彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

October 2010

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―2)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―1)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)


【神功皇后 摂政五年三月「誉田別皇子の立太子」】―(B)


「五年の春三月の癸卯(キボウ)の朔にして己酉(キイウ)に、新羅王、汗礼斯伐(ウレシホツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)・富羅母智(フラモチ)等(ラ)を遣(マダ)して朝貢(ミツキタテマツ)る。仍(ヨ)りて、先の質(ムカハリ)
微叱己知(ミシコチ)伐旱(バッカン)を返(トリカエ)さむといふ情(ココロ)有り。是を以ちて、許智伐旱に誂(アトラ)へ、紿(アザム)かしめて曰(マヲ)さしむらく、「使者汗礼斯伐(ウレシホツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)等、臣に告げて曰く、『我が王、臣が久しく還(カヘ)らざるに坐(ヨ)りて、悉くに妻子(メコ)を没(オサ)めて孥(ツカサヤツコ)と為せり』といふ。冀(ネガ)はくは、暫く本土(モトツクニ)に還り、虚実を知りて請(マヲ)さむ」とまをさしむ。皇太后、則ち聴(ユル)したまふ。因りて、葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)を副(ソ)へて遣したまふ。共に対馬に到り、鋤海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る。時に新羅の使者毛麻利叱智等、窃(ヒソカ)に船と水手(カコ)とを分(ワカ)ち、微叱旱岐(ミシカンキ)を載せて新羅に逃れしむ。乃(スナハ)ちクサ霊(ヒトカタ)(注3)を造り、微叱己知(ミシコチ)の床に置き、詳(イツハ)りて病人(ヤミヒト)として、襲津彦に告げて曰く、『微叱己知、忽(タチマチ)に病みて死(ミマカ)らむとす』といふ。襲津彦、人を使して病を看しむ。即ち欺かれしを知りて、新羅の使者三人を捉(トラヘ)へ、檻中(ヒトヤ)に納め、火を以ちて焚(ヤ)きて殺しつ。・・・

 

と、新羅征服の際に新羅の実聖王が先代の奈勿王の皇子を人質(注2)として差し出したことが記され(A)その後、新羅王が、人質奪還を企てたことが記載されている(B)このA・Bの記述に着目して、「紀」の歴史書としての価値を評価し、三韓併合の事実云々につき考察を試みる。

 

(注1)         人質の人選(奈勿王の皇子)については、実聖王がかつて即位前、自身が奈勿王により高句麗へ人質に出されたことへの報復とも考えられるとの見方がある。

(注2)         クサヒトカタ:茅で作った人形。「礼記」檀弓の鄭玄注に「クサヒトカタは茅を束ねて人馬を為(ツク)る。之を霊(ヒトカタ)と謂ふは、神の類」とある。

 

(A)で神功皇后により征服されたとされる新羅王「波沙・寐錦(ハサ・ムキチ)」が、『三国史記』「新羅本紀」にある第5代「波沙・尼師今」(在位:西暦80112)の名と一致しており、互いの歴史書において双方の記述の信憑性という面での結節点ともなるべき具体的な人物名である〔「尼師今」は「寐錦」と同義で「王」の意〕。

 

・一方で、『三国史記』「新羅本紀」には、実聖尼師今(新羅第18代・実聖王)元年(402年)三月条に、「倭国と好(ヨシミ)を通じ、奈勿王の子未斯欣を以て質と為す」と、(A)と平仄の合う記述が存在する。ただ、『三国史記』は未斯欣を人質として差し出したのは実聖王元年(402年)としており、「三国遣事」は第17代・那密王(奈勿王)三十六年庚寅の年(391年)となっており、人質を差し出した王および年号が異なる形で記録が残されている。

 

また人質奪還について、『三国史記』は、巻三・訥祇(トギツ)麻立干(19代訥祇王:在位41745817代奈勿王の皇子)二年(418)条の「秋に王(訥祇王)の弟未斯欣、倭国より逃れ還る」と記述しており、年代的ズレはあるものの、そうした事実があったことについて、「紀」の(B)の記載と見事に対応している。しかも、(B)の記述の赤字の部分などは、国の正史としてはリアリティに溢れ、この事件が実際にあったとしか思えぬ具体的で詳細な描写となっている。

 

さらに、人質拠出の年代を「三国遣事」の391年と考えると、実は、かの有名な好太王(高句麗第19代広開土王)碑に刻まれる『百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民』の碑文、即ち、『そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。』とする新羅侵寇の年号、西暦391年に合致する。そのことは、「倭による新羅征服或いは侵寇」は絵空事であったとするより、事実である可能性が高いとする方が、文献上からは妥当であると考える。

 

ただ、彼我(日韓)で異なる部分の記述で、征服時の新羅王の違いからくる年代の違いが大きく、その点の問題は残る。即ち、「紀」では、第5代「波沙尼師今」(在位:西暦80112)、『三国史記』では実聖王元年(402年)、「三国遣事」は那密王(奈勿王)36年(391年)とあり、そこに300年ほどの大きな誤差が存在する。また、神功皇后が在位(201269)したとされる年代とも100年以上の差異があるが、「2運」下げした年代(321389年)を採用すると、それも誤差の範囲に入って来る。

 

その年代の誤差については、日韓史書のその他の記述との平仄を見る限り、この新羅王の「紀」の名前が誤記されたのだと考えるしかない。

 

 

3. 結論---神功皇后は実在した
 
 そして最後に、そもそも「神功皇后は実在したのか」であるが、日韓の文献や好太王碑文から新羅征服或いは侵寇の可能性が高いのであれば、倭に大軍事作戦を指導した王がいたとするのは、自然なことである。

 

 その指導者が女性であったか否か、しかも神功皇后という人物であったのかは、『三国史記』や好太王碑にも、一切、記述はない。ただ、「紀」の取り扱い方や、まさに対馬や壱岐、北九州に残された幾多の伝承の存在から、そうした女性の「大王」が存在したことは、限りなく史実に近いとするのが妥当である。また、神功皇后の出身は「息長氏」であり、「息が長い」氏族から、「潜水漁労」や鞴(フイゴ)を吹く「蹈鞴(タタラ)・製鉄」に関わる一族であったとの説もあり、神功皇后説話のなかに海人族に関わる話(住吉三神・阿曇磯良)が多いことも、実在を補強する材料とも云えるのである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―1)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―2)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)


  これまで、この「対馬巡礼の旅」のなかで、神功皇后の伝承を数多く紹介してきた。そのことは、対馬がまるで神功皇后の伝承を載せて浮かぶ島のようにも思えてくるのである。

 

しかし、巷間云われるように皇后が単なる伝説上の人物で、記・紀で語られることがすべて神話で作りごとであるとなれば、対馬に伝わる伝承も実体の裏付けのない、大人が真顔で語るのも憚られる世迷言にもなりかねない。

 

 そこで、そもそも「神功皇后」なる人物は実在したのか、三韓併合などという歴史的事実が存在したのかという素朴な疑問に答えられなければ、対馬に伝わる皇后伝承も色褪せた不毛の作り話と看做さざるを得ず、ここらで、そういった点につき、触れておく必要があろう。

 

1. 神功皇后とは記・紀においてどのような人物として描かれているのか

 

神功皇后(在位201269年〔321389〕)は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子の第14代天皇たる仲哀天皇の御后である。「紀」では、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)、「記」では息長帯比売命(同左)と云う。父は息長宿禰王、母は葛城高ヌカ媛(カズラキノタカヌカヒメ)とされている。

 

「紀」における神功皇后の取り扱いは、摂政であるにも拘わらず独立した項目が立てられ、しかも相当数の頁が割かれている。なかでも、朝鮮半島との軍事抗争にはかなりの労力がかけられている。そして、神功皇后の在位期間が201269年と三世紀前半としていることが、魏志倭人伝で描かれている卑弥呼(景初2年(238年)以降に「親魏倭王」に任じられた)に擬せられる一つの要因となっている。

 

一方、「記」において、神功皇后は夫である仲哀天皇の項立のなかで語られ、独立した取り扱いとはなっていない。但し、仲哀紀のなかで肝心の天皇についての記述は冒頭の崩御の場面だけで、残り全ては神功皇后の事蹟に関することである。要は仲哀紀を神功紀と読み替えて欲しいと云っているようなものであり、その意味で、皇后に対する取り上げ方は、「紀」と同様に、朝鮮半島との確執の中心にいた人物として描かれていることは確かである。

 

 記紀において、神功皇后は、仲哀天皇が神託に背いたことで神の怒りに触れ、崩御した後、神託に沿って新羅親征を進め、それを完遂した人物として描かれる。そして、神が皇后自身に憑依する巫女的性格を色濃く持ち、しかも神の意思を体現し、実行する人物として描かれている。さらにこの話の中では、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)ではなく、武内宿禰が審神者(サニハ)としての役割を果たしている。

 

なお、皇后の在位期間で〔 〕内の年は、紀の干支と百済本記の干支による年次を2運(120年)繰り下げると、朝鮮半島の歴史上の出来事の年次と符合する。その「2運」下げした年次を参考として記載した。

 

2. 神功皇后は実在したのか、三韓征伐などあったのか

日・韓の正史である「日本書紀」と『三国史記(注1)』の中で新羅征伐に関わる記述を拾い、比較考量を行ない、神功皇后の実在および三韓征伐の史実につき検討する。

 

(注1)「三国史記」

高麗17代仁宗の命により作成された、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを紀伝式で記述した朝鮮最古の歴史書(1145年完成)

 

まず、「紀」の「新羅親征」から見ていくことにする。

 

【紀:気長足姫尊 神功皇后 「神助により新羅親征】―(A)

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ)に、和珥津より発ちたまふ。時に、飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中(ワタナカ)の大魚(オフヲ)悉(コトゴトク)に浮びて船を扶(タス)く。則ち大風順に吹き、帆舶波(ホツムナミ)に随ひ、艣楫(カジカイ)を労(イタツ)かずして、便(スナワ)ち新羅に到る。時に、船に随へる潮波(ウシホ)、遠く国中に逮(ミチイタ)る。即ち知る。天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)の悉に助けたまへるかといふことを。新羅王(コニキシ)、是に戦戦慄慄(オヂワナナ)きて厝身無所(セムスベナシ)。則ち諸人(モロモロノヒト)を集へて曰く、「新羅の国を建てしより以来(コノカタ)、未だ嘗(カツ)て海水(ウシホ)の国に凌(ノボ)るといふことを聞かず。若(ケダ)し天運尽きて、国、海と為らむとするか」といふ。是の言(コト)未だ訖(ヲハ)らざる間に、船師(フナイクサ)海に満ち、旌旗(セイキ)日に耀き、鼓吹(コスイ)声を起し、山川悉に振(フル)ふ。新羅王、遥に望みて、非常(オモヒノホカ)の兵(イクサ)将(マサ)に己が国を滅さむとすと以為(オモ)ひ、讋(オ)ぢて失志(ココロマト)ひぬ。乃今(イマシ)醒めて曰く、「吾が聞かく、東に神国有り、日本と謂う。亦(マタ)聖王(ヒジリノキミ)有り、天皇(スメラミコト)と謂ふといふことを。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵(イクサ)を挙げて拒(フセ)くべけむや」といふ。即ち素旆(シラハタ)あげて自ら服(マツロ)ひ、素組(シロキクミ)して面縛(メンバク)し、図籍(シルシヘフミタ)を封(ユヒカタ)めて、王船(ミフネ)の前に降(クダ)る。

