているのかも知れない。双方の魚板とも口には三毒を意味する珠を咥えているのだから。

長崎・興福禅寺山門
長崎興福禅寺山門
長崎・興福禅寺の魚板
長崎興福禅寺の魚板・下腹部から抉(エグ)り取られている

そして、哀しくも痛ましい雲板が、同じ長崎三福寺のひとつ福済寺の“片耳が落ちた”雲板である。原形は仏国寺のものと同形であるが、原爆投下により大雄宝殿以下七伽藍が一切焼失した際に、一片が毀損したものの雲板が今にその惨状を伝えるために生き残っている。

長崎・福済寺本堂
国宝の大雄宝殿址に建つ現在の福済寺・伽藍配置も一切断ち切ったお寺になっている

それは空に生きる衆生に仏法を教えるという“雲板”が、片耳を落としながらも必死の思いでわが身と引き換えに、原爆により空に昇った多くの魂を天国へと誘ったように思えてしかたがなかった。

長崎・福済寺の雲板
原爆で左肩が焼け落ちた雲板

現在の福済寺に往時の姿を偲ぶ縁(ヨスガ)はない。ただ“耳の落ちた”雲板が寺院の片隅に吊られているのみである。

元禄15年7月吉日と刻まれた裏面
雲板の裏面・鋳造された元禄15年7月吉日の日付が読み取れる

遠い韓国でたまたま目にした雲板に今更ながらに命の重みを知らされたところである。

韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その2---仏国寺 紫霞門・大雄殿

高句麗は375年に仏教を公認。百済には384年に仏教が伝来したと云われ、新羅は両国に遅れること150年ほどたった527年に漸く公認されたという。


ただ、公認を果たした第23代法興王(在位514-540)は律令制の導入など中央集権的統治機構の整備を強力に推し進め、仏教も護国宗教と位置づけられ王権強化の舞台装置としてその影響力を急速に増していくこととなった。


そうした護国宗教のシンボルのひとつとして創建された(528年)のがこの仏国寺であり、当時は華嚴仏国寺、また“法流寺”とも呼ばれていた(因みに日本の“法隆寺”607年創建と伝えられる)。


法隆寺の五重塔・金堂・中門

そして新羅文化の黄金期である8世紀半ば、第35代景徳王10(751)に時の宰相、金大成により大がかりな拡充・整備がなされ、建造物60余棟を擁す現在の10倍もの壮大な規模を誇る大寺院となった。それを機に現在の“仏国寺”と寺号を改めた。


石窟庵世界遺産石碑

なお先に紹介した石窟庵も金大成による同年の設計・創建となるものである。


その後、高麗、李氏朝鮮王朝時代の“尊儒棄仏”という仏教衰退のなかでもこの仏国寺だけは補修、維持が続けられていたが、1593年の豊臣秀吉による壬辰倭乱、いわゆる文縁の役で全ての木造建築物は焼失したという。ガイドの趙さんの話では、敗色濃い李氏朝鮮の兵がここに逃げ込み、立て籠ったため加藤清正帥いる軍勢が大伽藍共々一網打尽に焼討にしたという。わたしはその時、織田信長が行なったあの凄惨な比叡山焼討のことを思い描いていた。


だから創建時のものとしては石造の多宝塔・釈迦塔や建物の基壇が残っているが、基壇の多くが黒く煤けているのは当時の無残な焦土の痕跡であるという。 


黒く煤けた大雄殿の基壇

その後、1604(宣祖 37)頃から1805年にかけ四十数回に渡って部分的補修も含め建物の再建がなされてきた。そして1969年の仏国寺復元委員会の下で、ようやく現在、われわれが目にすることのできる“新羅仏教芸術が一堂に会す韓国随一の仏教古刹”・仏国寺が復元された。


それでは、能書きはこれぐらいにして仏国寺の境内へと足を踏み入れることにしよう。仏国寺の伽藍配置は以下の写真の通りであり、ここでの案内は写真を主に説明をすることにする。何しろ当日は雨の中グルグル昇ったり降りたり境内を廻ったため、帰国後に配置図を見て、ああ、ここが○○殿だったんだってな調子でありまして・・・、シュン・・・(;´Д`)