・・・・・ (中略) ・・・・・

爰(ココ)に新羅王波沙・寐錦(ハサムキチ)、即ち微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)(注1)を以ちて質(ムカハリ=人質)とし、・・・官軍(ミイクサ)に従はしむ」

 

と、出征の途上、対馬に寄り、和珥津から新羅へ向かったことが記されている。そして、対馬と半島との関係の中で皇后の名前が出てくる。

 

 この神功皇后の対馬寄港については、島内各所にさまざまな云い伝えや伝承地を残すが、これについては各々の由緒等において詳述する。ここでは、人質「微叱己知(ミシコチ)」の記述に着目し、実在云々の検討を進めてゆく。

 

(注1)         微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)

「微叱己知」は奈勿王(ナコツオウ)の子「未斯欣」(『三国史記』)のこと。次に記す「紀」のBの「微叱己知(シチコチ)」と同一人。「三国遺事」は「美海」、「未叱喜」とも。「波珍干岐(ハトリカンキ)」は新羅17等官位の第4「波珍飡(海干)」にあたる。〔以上、「紀」の注。P430

【2につづく】

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
 

 比田勝港を見下ろす権現山(標高186m)の中腹に鎮座する能理刀(ノリト)神社は、その名前が示すように「祝詞」に関わりの深い神社である。

 

拝殿前から西泊の港を見下ろす
拝殿前から西泊の港を見る
 

能理刀神社の由緒書
一之鳥居脇に由緒書(左に本殿への急な石段)

 

(能理刀神社概要)

    住所:上対馬町大字西泊字横道218

    社号:氏神熊野権現/西泊能理刀神社(大小)/能理刀神社(大帳・明細帳)

    祭神:素戔鳴尊(大小)/宇摩志摩治命(注1・2)・天児屋命・雷大臣命(大帳・明細帳)

(注1)  物部氏の祖。ニギハヤノミコトの子。

(注2)  藤仲郷の説では「宇麻志麻治命は久慈真智(クシマチ)命にして、太詔戸(フトノリト)と共に卜庭(サニハ)神であり、この二坐を併せて太詔戸神ということもある」としている。また、京中2座の注釈にある久慈真智(クシマチ)命の本社とされる天香山神社には、久慈真智命が深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの話も伝わる。(10太祝詞神社より)

 

    由緒 

昔、老人夫婦が能理刀神を小舟に乗せて、邑の西北の隣ヶ浜に来り。殿を造り留り居れり。其の所に榎木あり、衣掛けと云う。後に、現在のこの地に移し祭りて、〔その後〕老人夫婦が行去る所を知らず。此の地は神功皇后の新羅征伐の時、〔戦勝祈願をした〕行宮の古跡也。亀卜所の神を祭り、在る時、異艦西泊、比田勝二つの邑の浦に寇せり。州兵、是を防ぐ時、始め〔殿が〕在りせし隣ヶ浜の上手なる山半腹より大石三つ落ち来り、異艦を覆し破る。異賊迯げ去りて行方を知らず。其の石今に存せり。(明細帳)

 

赤字部分同一に続いて)其の時代は京都より対馬守〔の格〕は御下の頃也。昔、當浦より比田勝浦にかけ蒙古の賊船数千艘酉刻頃に入船す。昔、此の神初めて着船の浜?(ナラビ)に奥の浜に賊船二、三艘着の時、里人騒動して此の神に祈れば、忽ち神が有りて、此の神、山の並び脇の山頭(トウゲ)六、七合目の處の地中より大石三つ飛び出し、彼の賊船悉(コトゴト)く、覆し碎(クダ)く。其の響きに恐れ、其の夜中片時の間に沖の船一艘も見へず、散じて失(ウエ)けり。右の大石今にあり。四五百年以前までは此の大石の下に賊船の板木見たりと云へり。扨(サ)て當浦の外目に昔、此の神の最初に着きせ玉ふ浜辺に、朝日が出る前に里人至れば、年の頃六十歳ばかりの御形にて、冠を召し至りて、貴き官人座ませり。是を見奉りて、里に帰り即ち死す。其の後も彼の處に未明に至ると即ち死す。それより此の浜へ〔里人は〕朝至らず。・・・(大帳)

 

能理刀神社の一之鳥居
能理刀神社の一之鳥居
 


 能理刀神社の大権現扁額

熊野三所大権現神を顕す「大権現」の鳥居扁額

 

能理刀神社の急勾配の石段
石段が続く

 

以上の由緒に、老夫婦が「能理刀神」を船に乗せてやって来たとある。さて、その「能理刀神」即ち、「祝詞神」とは一体、何者かということだが、当社の祭神として「大帳」および「明細帳」に記されているのは、天児屋命(アマノコヤネノミコト)、宇摩志摩治命(ウマシマジノミコト)および雷大臣命(イカツオミノミコト)という占い神事の宗家ならびに占いに深く関わる神々である。

 


 
漸く趣のある拝殿へ


能理刀神社拝殿正面
 
拝殿正面

 

能理刀神社の拝殿内部
拝殿内

 

主祭神はその三柱のうちのいずれかということになろう。これまで紹介してきた対馬所縁の諸々の伝承から考えると、津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」(「姓氏録」より)とあるように、対馬縣主の祖である雷大臣命かその祖である天児屋命のどちらかとするのがふさわしい。

 

能理刀神社拝殿内から本殿を
 
拝殿内から本殿を見る


能理刀神社の拝殿奥の本殿と境内社
 
本殿・手前が拝殿・左は境内社

 


本殿

 

さらに、当社のそもそもの鎮座地はいまより少し西北の同じ権現山の山麓にあった。その地が明細帳の由緒では、神功皇后の新羅征伐の際の行宮の古跡であり、亀卜所の神も祀ったとある。そのことを踏まえると、ここの主祭神は皇后に随行した雷大臣命と比定するのが至極妥当である。

 


西泊の港、ここに大石が三つ落ち、異国船を沈める

 

美津島町加志にある、太詔戸命、即ち雷大臣命の祖である天児屋根命と、加志に住居し亀卜に従事した雷大臣命自身を主祭神とする太祝詞(フトノリト)神社のことを考慮しても、能理刀神社の方は雷大臣命を主祭神とするのが自然である。

 

 その能理刀神社は外部の人間には非常に分かりづらい場所にあった。湾に沿って突端近くまで行ったがどうも場所が分からず、途方に暮れていた。近くにお婆ちゃんを見つけたので早速、尋ねたところ、「それは、うちの神社じゃ」と場所を教えてくれたのである。さらに、「車は公民館の前に止めるとよい」と言ってくれた。お礼を言い、車をUターンさせ、ゆっくりと注意深く右手の家並みを眺めながら進むと、先ほどのお婆ちゃんがスタスタと追い越して行くではないか。

 

 そして、お出でお出での手招きである。家並みから少し引っ込んだところにある公民館前の小さな空き地まで先回りしてくれたのである。しかも、車を降りたわれわれ夫婦に、階段の下まで案内してくれると云う(娘は車の中で休憩すると云って、畏れ多くも能理刀神に御挨拶をしなかった)。恐縮したが、お婆ちゃんは「さぁ、どうぞ」と個人のお宅の裏の道というより、庭?、筋?に入ってゆく。

 

 こちらも、こりゃ、ちょっと大変と、お婆ちゃんの後に続くことにした。何しろ、不審者として咎められたら一大事である。10軒ほどのお宅のオープンな裏窓を横目に見ながら進むと、袋小路の突き当たりのような場所に出た。右手に急峻な階段があった。

 

能理刀神社の登り口
 
袋小路の突き当りのような場所(石段の上から)

 

能理刀神社へこの石段を昇る
 
この狭くて急峻な階段を昇って本殿に到達する(袋小路から)

 

「ここの上だよ」と、お婆ちゃんは言った。短い言葉であったが、ありがたい言葉であった。こちらに何を尋ねるわけでもなく、「うちの神社」へ案内してくれたお婆ちゃん。お礼を言うと、お婆ちゃんは、もう踵を返し、元へ戻って行った。その何とも言えぬ素朴な心遣いに心がじわ〜っと温まってきた。

 

対馬の西泊のお婆ちゃん、本当にありがとうございました。お陰で、お婆ちゃんの「能理刀神社」を拝ませていただくことができました。

 

あと、一之鳥居手前右手に西福寺(サイフクジ)というお寺がある。そこに「宗晴康の供養塔」との標示板があった。宗家第15代当主の晴康(14751563)のことであり、引退後(1553)に当寺に隠棲し、没後、そこに菩提を弔った。ちょうど一之鳥居の右手辺りに立つ宝篋印塔が晴康のお墓である。

 

西福寺の本堂と宗晴康供養塔標示板
標示板と一般家屋のような西福寺本堂

 

宗晴康の宝篋印塔
 
宗晴康の宝篋印塔

 

同寺には、また県指定有形文化財の「元版大般若経」約600巻があるが、その内の約170巻が20061月に盗難にあい、まだ解決を見ていない。「大般若経」は中国杭州普寧寺で元朝1326年の作成された貴重な元版であることが、巻末の記載から分かっている。宗家第8代当主である宗貞茂(〜1418)が西福寺に寄進していることから、1418年以前に当寺に収蔵されたことになる。

 

同寺の縁起に「大陸からの使者は、まず西泊湾に停泊し府城に向かっている。西福寺はそれら使節の宿泊所でもあった。西泊は、大陸文化が最初に入ったところであり、多くの歴史を秘めた名所である」と記されている。

万燈会(マンドウエ)の法要と声明(ショウミョウ)

 この日曜日、菩提寺において新しい山門の開元供養として万燈会の法要が催された。真言宗における万燈会は、空海が59歳の時(天長9年(832))に高野山で「万燈万華会(マンドウマンゲエ)」を修したことを嚆矢とするため、各種法要の中でも高い位置づけが与えられているとのことであった。

 

万燈会を迎える本堂
 
万燈会を迎える本堂

 
 
暗くなって万燈に灯がともされる

 

万燈会は、そもそも衆生の懺悔・滅罪のために仏・菩薩に一万の燈明を供養する法会である。天長9年に空海が初めて万燈会を行なった際の願文(ガンモン)のなかで「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」【「続遍照発揮性霊集補闕抄(ゾク・ヘンジョウ・ホッキ・ショウリョウシュウ・ホケツショウ)」〔空海・済暹(サイセン)・真済(シンゼイ)著〕の巻第八】と唱えている。それは、「宇宙法界に存在するありとあらゆるものが一つ残らず全て仏の境界(悟りの境地)に至ることを願い続けるという意味なのだそうだ。おそらく、仏に燈明をあげ供養することで、生きとし生けるものの安寧を祈る法会なのだろうと勝手に解釈して、この煩悩多きわたしも万燈会に参加した。

 

万燈会の法要が行われる堂内

 当日は、東京以外の北海道などの遠方からも駆けつけた真言宗の若い僧侶たち総勢15名による法要であった。この若い仲間は、現在、「声明(ショウミョウ)の会」を熱心に開催し、先般もヨーロッパで声明を紹介し高い評価を得るなど、仏教界の新しい息吹を感じさせる草の根活動を展開している。

 

僧侶たちの入場
 
法要を執り行う僧侶たちの入場

 

 法会は本堂内で、声明という僧侶たちによる男性合唱を堂内に響き渡らせ、1時間強を費やし行なわれた。惜しむらくは天井がもう少し高ければ、共鳴した音色ももっと素晴らしいかったろうにと感じたことである。そして、西洋の教会は音楽を通じた布教活動という点では、よく考えられた造りになっているのだと改めて気づかされた。しかし、そうしたことを忘れさせるに十分な趣のある法要であったことは云うまでもない。僧侶たちが薄暗い堂内にコの字型に座り、一斉に声明を和す。

 声明を和す僧侶たち

 

そして、時折、立ち上がっては、方形に連なり声明を唱えながら歩を進める。

 


 
方形に歩きながら声明を唱える

 

また、方形に対面しながら後方に散華札(サンゲフダ)を撒く情景はどこか秘密めいていて、自分の心と堂内の「気」がまさに燈明の炎のように揺らいでくるのを感じる。その神秘的雰囲気のなかで不思議と心は鎮まり安らいでゆくのである。

 

 散華札を撒く僧侶たち

方形に対面し声明を和しながら散華札を撒く

 




境内に整然と点された燈籠
 

境内に万燈の灯が・・・

 

こうした気持ちにみんながなれたら、もっとこのささくれ立った社会も明るく、安らかなものになるだろうにと思った。こうした心の平安を与えてくれた当日の若い僧侶たちに、本当に心から感謝したい。そしてこれからの益々の活躍を願っている。

 

「コルシカ」普段着のイタリアン=恵比寿のグルメ

渋谷区恵比寿南3-4-17

TEL03-3713-4496

営業時間:17:0023:00

定休日:水曜日

 

 今年の七夕で創業40年目を迎えたとのこと。グルメッチな友人のひとりが、「ここ、行こっ!!」と、見つけてきたお店である。

 


コルシカ、窓の下に畳まれているのはベンチ 



 

この立て看板が目印 

 

 

場所は恵比寿駅から数分の駒沢通りに面した分かりやすい店である。

 


 

駒沢通りの対面からのコルシカ 

 

店内はカウンター6席、テーブル4席(4人席が3つ、2人席が1つ)の合計20人の客席という小さなお店である。テーブルの間隔も狭い。テーブルクロスは赤のチェックで、昔懐かしい洋食屋さんにあったものと同じ。実に肩の凝らないアットホームなお店である。

 


懐かしい感じのアットホームな店内 

 

店内の雰囲気は、一見さんでも、昔から通っていたように感じさせてくれる、実にリラックスしたものである。そのムードはひとえにオーナーのお人柄とお見受けした。見事である。上の写真の手前横向きの方がオーナーです。

 

 

 

しかし、メニューは豊富でしかもちょっと凝った料理である。変にお澄ましした店などより、よほど口に馴染み、本当に「えっ!」という風に美味しいお皿が次から次と出てきた。

 

エスカルゴ
見ごたえ、食べ応えのあるエスカルゴ 

 

(当夜オーダーした料理です・・・・)

     鰹と鮭のカルパッチョ

     ポルチーニ茸の香草焼き

     イカリングフライ

     牡蠣のジェノベーゼ

     エスカルゴ

     ほうれん草とアサリのバター焼き

     ミックスピザ

     カレー風味ドリア

     若鶏のコルシカ風

     ボンゴレ?

 

あっという間に一つになったイカリング
あっという間に一つになったイカリング 

 

 

 以上の皿を次々と平らげていったのである。グルメに関しても?異能ともいうべき記憶力を発揮する仲間の一人がメールで送ってくれた、この夜、われわれ四人が口に入れてしまった料理である。えっ、本当にこんなに食べてたの?


 

牡蠣のジェノベーゼ


赤ワイン・・・、二本頼んだかな?


ほうれん草とアサリのバター焼き

カレー風味ドリア
カレー風味ドリア

 

何か・・・、飽きの来ない「普段着の味」とでも表現すればよいのだろうか、本格的と銘打つ「イタリアン」疲れした最近のみなさんに、箸休めとして是非、食して見ていただければとご紹介させていただきました。

 


若鶏コルシカ風

ミックス・ピザ
ミックス・ピザ 

 

いやぁ〜おいしかった! また、寄らせてください、オーナー。それにしても、次回は迷惑な長っ尻はやめます、外でこんなにお客が待っていたなんて・・・。スイマセン!


ベンチに座って待つお客

あの折り畳まれたベンチを倒し、お客がこんなに待っていたのです・・・
本当に、スミマセンφ(.. ) 

 

 

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 12(曽根崎神社・塔ノ鼻の石塔)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)
 


 
塔ノ鼻の石塔

 

曽根崎神社が鎮座する塔ノ鼻には、対馬海峡に面して四基の石塔が立つ。その内、二基は時代も古く、この石積みが何を意味するかは、今もって謎である。対馬で多く見られる天道信仰に関係する石塔とも考えられるが、曽根崎神社の鳥居が海岸の岩場に北面して海上に向かい立っていることから、朝鮮半島との関連を連想させ、また航海の安全を祈願する石塔のようにも見える。

 


 海に
北面して磯に立つ鳥居

 


 
対馬海峡に面する岩場

 

 曽根崎神社は、五根緒港から車で僅かに3、4分のところにあるが、本殿のある海辺に出る細い脇径の入り口には標識もないため、非常に分かりづらい。当日はたまたま、漁師の方に出会い、丁寧に教えていただいたので辿り着けたが、その案内なくば目的地に到達するのは至難である。

 


 
塔ノ鼻

 


 
塔ノ鼻へ崖っぷちの路をたどる

 


 

本殿から細い道の先に鳥居。その右手崖上に四基の石塔

鳥居を100mほど右手に岩場を伝って行くと謎の石塔が・・・

 

(曽根崎神社の概要)

    住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地

    社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。

    祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良

    五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」

と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

 

 

赤いペンキで塗られた本殿

 


本殿と鳥居


岩場から本殿を

 

五根緒(ゴニョウ)は明治の初期に、現在の地点に村ごと移転してきたという変わった履歴を持つ村である。元の村が存在した場所は舟志湾の南岸、湾口近くにあり、現在は元五根緒と呼ばれていると云う。

 


 
岩場の鳥居から本殿を

 

 そもそも、霹靂神社の由緒に書かれている磯武良が上陸した地点に祀られた「五根緒浦神社」は、対州神社誌で、「大明神」と表記されている唐舟志(舟志湾の北突端)に鎮座するもうひとつの曽根崎神社が比定されている。

 


 
崖頭に立つ謎の石塔

 


 
四基の石塔

 

従って、私の訪ねた塔ノ鼻の曽根崎神社は、対州神社誌にある五根緒村の「氏神曾根山房(古くは曽根崎神社)」が、先の村の移転に伴い、村の中心から数百メートル南東にはなるが、現在の石塔の立つ地に何らかの由緒と併せて移祀されたものと推測される。

 


 
磯良が上陸したかも知れぬ磯の岩場

 


 

浸食された海

 


 
鳥居の岩場から対馬海峡を望む

 

 唐舟志の曽根崎神社も港に北面して鳥居が立っていることを考えると、現在の五根緒に北面して鎮座する当社も、霹靂神社の由緒にある「磯武良は同郡五根緒村に揚れり」に纏わる何らかの由縁があったとするのが古代ロマンを愛する者にとっては愉快である。荒々しい岩場に対馬海峡を睨むようにして立つ鳥居を一見した時、この石塔を目印に磯良が波しぶきを浴び、海上から上陸してきたに違いないと思えてくるのである。

 


 
五根緒の港へ戻る途中に金毘羅神社が

 


 
扁額

 


 
眼下に五根緒の海岸と遠く対馬海峡が広がる

 

 

 五根緒の港へ戻る途中に航海の神である金毘羅神社を見つけた。こちらも、対馬海峡を見下ろす絶景の地に鎮座していた。本殿は曽根崎神社と同様の赤いペンキで塗られていた。

 

 夏の日差しを浴びながらふと空を見上げた。一羽のトンビが海峡の風に身を任せるように、人間界を睥睨するかのようにゆうゆうと舞っていた。

 


 
一羽のトンビが大空に舞う

 

ニューヨーク・タイムズの赤字とネット人口20億人へ到達

米新聞大手のニューヨーク・タイムズが19日に79月期決算が426万ドル(約35千万円)の赤字であったと発表した。前年同期に3560万ドル(約29億円)という大きな純損失を計上して以来、4四半期ぶりの赤字であった。


売上高は前年同期比で2.7%減少の55400万ドル(約450億円)に止まった。購読料収入が4.8%減の落ち込みを見せる一方で、広告料収入も1.0%減と引き続き減少したことが減収、延いては赤字の要因となった。広告収入減の内訳を見ると、インターネット広告は14.6%と二ケタの伸びを示したものの、従来からの収益の柱である紙広告の5.8%の減少が全体収入の足を引っ張ることになった。


その同じ日に国際電気通信連合(ITU)が、2010年内に世界のインターネット利用者が20億人に達する見通しとの報告書を発表した(ニュースソースはCNN)。


その報告書によると、世界のネット利用者は過去5年間で倍増。就中、途上国の利用者の伸びが顕著で、今年の純増22600万人の72%にあたる16200万人が途上国の新規利用者となっている。


ただし、地域ごとにネット利用の普及率を見ると、欧州で人口の約65%がネットを利用しているのに対し、アフリカでは未だ10%に満たないなど、依然、先進国と途上国との格差は大きいと報告している。


ITUはその報告書のなかで、携帯電話の契約件数がこの年内に世界人口の8割近い53億件に達するとの見通しも併せて発表している。その契約の内訳を見ると、全体の72%に当たる38億件が途上国における契約であるとし、固定電話の普及率の低い途上国での携帯端末の契約数の急増ぶりが伺われる。


ITUの報告書が述べるこうした傾向は、今後、ますます、ネット利用者数の急増を予想させるもので、ニュース等ネット配信の多様化の動きと併せ、広告媒体の紙からネットへという雪崩現象をさらに加速させるものである。


新聞社に限らずテレビなどを含めた旧来スタイルの大手メディアが、紙面・テレビ画面でのニュース配信、それに合わせた広告といった事業モデルの存立基盤が急速に浸蝕され、崩壊しようとしている。


NYタイムズ社の赤字決算が、日本の大手メディアの現在の窮乏がさらに深刻化する予兆のように思えてならない。


また、そうしたメディア媒体の世界的大変革の時代に、我が国メディアの日々の紙面づくり、番組づくりなどを見るにつけ、その危機感のなさ、時代のスピード、変化への順応度、適応力の低さなどがひどく目につくのが、実際に気になるところである。