仏国寺建造物配置図
仏国寺の配置図

さて、「仏国寺」と書かれた扁額の掛かる“一柱門”をくぐって仏国寺の広大な境内に入る。

日本で言う山門、一柱門

まず、般若蓮池に架かるアーチ型の解脱橋を渡る。渡り終わるとすぐ正面に十数段の階段の上に天王門がそびえる。

解脱門の正面に天王門が見える
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天王門扁額

般若蓮池には回遊式日本庭園にある鶴島のような松が植栽された島がひとつ浮かんでいる。紅葉が始まり雨の中とはいえ見事な景色である。

般若池と解脱橋
雨に煙る般若蓮池に浮かぶ島と解脱橋

天王門の両脇には広目天・多門天、持国天・増長天の四天王が参拝者に睨みを利かす。しかし、写真をご覧になって分かるように、日本の四天王よりずいぶんと愛嬌のあるお顔をしている。写真では分かりにくいが、四天王に踏みつけられている小鬼がまた実にかわいくて、ちょっと可哀そうな気がした。


京都東寺の五重塔

怒髪天を抜く形相の京都・東寺の立体曼陀羅の四天王とその足元に踏みしだかれる憎々しげな鬼の相貌とは似ても似つかぬ心持ちの良さを感じた。

四天王・広目天と多聞天
左が広目天・右が多聞天
四天王持国天と増長天
左が持国天、右が増長天
持国天と増長天に踏みしだかれた憎めない小鬼

天王門を抜け、小さな般若橋を渡ると正面に紫霞門、左手に極楽殿に通じる安養門を備える寺というよりどこか城塞のような石造りの宏壮な中核部分が聳え立つ。

紫霞門の左に泛影楼・その左に蓮華橋
紫霞門・下段が青雲橋、上段が白雲橋、左隅に安養門の上段七宝橋が見える

右手正面の大きな門が大雄殿に向かう紫霞門である。石の階段の下半分を「青雲橋」、 上半分を「白雲橋」と言うのだそうだ。階段をなぜ橋と呼ぶのか不思議であったが、趙さんの解説を聴いて納得。俗世から仏国に渡る橋なのだという。 青雲橋は17段で人間の青年時代、白雲橋は16段で老境へ向かう壮年・老年時代。合計33段は帝釈天が統治する「三十三天」を表すのだそうで、人間は年を取りながらその功徳を積み、これを昇り切って紫霞門をくぐると、そこが仏の世界だというのだ。

紫霞門から手前白雲橋と青雲橋を

大雄殿は日本で云う本堂である。わび、さびの日本の古色蒼然とした寺院と異なり、大雄殿をふくめ各伽藍は極彩色で彩られ、仏の世界の美しさを競っているように見えた。

大雄殿
大雄殿
大雄殿から紫霞門を
大雄殿から正面の紫霞門を

平等院鳳凰堂の堂内彩色の復元を見たが、まさに仏国寺の各伽藍の華やかさの通りであった。かつての日本の寺院もこのように絢爛豪華であったかと思うと、“わび・さび”の文化が、創建時の彩色に復元する努力を行なわなかった“ズボラ”の産物であったともいえ、何とも白けて来るのも正直なところである。

宇治の平等院鳳凰堂

大雄殿のご本尊は釈迦牟尼仏である。

大雄殿本尊・釈迦牟尼仏
釈迦牟尼仏

大雄殿の前庭には東に多宝塔、西に釈迦塔が立つ。どちらも10.4mの高さの石造で創建時(751)のものである。

釈迦塔
釈迦塔
仏国寺・多宝塔
多宝塔
仏国寺多宝塔を飾る獅子
唯一残る獅子像

多宝塔の造作は見れば見るほどその石工の造作は見事の一言につきる。一層目に一頭の獅子が配されているが、もともとは四方に四頭あったという。

石灯籠から見える仏様
石灯籠の灯りとりからお釈迦様のお顔が見える

大雄殿の真正面に石灯籠が置かれているが、その灯り取りからご本尊の御顔が見える。

平等院鳳凰堂正面から扉越しに阿弥陀さまのお顔が見える
平等院鳳凰堂の格子窓に阿弥陀如来のお顔が見える

これらも東大寺や平等院鳳凰堂などの窓や扉の格子越しにご本尊の尊顔を拝するのに似ている。

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