2010年、御射鹿(みしゃか)池の紅葉、見頃は10月23日

2016年10月4日、御射鹿池(みしゃかいけ)は色づきはじめ、紅葉の見ごろは中旬から下旬!
蓼科の秋、見つけた!=白駒池・横谷渓谷の紅葉の見ごろ
御射鹿池――二〇〇九年盛夏の候
御射鹿池(みしゃかいけ)−−新緑の候(2008)
2008年秋の御射鹿池(みしゃかいけ)――紅葉の候
2013年・真夏の御射鹿池(みしゃかいけ)で涼風に游(あそ)ぶ 

  
年々、御射鹿池を訪れる人が増えてゆくように感じる。下の写真の白樺の左側には、セミプロ、アマチュアのカメラマンが20名近くいるのです・・・  

定番の御射鹿池ショット 

 

 

 この美しい湖を静かに見入る人々の瞳は穏やかである。現代のささくれ立った社会にもっとこのように穏やかな目をした人たちが増えてくれたらよいと願った。

 

 


 

御射鹿池の秋の空 

 

 

 2010年の御射鹿池の秋を見つけに行ったが、ちょっとだけ早いような、そんな秋の景色であった。

 


   

ちょっと盛りには早いかな・・・ 

 

 今回は上の方から御射鹿池を左手に見ながら歩いて見た。この視点でのミラーレイクも格別だと知った。惜しむらくは、もう少し青空が広ければなぁと思ったが、これで十分と思い直した。次の楽しみにとるものが無くなるのも考えものである。

 

 

上から歩いてみました



面白いアンングルでした


いつ見ても美しい穏やかな湖面 

 

 

 御射鹿池の紅葉は、この週末(2223日)あたり一番の見ごろではないかと感じた一日であった。

 


蓼科の秋、見つけた!=白駒池・横谷渓谷の紅葉の見ごろ

2014年の八千穂高原・白駒池(しらこまいけ)の紅葉は終了(2014.10.13)
2010年、御射鹿(みしゃか)池の紅葉、見頃は10月23日


蓼科の秋(2009.10.10)
2011年蓼科の秋、本番=プール平・大滝(2011.9.26)
2011年蓼科の秋=車山高原は爽やか(2011.9.26) 

 

今年の未曾有の猛暑の夏が過ぎ、一挙に秋の盛りへと季節は移ろう。時代の変化が激しさを増すのと歩調を合わせるかのように、四季の移ろいも慌ただしさを極めている。

 


 
白樺と紅葉、蓼科のアキ〜!

 

 つい先日まで30度を越えた真夏日などと云っていたのが、もう紅葉の季節である。今年は例年より紅葉が早い、いや遅れるといった素人見たての紅葉情報が乱れ飛ぶ。

 

2010年の蓼科の秋を見つけに行った。




標高1300mの八ヶ岳農場の紅葉はチラホラ

 

 そこで、この週末(10月16、17日)を利用し、信州蓼科へと足を向けた。猛暑で上がりっぱなしだった体内温度計をクールダウンさせるためでもあった。蓼科の秋の装いも、そこここで異なった雰囲気を見せていた。

 


 
蓼科の秋 

 

 麦草峠近くの白駒池(標高2115m)の紅葉の見ごろは1週間前が盛りであったとのことであった。写真は17日撮影である。まだ、観光バスなどでの紅葉狩りの訪問者が多かったが、みんな、肌寒いなかを、「ちょっと、遅かったね」と云いながら湖畔の周遊コースを散策していた。

 



 

白駒池の紅葉の盛りは一週間前であった


まばらに残る紅葉・黄葉


湖畔に残る紅葉


苔の美しい白駒池への小道

 

 

 私たちは、そこから横谷渓谷の突き当りのおしどり隠しの滝へ向かった。標高は1500mで、明治温泉のあるところである。そこはちょうど、今盛りの紅葉であった。マイナス・イオンの滝の真下から見る紅葉は見事であった。




遠くに蓼科山、手前がおしどり隠しの滝と明治温泉


今、盛りのおしどり隠しの滝の紅葉


紅葉・黄葉


マイナス・イオン満喫


横谷渓谷から仰ぐ秋の空
 

 そして、カラマツの黄葉は標高1600mの辺りが、いま、ちょうど真っ盛りで見事であった。これから日毎にその紅葉・黄葉は里の方に降りてゆき、かすかな冬の足音が聴こえ出す。

 


 

カラマツの黄葉(標高1600mあたり)


桃色の実をつける木の背景にカラマツの黄葉

 

 

 カラマツの黄葉。今年は雪のように降りそそぐというカラマツの落葉をぜひ見に行こうと思っている。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 11(霹靂(ヘキレキ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神の宿る海

水際に立つ鳥居

 当社は、対馬神道の元祖である雷大臣命(中臣烏賊津使主(ナカオミノ・イカツオミ))を祀る清浄なる雰囲気に包まれた神社である。鴨居瀬住吉神社や後に語る曽根崎(ソネザキ)神社と同様に参道は海路につながり、水際に一之鳥居が立つ。

神社裏手、朝日山古墳の脇に立つ鳥居から入る

 

右手が朝日山古墳・正面左手が拝殿

切り通しを出て小さな境内に

 陸上からのアプローチは神社裏手にある切り通しに立つ鳥居を抜け、朝日山古墳の真横を通り猫の額ほどの海辺に出る。その小さな場所が当社の境内ということになるが、拝殿前に立って見ると分かるが、この神社を創った人々は、境内はどう考えても海の上であると考えていたに違いないと、確信に似た思いにとらわれるのである。

小さな境内

神秘的で鏡のような海

 そして気の遠くなるような歳月、鏡のように穏やかな海をただ真っ直ぐに見据えてきた鳥居の存在こそが、雷大臣命(イカツノオミノミコト)とその子、日本大臣(ヤマトオミノミコト)が海からこの浜に上陸したとする伝承が単なる作り話ではないことを、われわれに語っているように思えてならなかった。

一之鳥居から海の参道 

一之鳥居

 当社の由緒には、神功皇后の新羅征伐の凱旋の際、随行した雷大臣命がこの浜久須の浜に上陸し、阿曇磯良が5kmほど南東にあたる湾口の五根緒(ゴニョウ)に上陸したとあるが、双方ともに海に面して鳥居が立つ。ただ、海神に連なる(海神豊玉彦命の孫・豊玉姫の子である)磯良が上陸したとされる五根緒の海岸は外海に近く、打ち寄せる波も荒々しく、霹靂の海とは大きく異なっている。

五根緒の対馬海峡に面する塔ノ鼻

 先に見た阿連(アレ)の雷命(ライメイ)神社にも雷大臣命が新羅より帰国の時に、その地に上陸し、亀卜の法を伝えたとの伝承があるが、この浜久須には、亀卜を伝える話は残っていない。

 

 また霹靂神社は、新羅や百済、伽耶系の陶質土器の出土品が多い、海に突き出た朝日山古墳のすぐ脇、その敷地内に神社があると云った方がよい。当社の祭神たる雷大臣命は、新羅を征伐し、百済の女性を妻に娶るなど百済との関係が極めて強い伝承を有す。そこらの入り繰り、つまり新羅や伽耶系の土器も出土した古墳の主との関係をどう捉えたらよいのか、今後、さらに考察を進めねばならぬ点である。

すぐ脇に朝日山古墳

海水に裾を洗わせる朝日山古墳

案内板

 (霹靂神社の概要)

    住所:上対馬町大字浜久須字大石隈1073

    朝日山古墳の脇に在す

    祭神:伊弉諾尊・事解男・速玉男 (大小神社帳)/雷大臣命・日本大臣命・磯武良(明細帳)

    社号:「対州神社誌」に豊崎郷浜久須村の「熊野三所権現」とある。その(注)の「大帳」に「古くは霹靂と号(名づ)く」とある。また、「明細帳」に「霹靂神社」とある。

    由緒

「大帳」に、「神功皇后御時雷大臣命使於百済國便娶彼土女、産生一男名日本大臣也。里人傳云上古自新羅御渡之時大明神は五根緒(ゴニョウ)村浦口(上対馬町・旧琴村)に御上り、此権現は浜久須村に御船を被着御上り給と云。雷大臣也。今號熊野三所権現。」とあり、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)が浜久須村に上陸した故事を伝える。

さらに、「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」とある。

 

 拝殿は神社というより村の集会所のような建屋であり、雷大臣の伝承を考えると、拍子抜けする造作ではあった。

拍子抜けの簡素な拝殿

 その拝殿の裏のガラス戸を開けると、急勾配の石段が見える。本殿は、それを昇った高処に鎮座している。小さな本殿ではあるが、その様はまるで湾奥から海上を睥睨するかのようにも見えた。

裏手の急勾配の石段を昇ると本殿が
 
湾奥を睥睨する本殿

 また、境内の奥の方に、社号が「熊野三所権現」であった時代の鳥居の扁額が無造作に立て掛けられていたのも印象的であった。

熊野権現の扁額

「島宿 桜櫻(サクラ・サクラ)」が描いてくれた絵巻物---長崎県・崎戸

長崎県西海市崎戸町本郷953

電話:0959-35-3422090-9798-3467

 

 92日、長崎市内から車を駆って2時間ほどで、西海市にある崎戸町に到着した。9月に入ったというのに気温が33度に達する、まだ盛夏、真っ只中といった一日であった。

 

 

北緯33度展望台より東シナ海を

 

 現在の崎戸町は人口二千人ほどだが、三菱崎戸炭鉱で繁栄した時代は、5.2平方kmの小さな島(蛎浦島+崎戸島)に二万五千人を超える人々で賑わいを見せていた。その当時は、大島大橋もなく(99年開通)文字通りの離島であったが、いまは長崎市から車ひとつで行ける地続きにある。便利と云えば便利になったものである。

 

 崎戸町歴史民俗資料館前に立つ炭鉱夫像

炭鉱夫像(崎戸町歴史民俗資料館前)

 

 その小島であった頃、私は小学三年生になるまでこの地で過ごし、父の転勤と共に東京へ移った。

 

 そして、今回、長崎での龍馬伝巡りの合間に、半世紀ぶりに崎戸での一晩を愉しんだ。宿は、長崎市で教職を務める従弟が紹介してくれた「島宿 桜櫻」である。帰京後、速やかに、この「ぬくもりの宿」を紹介しなければと思いつつ、「対馬巡礼の旅」などという、とんでもない大河?ブログに挑戦中なもので、アップが延び延びとなっていた。今日はと思い、「桜櫻」の御主人、松本弥代吉さんのブログをあけると、なんと、あの日のことがアップされていた。参った!(松本さん、ゴメンナサイ!)

 

本郷橋を渡ってすぐ、「桜櫻」が

 

桜櫻より前方の海を
「桜櫻」前には美しい海が

 

 と云うことで、慌てて、でも、思い入れたっぷりに書かねばならぬ・・・

 

 島宿の桜櫻

島宿「桜櫻」
 
松本弥代吉さんと奥様

 

 食事は海の幸主体の素材を生かした素朴な料理だろうと、事前に勝手に思い込んでいたが、然に非ず。こう云っては大変失礼だが、非常に洗練された料理であったので、正直、びっくりした。皿の種類も豊富で、ダイエットにいそしむ家内と娘がひと夜だけの小休止を余儀なくされたのは云うまでもない。

 

先付け
 
おいしくてお洒落な先付け

 

 盛り皿や取り皿などに使われた食器はセンスがよく、奥様がひとつひとつ料理を運んで来られるにつれ、私はいつしか、どこか都会の片隅の小洒落た隠れ家にいるような錯覚に捉われていった。

伊勢海老・あわび・サザエ・水烏賊・きじハタの刺身盛合せ

角度を変えて、豪勢ぶりをもう一枚パチッ!(枚数が少ないので・・・)
これ一人前です

 そうだ、荒カブのから揚げもおいしかったなぁ・・・

 

姿よく盛りつけられた料理も、和洋といったジャンルに捉われない、料理人の心がストレートに伝わってくる素敵なものであった。素晴らしい手造りの作品を紹介しようと、写真を探したところ、最初のオードブルと伊勢海老など豪華盛りが数枚ある程度で、いかに会話が急速に盛り上がったのかが、これでよく分かるというものだ(言訳かい?)。

伊勢エビの味噌汁
伊勢海老の味噌汁

 

 食事が一段落したところで、厨房からご主人の弥代吉さんがご挨拶に出て来られた。そして、掘り炬燵形式のテーブルに同席し、奥様と一緒になって、会話に加わってくれた。吹き抜けの天井を見上げると、大きな火棚とそこから垂れる自在鉤が目に入る。この木の空間に風趣を添えて見事である。

掘り炬燵形式のテーブル
火棚もある木の空間
 
火棚のある木の空間 

 それからまさに囲炉裏端に座っているような気分で、話に夢中になっていくのである。ご両者のひと言ひと言は鋭いタッチで筆を入れる匠の絵師のようで、50年前のピンボケたセピア色の記憶に、次第にくっきりとした輪郭を浮かび上がらせ、彩色がほどこされていった。ある時は、いま、流行りの3Dならぬ立体的な映像として、思い出のひとコマがゆっくりとではあるが命を吹き込まれ、動き出すこともあった。

 

 そう、この小さな島に佐世保に本店のある「玉屋」というデパートの支店までがあった・・・。横綱の千代の山や栃錦が参加した大相撲の巡業で大興奮した・・・。小学校の通学路に崖のこわい場所があった・・・。それから、おびただしい数の炭住の棟々から立ち昇る熱気と喧騒がまざまざと目蓋の内に映った。

 

 それはまるでストーリーのある絵巻物のようで、また今では甘酸っぱい匂いに変わってしまったが、潮風にのせて刺激臭のある石炭の匂いさえも運んでくれるようだ・・・

 

 人口二千人という過疎の島に、そうした活況の時代があったことは夢のようである。松本ご夫妻との話が盛り上がるうちに、あの頃の日本という国は、こんな九州の端っこにある小さな島でも活気にあふれ、夢いっぱいの人生で押し合いへし合いしていたことに気づかされた。

 

 坂の上の雲を見つめ続け、歩みの歩を進めてきたはずの日本。半世紀の星霜を経て、この国は、その結果、何を手にしたのか。大人たちの笑顔からあふれるエネルギーや笑い声に突き上げられるように南国の青空はどこまでも高かったことを、幼心にも感じていた・・・。まばゆかった日本・・・。

 

 翌朝、松本さんに往時の炭鉱時代の遺跡、いや廃墟をご案内いただいた。幼い自分が通った小学校の廃墟を山上に認めた時には、正直、言葉がなかった。また、海水プールの跡を見せられた時には、東京で初めてプールに入った時に、真水であったことに驚き、うまく泳げなかったことを思い出した。

 

昭和小学校
 山上にある
昭和小学校の廃墟

福浦発電所の煙突

黒く煤けた貯炭場の遺構


 そして、根の強い夏草が生い茂るなかを短パン姿の松本さんが先導してゆく先に、炭鉱時代の構築物があった。頂に緑を繁茂させた煉瓦造りの煙突。貯炭場の黒く煤けたコンクリートの頑丈な骨組み。深緑の蔦に覆われた大きな煉瓦壁・・・。どこか、異次元の世界へと迷い込んだような時間であった。

蔦に覆われた変電所の煉瓦壁

半世紀という時の流れは、ある意味、人間という生き物の愚かしさを教え諭すためにあったのではないのか、背丈を越える夏草の叢生する場に止まり、真っ青な空に樹木を戴く煙突を眺めているうちに、そう感じたのである。 

あの頃も、今日のように空は高く、青く澄み渡っていた。

崎戸の空 

何のことはないのだ。自然は、横暴な人の営みの残滓すら、長い時間をかけ風化させ、また覆い尽くし、そして消し去ってゆくのだ。

 

そう! 歴史はその繰り返しなだけなのだ・・・。

 

その時、誰かが耳元で囁いたのである。

 

「空はいつも無窮なんだ・・・、海は果てしなく広いんだ・・・、そして、失くしたはずの緑ですら空の上にだって甦させることができるんだ」と・・・・。 

桜櫻からの朝日

 たった一泊二日の「桜櫻」の時間であった。

 

しかし、そこで過ごした僅かな時間は、人間は所詮、大きな自然の懐に借り棲まいしている小さな生き物なのだ。自然を為す生態系のひとつとして、その共生の中にこそ命の幸せはあるのだと、小さな絵巻物にして、愚かな私の目の前に具象化して示してくれたのである・・・。

 

NHK記者、捜査情報漏えい言語道断、でも一番悪いのは検察庁など捜査当局

 

 「あす賭博関連で数ヶ所に警察の捜索が入るようです。すでに知っていたらすみません。ガセ情報だったらすみません。あと他言無用で願います。NHKから聞いたとバレたら大変な問題ですので」(NHK発表)

 

 これは、NHK報道局スポーツ部の男性記者が、野球とばくに係る家宅捜索が行われる当日(7月7日)の午前零時頃に、時津風親方に送信した携帯メールの内容である。記者はその情報を、6日に両国国技館で取材中、他社の記者から聞いたのだと、NHKの内部調査では答えているという。

 

 NHK記者のこの行為は、報道に携わる人間としてあってはならぬことであり、言語道断と云うしかない。

 

 ここでは、それは一応、置いといて、言いたいのは、前から釈然としないことなのだが、世間の耳目を集める事件での捜査当局の動き、あり方についてである。

 

 例えば、この前の厚労省の村木厚子元局長(現内閣府政策統括官・2010.9.21無罪確定)のケースで見ると、2009615日に厚労省等への一斉家宅捜索があった。その際だが、いつものようにNHKのテレビ映像は、厚労省へ向かい入口へと入ってゆく地検特捜部の面々を映し出す。いかにもこれから巨悪を暴きに行くのだと、思い入れたっぷりの映像である。

 

 これって、前から不思議に思っていた人も多いと思うのだけれども、家宅捜索って、捜査上の極めて重要な機密情報だよね。その部外者の者は誰も知らないはずの家宅捜索の、それも真正面からの映像が、堂々とNHKの放送で流される。

 

 「特捜が動いた!」、「スワッ!」と、記者クラブの連中が走り出したとしても、極秘に行なわれる家宅捜索の場所に、検察より先にテレビ局の人が到着し、ご丁寧にカメラの放列を敷いて待機するなど、普通じゃ考えられなくない? 一回や二回であれば、それこそ特ダネ映像になるのだろうけど・・・。

 

大きな事件になればなるほど、粛々と特捜が隊列を組み、捜査対象のビルへ入ってゆく映像が、それも脚立を立てたベストアングルからの映像が、流される。いつもそうだ。

 

これって、事前に報道機関が知っていなければ、出来ない芸当だよね。

 

とくに、これまでのNHKはこの手の事件では、そうした映像で後れをとったことはないのではなかろうか。

 

そう考えて来ると、今回の大相撲とばく事件の家宅捜索も、NHKは事前に知っていて、その情報が内部の記者に漏れたと考えるのが、自然だと思えるんだよね。だって、家宅捜索を何日に行うなんて情報は、記者の間では重要情報に決まっているのだから。他社の記者にそんな貴重な情報を教えるはずがない。

 

NHKもインサイダー事件などで、コンプライアンスの徹底など内部管理体制の整備徹底に尽力していると云っているのだから、今回の顛末も、正直に視聴者に話をしなけりゃね。

 

そして、これが一番大事な問題なんだけれど、家宅捜索の情報を聞いた奴が悪いんじゃなくて、その機密情報を最初に漏らした奴が、一番悪いに決まっていることは、云わなくたって自明だよね。

 

そう、検察なり、警察という捜査当局が流さなければ、誰もその事実を知ることはできないんだから。

 

今回の大阪地検特捜部のFD改ざん事件も言語道断で怖ろしい事件なんだけれど、これまでの前田恒彦元主任検事や大坪弘道前大阪地検特捜部長、佐賀元明前副部長の最高検察庁による取り調べについてだけど、これも変なんだよね。

 

だって、密室で行われているはずの取り調べの内容が、タイミングよく詳しく、報道機関から流れて来る。これって、最高検察庁の取り調べに関わっている人が、しゃべっているってことだよね。じゃなければ、各報道機関は同じ内容の報道になるはずないもんね。み〜んな、同じだよね、内容が・・・。これって、目的は情報操作?

 

そもそも、検察庁が取り調べ中の情報を漏らすって、厳密にいえば、公務員の守秘義務違反だし、それ以上に、大阪地検特捜部が自ら描いたシナリオに沿って捜査を誘導してきて冤罪を造り上げた構図そのものだよね。

 

何か、検察も報道機関も、村木さんの時に犯した過ちを、性懲りもなくまた、繰り返しているとしか思えないんだよなぁ〜。この冤罪造りの馴れ合い、自分だけが正義だという思い上がり・・・。仕様がないのかね、権力の体質ってやはり変わらないのかねぇ〜。自らを省みることなどするはずがないのが、権力ってもんだからなぁ・・・。あ〜ぁ・・・

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

 

 太祝詞(フトノリト)神社は、雷命神社と異なり海から2km余内陸に入り込んだ山間(ヤマアイ)に、大きな樹々に囲まれて静謐の時を刻んでいる。かつて「加志大明神」と呼ばれていたことを表わし、一之鳥居の扁額は、「賀志大明神」とある。

 


加志浦
太祝詞神社より2kmほどの加志浦



 
樹々に囲まれる太祝詞神社

 


賀志大明神の鳥居扁額
 
賀志大明神の扁額

 


 
一之鳥居から

 

当社の一之鳥居前と拝殿向かって左側に小さな川筋が認められる。現在、そこに清流はなく、石ころだらけの川底をさらすだけであったが、加志岳や大山壇山に雨が降った時などは、おそらく清冽な流れを見せるのだろう。

 

神社前の川底をみせる小川
 
神社前の川底を見せる小川

 

境内を流れる細い流れ
 
境内を通る細い流れ

 

実際に、鬱蒼と樹木の茂る境内でじっと耳を澄ますと、せせらぎの音がかすかに聴こえてくるようで、上古、この地において神聖なる亀卜の法が行なわれていた情景が目蓋の内にまざまざと浮かび上がってきた。

 


 
参道も古木に囲まれる

 


 
境内は緑色の光に染められる

 



 
鳥居越しに見る拝殿

 

そして、占い神事の本家とも云うべき太祝詞神社が、以下に述べるように、畿内の都に存在する、或いは存在した延喜式内社の太詔戸神社の本社であることが、この対馬が上古、特別の意味を持つ土地であったことを示していると云える。

 

 

昼なお暗い森中に立つ鳥居


 境内を仕切る素朴な石垣

境内を仕切る荒削りの石垣

 

延喜式神明帳に「宮中・京中」に「宮中神36座、京中神3座」と分類される神々がいる。その「京中神3座」のなかに、現在は京中にその痕跡を止めぬ神社であるが、京二条坐卜神二座」という記載が残されている。その二座とは洛中に「卜庭(サニハ)神」つまり、卜(ウラナイ)の神として祀られていた太詔戸(フトノリト)命と久慈真智(クシマチ)命(注1)であるが、そのことは、「日本三代実録」の貞観元年(859)正月27日甲申条から分別される。

 

即ち、京畿七道諸神進階及新叙。(中略)左京職従五位上太祝詞神久慈真智神並正五位下。」と叙勲において、京中に二柱の名前が見られることから、そうした神社が存在したことは事実である。(因みに、当社は承和10919日に従五位下、貞観1235日に正五位上へと昇格しており、年代のズレはあるが、勸請先より上位の官位を得ている)。

 

そして、延喜式の太詔戸命神の注釈には、「本社 大和國添上郡 對島國下縣郡 太祝詞神社」と記されているのである。久慈真智神の注釈は、「本社 坐大和國十市郡天香山坐櫛眞命」とある。

 

そのことから、大和国添上郡の太祝詞神社は、現在の天理市の森神社(祭神:天児屋根命)が比定されるが、天平神護元年(765)に対馬の当社から大和国添上郡にまず勸請され、平安遷都に併せて、さらに左京二條へと勸請されたと考えられる。そして現存するのが、本家たる当社と大和の森神社の二社ということになる。

 


 
樹間に見える拝殿

 

(注1)

藤仲郷の説では「宇麻志麻治命は久慈真智(クシマチ)命にして、太詔戸(フトノリト)と共に卜庭(サニハ)神であり、この二坐を併せて太詔戸神ということもある」としている。また、京中2座の注釈にある久慈真智(クシマチ)命の本社とされる天香山神社には、久慈真智命が深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの話も伝わる。

 

 つまり、「占い神事の宗家・元祖」である天児屋根命を祀る源流が対馬の太祝詞神社にあるという事実はもっと注目されるべきであり、わが国神道の系譜のなかで「対馬神道」が、本来、重要な位置を占めるべきことを意味しているはずである。

 


拝殿
拝殿

 

本殿

 


太祝詞神社の素朴な扁額
太祝詞神社の素朴な扁額

 

 

(太祝詞神社の概略)

    住所:美津島町加志

    社号: 加志大明神(古くは大祝詞神社と号す)(大小神社帳)

    祭神:大詔戸(フトノリド)命・久慈麻知命(大小神社帳)/大詔戸命・雷大臣命(大帳)/大詔戸神(明細帳)

    由緒(明細帳)

神功皇后が新羅を征し玉ふ時、雷大臣命は卜術が優れて長(タ)けたるにより御軍に従へり。新羅が降属して凱還の後、津島縣主たり、韓邦の入貢を掌(ツカサ)どる。対馬下県郡阿連村に居り、祝官をして祭祀の禮(レイ)を教へ、太占亀卜の術を傳ふ。後に加志村に移る。今、大詔詞社に合祭す。

 

以上のように、当社は延喜式神名帳のなかで、最高の格である名神大社に列せられている。そのことは、当社が「占い神事の宗家・元祖」である太祝詞神(天児屋根の別名)を祀る神社の本社であったことの証であり、ここで、古代神道の亀卜が行われていたことを証するものである。

 

なお、拝殿に向かって右脇には、雷大臣命の墓との伝承の残る宝篋印塔(ホウキョウイントウ)が立つ。阿連から加志に移り住み、ここで亀卜の法を行なったとの言い伝えから、この地で雷大臣命が終焉の時を迎えたと考えてもおかしくない。おそらく雷大臣命の遺名を偲び邑人たちが、慰霊の石塔を建てたのだろう。

 


 
雷大臣命の墓と伝わる宝篋印塔

 

本殿を背景にひっそり立つ雷大臣命の墓
 
本殿を背景にひっそり立つ雷大臣命の墓


雷大臣命に寄り添うように蘇鉄の樹が
 
雷大臣命に寄り添うように蘇鉄の樹が

蘇鉄は室町時代の頃に貴人の証として庭に植えるのが流行した

 

また、当社の宮司も雷命神社と同じ橘氏であるが、同氏はもと加志氏と名乗っていた。「対馬の神道」に橘氏についての註(P134)が、「阿連のミヤジ即ち神官たる橘氏は雷大臣の子孫と称し、雷大臣の家跡と伝えるミヤジ(宮司)壇なる神地は、代々橘氏の所有にかかる土地であった。橘氏もとは加志氏であったと伝えられる」と、ある。

 但し、神紋は雷命神社の「丸に橘」ではなく、対馬藩主宗氏の家紋である「桐」を使用した「五七の桐」となっている。

 

菅首相の国辱外交=「尖閣諸島」の致命傷となった日中首脳会談

  104日のブリュッセルでの日中首脳の偶然的首脳会談において、日本は致命的ミスを犯した。

 

 中国・新華社は会談を受けて105日に、「温総理『釣魚島は中国固有の領土』強調 菅首相と会談で」との見出しで、「日中首脳会談で温首相は、釣魚島(尖閣諸島)は中国固有の領土であると改めて主張」と、報じた。

 

 中国漁船衝突事故に際して、当初、日本政府は「尖閣諸島に領土問題は存在しない」として、国内法に照らし船長の逮捕・拘束・延長は検察の判断で、粛々と手続きを進めた結果であると説明した。

 

 それが、船長の拘置延長を決めた19日を境に、中国政府の対応が一挙に硬化した。翌日の20日、軍事管理区域内で不法に軍事目標をビデオ撮影したとして、建設会社「フジタ」社員4名が中国内で拘束された(内3名は30日に釈放)。

 

21日には、ニューヨークを訪れていた温家宝首相が「われわれは(日本に対し)必要な強制的措置を取らざるを得ない」と発言をエスカレートさせた。経済面でも23日以降、レアアースの実質的な輸出制限に踏み切るなど、対日圧力を強めていった。

 

 そして、25日に釈放された船長が福州の空港に到着するのに合わせ、中国外務省は、「(日本は)中国の領土と主権、国民の人権を著しく侵犯した。中国政府は強い抗議を表明する」と述べ、「日本側は今回の事件について中国側に謝罪と賠償を行わなければならないとの声明を発表した。まさに矢継ぎ早の強硬策の連続パンチであった。

 

 それに対し、日本政府の不甲斐なさは、処分保留で船長を釈放した24日以降の腰砕けの対応である。

 

 そもそもこの事件は、前にも述べた(9.26付け)が、中国漁船の拿捕という初期動作の幼稚な決断にあったことは、言を俟たない。

 

 しかし、国家主権を前面に押し立て、拿捕し、船長を逮捕してしまったのであれば、それ相応の外交上の筋の通し方があって然るべきである。

 相手が牙をむいて来たら、途端に怖じ気づき、あたふたと狼狽し、地検が勝手に判断し釈放したのだと云う。

 

 赤っ恥もいいところである。

 

 また、29日の細野豪志前幹事長代理の首相特使も笑止である。仙石官房長官はその時点で、「ボールは中国側にある」と明言していたのに、なぜ、わが国がわざわざ出向いて行かねばならぬのか。私は調整に動くなと云っているのではない。外交上の調整とはまさに、内々に行なわれるもので、相手にボールがあると建て前で云うのであれば、中国側が動くまでこちらから表立って訪中する特使などは、外交上の駆け引きではあり得ぬ悪手中の悪手である。

 

 そして、止(トド)めが今回の日中首脳会談の究極のミスである。

 

 頭を下げて、何とか首脳会談をセットしようとしていた様子だけで、日本側のうろたえ振りが国際的にも失笑を買っていた。そのなかで、鼻面を取って引き回されるような形で、廊下で会談したというではないか。場所が廊下であろうが便所であろうが、双方が平等の条件で臨んだ会談であれば、文句はない。

 

 しかし、現実は、中国側は会談を決意したと同時に、中国外務省の日本語の堪能な日本担当者を同席させた。その一方で、日本は会談を渇望しながらも、そもそも、中国・モンゴル課長すらASEM自体に同行させていなかったというではないか。

 

 素人でも分かるが、あまりにもお粗末である。

 

 日本は、中国語を一切理解できぬ首相と英語通訳だけ。対する中国は対日政策を熟知する日本語堪能な人物と温家宝首相。

 

 案の定、会談翌日の新華社は、「温家宝首相は『釣魚島は中国固有の領土だ』と改めて強調した」ことを、記事の冒頭に載せ、世界に向けて配信した。日本は「やあやあ、座りましょうという感じで自然に、普通に会話ができた」と、首相が悦に入り、「阿吽の呼吸で(会談が)調整された」だのと、能天気も度を超している。

 

 それこそ日本が実効支配を続けている尖閣諸島が、一挙に実質的領土問題として日中間に浮び上った瞬間であった。

 

 愚かである! あまりに稚拙で不勉強である。

 

 この将来にわたる国益の毀損を菅直人という人物は、どのように穴埋めするのか。議員を止めれば済むような話ではない。まさに国賊である。昔であれば、「一族郎党、市中引き回しの上、獄門打ち首の刑」だと、叫びたい心境である。

 こんな体たらくの国を放っておく手はない。

 幕末ではないが、ロシアや韓国などが北方領土や竹島は、「俺のものだ」と、列強国が牙をむいてくるのは火を見るよりも明らかである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)
 

雷命(ライメイ)神社は阿連川沿いに面した小さい丘の上にある。古くは「イカツオミ神社」、その後、明治までは「八龍大明神」と呼ばれていた。

 



 
阿連川に流れる水、川沿いに鳥居

 

 

八龍大明神の鳥居扁額
 
鳥居に掲げられる八龍大明神の扁額

 

対馬卜占に関して、伴信友はその著書「正卜考」(1858)の中で、「対馬国卜部亀卜次第」の著者、藤斎延(ナリノブ=斎長の父)がそれ以前にまとめたと云われる「対馬亀卜伝」を引き、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る。雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあることに言及。

 

雷命神社の鳥居扁額
 
雷命神社の扁額

 

「対馬亀卜法」の伝道者が雷大臣命(中臣烏賊津使主)であり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」であることが、ここに語られている。

 


阿連の海 

 

 

雷命神社の入口前には鳥居が連なるが、一之鳥居の手前50mほどに、伝教大師入唐帰国着船之地という碑が立っている。

 


 
最澄着船の石碑

 

「対馬歴史年表」(対馬観光物産協会HP)に、「805年 第16次遣唐使に同行した最澄が対馬の阿連(あれ)に帰着。行きの船は、4船中最澄の乗った船以外はすべて難破、帰りの船も流されて対馬に漂着した。当時、玄界灘を渡るのは命懸けだった」とある。

 


 
境内へと鳥居が列ぶ

 

現在、当社は阿連の海まで500mほどの距離を隔てるが、この碑の存在が、当時、この地点が湊であったことを示し、雷命神社の一之鳥居も海辺乃至は水際に面し、立っていたことは確かと云える。

 


 
陽光に反射する阿連の海

 

 当日は、豆酘から久根田舎、小茂田浜を抜けて、阿連に入った。小茂田から山懐へ入り、曲がりくねった道が続いたが、最後の峠を越えると、突然、視界が開けて、阿連の海が目に飛び込んで来た。晴天に恵まれたこともあり、太陽の光に反射する海原は、まばゆく、神々しく、美しかった。

 


階段下の境内



階段の上に拝殿が

 

(雷命神社の概要)

    住所:厳原町阿連字久奈215

    祭神:対馬県主雷大臣命

    由緒(大帳)

県主雷大臣命の住せ玉ふ所也。又云八龍殿とは今云八神殿の事也。・・・載延喜式神名帳雷神是也。後�畍祭于與良郷加志村大祝詞神社之同殿。

(境内社の)若宮神社の祭神は日本大臣命(ヤマトオミノミコト)也。古くは阿惠乃御子神社。

・・・神下云、大八龍〔中臣烏賊津使主〕小八龍〔日本大臣命〕。亀卜傳云、昔神功皇后御時使于(ユク)三韓皈(カヘ)津島、留阿恵村傳亀卜於神人也。続日本紀云天応元年〔781年〕七月右京人正六位上柴原勝子公言、子公等之先祖伊賀都臣、是中臣遠祖天御中主命(注1:アメノミナカヌシノカミ)二十世之孫意美佐夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世使百済便娶彼土女、産一男名日本大臣。遥尋本系、皈於聖朝時賜美濃國不破郡柴原地、以居焉。厥後(ソノゴ)因居命氏遂(ツヒニ)負柴原勝姓。伏乞蒙賜中臣柴原連。於是子公等男女十八人依請改賜云云。」
 

(注1)

『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神で、その後に顕れた高御産巣日神、神産巣日神と合わせた『造化三神』のひとつ。『紀』においては、『神代上』の『天地開闢と三柱の神』の第四に「次(二番目)に国狭槌尊(クニサツチノミコト)。又曰く、高天原に生(ナ)れる神、名(ナヅ)けて天御中主尊〔造化3神〕と曰す」とある。

 


 
雷命神社



 
拝殿

 
橘の神紋

拝殿に橘の神紋

 


拝殿の奥に本殿

 


境内社の若宮神社
 
境内社の若宮神社(祭神:雷命の男子、日本大臣命(ヤマトオミノミコト))

 

 

「続日本紀」では、中臣烏賊津使主は「生二男。名曰本大臣。小大臣」と、二人の男子を百済の女性との間にもうけたとあるが、「大帳」では「産一男名日本大臣」となっており、その点も異なっている。

 

対馬の伝承では「一男」とあり、その男子は「日本大臣(ヤマトオミノミコト)」となっている。おそらく対馬には、亀卜の法を伝え、対馬県主に任じられた「日本大臣」のことのみが話として残り、「小大臣」は対馬を離れ、美濃国栗原の地を賜り、「栗原」の姓を名乗ったものと考えられる。

 

さらに「大帳」の由緒は、「姓氏録」を引用し、「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」と記す。その対馬県の始祖たる天児屋根命「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、

 

「・・・且(マタ)天児屋命(アマノコヤネノミコト)は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」と、「占い神事の宗家」であると記されている。

 

このことは、中臣烏賊津使主(雷大臣)とその子(日本大臣)が「対馬県主の祖」であると同時に、烏賊津使主が伝えた「対馬の亀卜法」がこの国の「占い神事の宗家」に連なる正統なる本流であることを示している。

 

 

境内より阿連川越しに田園風景

 

そして、対馬神道が雷大臣の伝来に始まると考えた時、雷大臣が、当初、住みついた阿連の地が、「対馬神道のエルサレム」であるとする鈴木棠三(トウゾウ)氏の言葉は、わたしが山間から目にしたキラキラと輝く神々しい阿連の海原と相まって、まさに得心のゆくところである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

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ここで、対馬神道の中核をなす対馬亀卜について説明をしておこう。

 

長崎県「県の文化財)HPにおいて、 対馬の亀卜(キボク)(無形民俗文化財)は次のように解説されている。

 

「亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う方法である。対馬豆酘(ツツ)の岩佐家は、亀卜を世襲する家筋で、『亀卜伝義抄』を伝え、今日なお旧暦正月3日の雷神社の祈年祭(トシゴイノマツリ)に奉仕している。対馬の卜部(ウラベ)は、壱岐や伊豆の卜部とともに古代には宮中の祭祀に関与していたものであるが,亀卜習俗の伝承は今日ではここのみとなった。そのため古代の民俗知識を伝える貴重な資料として記録保存を行うため国から選択された。」

 

 その卜部について、「延喜式・巻3」は「臨時祭」の条において、「卜部は三国の卜術に優れた長者を取る(伊豆五人・壱岐五人・対馬十人)」、「神託を得るには、役目に堪えられる人物を任じるべきで、それには、伊豆から五人、壱岐から五人、対馬から十人を登用すべし」との記述があることから、対馬・壱岐・伊豆を「三国卜部」といい、この三国が卜部族の本拠地と云われる。

 

 伴信友の著書「正卜考」(1858が引用した一書に、対馬の卜部が、「其の卜部上古十家あり、其家絶て中古五家あり、今僅に一家存せり」とあり、江戸末期において、亀卜を伝える家がすでに岩佐家のみになったことが記されている。ただ、鈴木棠三氏は、「橘窓茶話」に「今僅存二家」とあり、「明治維新前までは、豆酘の岩佐家、佐護の寺山家が藩のため歳の豊凶を卜する例であった」と述べている。

 



阿連の大野崎沖


阿連の大野崎辺り 

 

 

また対馬亀卜は「津島亀卜伝記」や「対馬国亀卜次第」に詳しいが、その中では「亀を捕る最上の場所は、阿連の『大野崎』とされ、捕獲した亀には酒を飲ませ、八龍神(八龍大明神=雷命神社)の祠に供え、殺亀日に甲羅を剥ぐ」などの古来の亀卜法が具体的に語られている。

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

これから頻繁に名前が出てくる「中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)」と「雷大臣命(イカツオミノミコト」について、ここで「紀」の記述等を引用しながら説明をしておこう。

 

中臣烏賊津使主(雷大臣命)とは、一体、どういった人物であったのか?

 

まず、「紀」の中で、中臣烏賊津使主に関する部分は以下の通りである。

 

【仲哀天皇(在位西暦192200年)89月 「天皇神託を疑い、崩御」】

「是(ココ)に、皇后と大臣(オホオミ)武内宿禰、天皇の喪を匿(カク)して、天下(アメノシタ)に知らしめず。則(スナワ)ち皇后、大臣と、中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君・物部胆昨連(イクヒノムラジ)・大伴武以連(タケモチノムラジ)に詔(ミコトノリ)して曰(ノタマ)はく、「今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。若し百姓(オホミタカラ)知らば、懈怠有(オコタリア)らむか」とのたまふ。

則ち四大夫(ヨタリノマエツキミ)に命(ミコトオホ)せて、百寮(モモノツカサ)を領(ヒキ)ゐて、宮中(ミヤノウチ)を守らしめたまふ。窃(ヒソカ)に天皇の屍(ミカバネ)を収め、武内宿禰に付(サヅ)けて、海路(ウミツヂ)より穴門〔アナト/P4049〕に遷(ウツ)りて、豊浦宮(トユラノミヤ)に殯(モガリ)し、天火殯斂(ホナシアガリ/喪を秘すために、灯火をたかない殯の意味。ただ、「ホナシモガリ」と云わぬことに疑問)をしたまふ。

甲子に、大臣武内宿禰、穴門より遷りて、皇后に復奏(カヘリコトマヲ)す。是の年に、新羅の役(エダチ/新羅征討)に由りて、天皇を葬(ハブ)りまつること得ず。」

 

と、あるように「中臣烏賊津連」は仲哀天皇の崩御を世の中に秘匿する相談に与るほどに神功皇后の信頼厚い四大夫〔他に大三輪大友主君・物部胆昨連・大伴武以連〕の一人であった。

 

なお、「紀」の(注)で、中臣烏賊津連について、

「神功摂政前紀3月(P417)・允恭紀712月条に『中臣烏賊津使主』とある。前者はここと同一人であるが、後者は同一人・異人、両説ある。『続紀』天応元年7月条に『子公等之先祖伊賀都臣(イカツオミ)、是中臣遠祖天御中主命二十世之孫、意美夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世、使於百済、便娶彼土女』とあり、前者と同一人。しかし、『姓氏録』の『雷大臣(イカツノオミ)』と『中臣氏系図』『尊卑文脈』の『伊賀都臣(イカツノオミ)』の名もあり、これも『中臣烏賊津使主』と同一人か否か説がある。」

 

と、説明されている。「神功皇后の時代に『烏賊津使主』が、百済に使いした際に、彼の地の女性を妻とした」とあるのが、後述する雷大臣(イカツノオミ)の伝承と一致し、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)と雷大臣が同一人であると認定してよい。

 

【気長足姫尊(オキナガタラシニメノミコト)神功皇后(仲哀天皇923月)】

「九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮に崩(カムアガ)ります。時に皇后、天皇の、神の教に従はずして早く崩りまししことを傷みたまひて、以為(オモホ)さく、祟れる神を知りて、財宝国(タカラノクニ)を求めむと欲す。是(ココ)を以(モ)ちて、群臣(マヘツキミタチ)と百寮(モモノツカサ)に命(ミコトオホ)せて、罪を解(ハラ)へ過(アヤマチ)を改めて、更に斎宮(イツキノミヤ)を小山田邑に造らしむ。

三月の壬申(ジンシン)の朔(ツキタチ)に、皇后、吉日を選ひて斎宮に入り、親ら神主と為りたまひ、則(スナハ))ち武内宿禰(スクネ)に命(ミコトオホ)せて琴撫(コトヒ)かしめ、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を喚(メ)して審神者(サニハ)(注1)としたまふ。」とある。

 

(注1)  審神者は、神が憑依した神功皇后の発する御言葉を、解釈し、皆に伝える役で、神事に関わる者である。

 

 以上の「紀」の二か所の記述から、中臣烏賊津使主という人物が、神功皇后の重臣中の重臣であり、かつ皇后に憑依した神の言葉を翻訳し伝える神職の役割を担っていたことが分かる。

 

対馬縣主の祖たる中臣烏賊津使主(雷大臣命)は「対馬神道」の祖である

さらに、「新撰姓氏録(シンセンショウジロク)」(815年嵯峨天皇の命により編纂)の氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」P342)において、氏族「津嶋直」は「本貫地:摂津国、種別:未定雑姓」に分類されるが、「始祖」は「天児屋根命(アマノコヤネノミコト)十四世孫、雷大臣命乃後也」と記載されている。このことから、対馬島内に祭神として数多く祀られている「雷大臣命」と同一人たる「中臣烏賊津使主(イカツノオミ)」が、対馬県主の祖であると断定できる。

 

天児屋根命については、「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、「・・・且(マタ)天児屋命は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」とあり、この国の「占い神事の宗家・元祖」であることが記されている。

 

先述の通り、中臣烏賊津使主は神の憑依した神功皇后の発する言葉を解釈し人々に伝える審神者(サニワ)」と呼ばれる神務に携わる特別な存在の人物であった。そして、中臣烏賊津使主が神事の占い事の宗家たる天児屋根命十四世孫とあるのも審神者(サニワ)」の正統性を裏付けるものである。

同時に、中臣烏賊津使主(雷大臣命)が、対馬神道の特徴をなす「亀卜(キボク)」の伝道者とされ、占いを専業とする「卜部」氏の始祖と伝えられるのも首肯できる。

 

そのことを、「対馬国大小神社帳」は、「対馬国社家之儀者、往昔雷大臣対馬県主に被相任候より以来、雷大臣之伝来を得而祭祀�偃請を仕来り、則対馬神道と申候」と記している。つまり、中臣烏賊津使主(雷大臣)が「対馬県主」に任じられてから、祭祀�偃請(卜の法)を伝授したが、それが即ち「対馬神道」であると云っている。

 

また、卜占に関する伴信友の著書「正卜考」(1858)に本伝とする藤斎延(ナリノブ=斎長の父)の伝書にも、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る、雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあり、対馬亀卜法の起源が、中臣烏賊津使主、雷大臣命にあり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」だと語られている(下線部分は「霹靂神社」参照)。

 

以上より、中臣烏賊津使主(雷大臣命)は、「対馬縣の祖」であると同時に、「対馬神道の祖」であることが分かる。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

鶏知(ケチ)は、ほぼ対馬の中央部に位置し、鎌倉時代中頃まで対馬統治の庁が置かれていた土地である。



 
鶏知の住吉神社



 
一之鳥居と参道

 

その鶏知に鴨居瀬同様に住吉神社(美津島町鶏知甲1281)が鎮座する。鴨居瀬の住吉神社を移祭したと由緒にあるが、祭神は綿津見系の海神であり、住吉の名を冠しながら、肝心要の住吉三神が同社に祀られていないのが奇妙である。

 


階段の上に神門が

二之鳥居


 



 
拝殿正面



 
阿(ア)形の狛犬



 
吽(ウン)形の狛犬

 


本殿

 

また、境内社が本殿脇にあるが、明細帳では和多都美神社(祭神:豊玉姫命・玉依姫命)、大小神社帳では宗像神社(祭神:宗像三女神)とされている。いずれにしても、住吉系の神ではないのが、不思議である。

 


 
境内社(和多都美神社or宗像神社)




 
拝殿脇に階段を昇って境内社が


 

(鶏知住吉神社の概略)


 住吉神社の扁額

扁額

    社号:住吉大明神、鶏知(ケチノ)住吉神社、住吉神社(大帳・明細帳)

    祭神:神功皇后(大小)、彦波瀲武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズノミコト)(大帳)、彦波瀲武鵜茅不合葺尊・豊玉姫命・玉依姫命(明細帳)

    由緒(明細帳)

対馬國下縣郡鴨居瀬村紫瀬戸住吉神を移祭す。年月不詳。康永元年(1342年)九月十三日大宰府の命に由り放生會神事再興、明治七年六月郷社に列せらる。神功皇后新羅を征伐し対馬に還御、下縣郡鶏知村の行宮に入御し玉ひ、和多都美神社を造営し給ひし神社なりしが、現今白江山住吉神社に合祭す。

 


藤氏寄贈の燈籠
 
寄進者に「藤」氏の名が。対馬國総宮司職「藤」氏の末裔であろう

 


拝殿から広い上の境内を(土俵と神門を見える)

階段上も広い境内・拝殿脇に境内社が



 

 

 

 

    「神奈備」というHPは、「鶏知」の地名の由来を「神功皇后が黒瀬の城山に登り四方を眺望した時、東方から鶏の鳴き声が聞こえたので、村のあることを知り、当地に宮を造営した。」と紹介しているが、その伝承の出所を確認することはできなかった。

 


 

写真の左、北位方向に黒瀬の城山がある(上見坂展望台より)



 
鶏知、向こうに空港(城山は写真の外、左奥の方向)

手前右の町が

 

「鶏知(ケチ)」は、対馬の支配者であった阿比留一族の本拠地として、歴史を刻んでいた。寛元四年(1246)、阿比留氏に代わり宗氏が統治者となるが、阿比留一族への島民の崇敬の念は変わらず、祭祀の分野で一族を遇することで、侵略者たる宗氏に対する島民の反発をそらした。文永十年(1273)、豆酘寺の別当阿比留の講師長範の子長久に父の職を継がせるなど一連の処遇の中に、鶏知・住吉神社の神主任命があった。以下に、当社に関わる部分を「対馬の神道」から引用する。

 

「応永四年(1397)、大掾(ダイジョウ)阿比留三郎兵衛を鶏知の住吉神社の神主に任じたのも、動機は豆酘寺別当を復職させたのと同じであったろう。鶏知の住吉神社は、木坂の八幡本宮(国幣中社海神神社)および国府の八幡新宮(県社八幡宮神社)のいわゆる両八幡宮に次ぐ名社であったが、さらに時代を遡れば、紫瀬戸の住吉神社、木坂の八幡宮等と三社並ぶ古社でさえあった。かかる位置の高い、由緒の古い社の神官として阿比留氏が、宗家政権の下において祭祀に奉仕したという事実は大きな意味をもつものと考えざるを得ないのである。

大帳の記事によれば、康永元年(1342913日大宰府より御書が下って、木坂および国府の両八幡宮の例に準じて、鶏知村住吉神社においても放生会が執行せられることとなった。(中略)

この社の放生会に際して、阿比留大掾が奏する祝詞を『阿比留祝詞』と呼ぶ。(P147)」」とあり、

 

当社の対馬における社格の高さが記されている。加えて文政10年(1827)までの五百年の間は確実に、その『阿比留祝詞』が実際に奏上されていた事実は重い。しかもその内容も「虚見日高大八洲所知今皇帝西海筑紫乃於盧橘乃澳ナル津島国司以下百吏神主祝部等諸聞ト宣フ・・・」など、今後、解明すべき興味深いものがある。

 

 また阿比留氏に関しては、「古代文字たる謎の阿比留文字」の存在がある。

阿比留文字という対馬の阿比留氏(宗家の前の支配者)に伝わったというハングル文字に似た古代文字がある。その文字の刻まれた石碑や道祖神が、北九州や信州安曇野という安曇氏に所縁の深い土地で発見されていることも、海人族と天孫族の抗争を考える上でのひとつの考察の視点であり、今後の課題であると楽しい思いが膨らんでくる。

 

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 7(梅林寺)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

 

 梅林寺(美津島町小船越)は、国道382号線沿いの坂を少し上った処にある。その382号線の200m先を右に入った一帯が鴨居瀬地区になるので、先に紹介した住吉神社に行く途中に訪ねるとよい。

 


 

梅林寺


梅林寺と記す木柱
 

 

 梅林寺は日本への仏教伝来に深くかかわる伝承を有す寺であるが、仏教伝来についての「紀」の記述はあまりに素っ気ない。

 

【欽明天皇1310月 「仏教公伝」】

「冬10月に百済の聖明王(注1)、西部・姫氏・達率・怒リ斯到契・等(せいほう・きし・だちそち・ぬりしちけい・ら)(注2〜5)を遣(まだ)して、釈迦仏の金銅像一�默・幡蓋若干(ばんがいじゃくかん)・経論若干巻を献る」とあるのみである。

 

(注1)    聖明王(在位523554):百済26代王。

(注2)    西部:百済の王都五部(上部・前部・中部・下部・後部)の
  一つ。上下は東西、前後は南北を表すため、西部は下    
  部にあたる。

(注3)    姫:姓名の性の部分

(注4)    達率:百済十六等官品の第二品。それまで、遣日使として「達  
  率(だちそち)」のような高位の者の例はない。また、姓 
  に 氏をつけるのも異例。さらに官品は姓名の上に冠す
  るので、それも異例である。

(注5)    怒リ斯到契:姓名の名の部分

 

つまり、百済の聖明王が、欽明天皇13年(552年)に使者を遣わし、仏像や経論などを献上したとあるのみである。

 


  

本堂軒先に吊るされる梵鐘


本堂 

 

ただ、伝承として、その百済の使節は渡海途中の路津(ワタリ=船着き場)としてこの小船越に寄港したとされる。その際に、御堂を建て仏像を仮安置した場所が当地であり、日本最古の仏跡とされる由縁となっている。後に、その仏縁の地に建立されたのが梅林寺である。日本最古の寺院とも伝えられるが、その真偽のほどは定かではない。

 

 


山門より本堂を 

 

山門を入ってすぐ右手に歴代住職の墓碑が25基、並んでいたが、初代の墓碑にはただ、「開山」と刻まれているのみで、詳細を知ることは出来なかった。

 


  

25基の歴代住職の墓碑


自然石のだ円形の「開山」 の墓碑

 

また、この梅林寺は中世に入っても、日朝関係の橋渡しの役割を担うことになった。嘉吉3年(1443)に李氏朝鮮と宗貞盛の間に交易に関する「嘉吉(カキツ)条約」が結ばれ、対馬から朝鮮への歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を朝鮮から支給されることとなった。その渡航認可証明書(ビザ)が「文引(ブンイン)」といわれ、発給権が宗氏に与えられた。その文引を発給する事務を担ったのが当寺であった。

 

朝鮮からの仏教伝来の通過地点であった当寺が、中世においても日朝交易のビザ発券業務を一手に引き受けることになったのも、その間も朝鮮と梅林寺の関係が強かったことを表わすものと云ってよい。

 

ただ、現在、境内にその縁(ヨスガ)をほとんど見出すことは出来ないのが、非常に残念である。

 


山門と本堂の真中に焼香炉が 

 

 

さて、話は逸れるが、聖明王から贈られた仏像のその後について、「エッ!」という伝承が残されているので、ここでご紹介することにしよう。

 

仏教を新たな国家鎮護の要として勢力拡大を企図する蘇我稲目と、それまでの神道を守ろうとする物部尾輿、中臣鎌子の対立が激化してゆく。そうした状況で、疫病が蔓延。その原因は異国から入って来た蕃神(仏教)のせいであるとされ、聖明王から献上された仏像は、物部尾輿により難波の堀江に棄てられてしまう。

 

半世紀が過ぎた推古紀10年(602年)、信州の若麻績東人(本田善光)が堀江の水中から阿弥陀仏像を発見、出身地の信州麻績へと持ち帰る。その後、皇極天皇元年(642年)、阿弥陀如来のお告げにより現在の善光寺の地に移り、そこに伽藍造営がなされた。それが信濃善光寺の起こりで、その仏像が善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」とされている。(「善光寺縁起」・「伊呂波字類抄」)

 

 但し、「紀」によれば百済より献呈された如来は「釈迦如来」であるが、「善光寺縁起」では「阿弥陀如来」となっており、実際の本尊も「阿弥陀如来」であり、伝承とは、仏像自体が異なっていることになる。

 

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