彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

August 2009

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の10 ――修学院離宮 西浜5

後水尾上皇を巡る人物と建築物 1にもどる

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の9にもどる

標高149mに建つ隣雲亭を後にして浴龍池の方にいよいよ降りてゆくことになる。隣雲亭の北側からややきつい傾斜の石段を下る。階段を降り切ると、目の前を小川が横切っている。右手奥の山手を振り返れば、音羽川に水脈をたどる高さ約6mの雄滝が見える。その水音を横に聴きながら浴龍池の東岸へと出る。拝観コースはそこから時計と反対回りに浴龍池を回遊し、さきほどの御幸門を出て上御茶屋を後にすることになる。

落差6mの雄滝
落差6mの雄滝

雄滝
雄滝
 

 われわれはほぼ平坦な池の端の苑路を進んでゆく。浴龍池には隣雲亭から見下ろした際に目につく万松塢、その北側に中島、そのまた北に三保ヶ島と三つの島が存在する。左手に万松塢を眺め少し進むと、左にほぼ直角に池を跨いで長さ二間ほどの木橋がある。楓橋と呼ばれるその瀟洒な橋を渡って中島に入る。三つの島で拝観者が上陸できるのはこの中島だけである。

千歳橋

その中島のうえに当離宮の創建時から唯一残る建物である窮邃亭(きゅうすいてい)がある。一八畳の間と附随の水屋からなり、北西隅に直角に折れて畳一枚分高くした上段がある。その西面する障子窓の下に御肘寄(おひじよせ)と呼ばれる細長い一枚板が渡されている。その外側に蔀戸がある。客人たちはこの宝形造りの茶屋で一服の茶を所望し、蔀戸を上げて、御肘寄に腕をもたせかけて、屋外に目をやったことだろう。


中島から万松塢に架かる中華風の千歳橋(右に一部見えるのが窮邃亭)

楓橋
中島にわたる名栗加工の欄干の楓橋

窮すい亭

 

離宮創建時のままの窮邃亭


窮邃亭屋内

窮邃亭の一八畳の間・蔀戸の側に御肘寄(おひじよせ)


窮邃亭蔀戸

紅葉が見える秋の窮邃亭

 

その眼下には浴龍池と左下に万松塢、斜め右手には御船屋を見下ろす。

西浜舟屋

西浜の舟屋

そして正面には200mほどにおよぶ西浜、その垣根の向こうには洛中市街があるはずである。夕方などには西日の逆光をうけて樹々のシルエットが浴龍池の水面に照り映えた景色に感歎の声を惜しまなかったに違いない。

夕日に映える西浜

夕日に映える西浜 

 窮邃亭の南軒下に掛けられた扁額は、後水尾上皇の御宸筆になる。年季の入った「窮邃」の窮屈とも見える文字と何の装飾もない簡素なこの建屋は、壮大な離宮を構想し、造営した上皇の雄渾な気質とあまりにもそぐわぬように思えた。それは、幕府との長年の確執や深い怨恨そして父帝後陽成天皇への激しい憎悪といった上皇の苛烈な性格と、第八皇女の朱宮(あけのみや)光子内親王に示された深い慈愛の御心との間の落差に戸惑う感情とも似かよっている。
 

窮邃亭扁額05.11

御宸筆の「窮邃」の扁額

 

 そうしたどこか吹っ切れぬ思いを抱えながら中島から北西に渡された長い土橋を通り、池の端に出る。ここには舟遊びをする舟を納める御舟屋とちょっと先に数段の石段で出来た舟着きがある。 

西浜舟屋形

紅葉の御舟屋

 

 舟着きを過ぎると苑路は左に直角に折れて、西浜と呼ばれる真っ直ぐな砂利道が続く。この西浜の苑路が実はさきほど松並木の間から見た大刈込の堰堤の上部となっているのでる。風雅といえばあまりにも雅である。その西浜の隅からの、遠く見上げる隣雲亭や水平方向に見える万松塢、奥行きを感じさせる浴龍池の景観からは、上皇の造園家、建築家という一面より、演出家としての才能を強く感じざるを得ないのである。

西浜から隣雲亭を望む

西浜から望む隣雲亭

浴龍池に映る土橋

中島から西浜に架かる土橋


 西浜に佇み、池の上をしずかに進む

 

万松塢の御腰掛

龍頭鷁首(りゅうとうげきす)の二艘の舟。龍頭の舟には唐楽(からがく)の楽人が、鷁首の舟には高麗楽(こまがく)の楽人が乗り、舟上で管絃を奏でる。万松塢の御腰掛けに腰を降ろした雅人たちは、一服のお茶に喉をうるおしながら湖面を流れてくる「海青楽(かいせいらく)」や「千秋楽」といった舟楽(ふながく)に耳を傾ける。そして、時折、東山連峰から吹き下りる風が、大自然との一体感を感じさせる。そうした雅の光景を脳裡に思い浮かべて見るとき、それは壮大な野外ステージで演じられる一幕の劇を観るようであり、上皇は舞台演出家と評するべきであると確信に近い思いを抱くことになる。

万松塢の御腰掛


浴龍池から隣雲亭を
そしてわれわれは御幸門を出て先ほどの御馬車道を反対に下り、寿月観の北側を回り込むようにして参観者の出入り口に戻る。約1時間20分におよぶ苑路3kmの拝観は終了となる。最後の砂利道の下り坂は大した斜度ではないが、その頃には、かなり足のツッパリがきつくなっていることに気づく。その意味でも修学院離宮は、桂離宮や仙洞御所、京都御所とは明らかに異なった、荒ぶる自然を自家薬籠中のものとした独特の構築物であると言える。


西浜の隅から浴龍池

頭上に昼の月05.11
頭上の昼の月

 

 

2009年8月15日お盆、お墓参りです5

2009815日、お盆、お墓参りです!

 

 去年は蝉が鳴かないと異常気象の影響を感じた夏でした。今年もつい先日まで、蝉の鳴き声があまり聞こえず、やはり、今年も異常気象の影響でダメかと思っていましたが、立秋を過ぎたころから、暑さが本格的になるとともに一斉に蝉の大合唱が始まりました。

 

お盆の太陽

立秋ののちに暑さが本格的に、8月15日の太陽

 

庭のサルスベリも満開に

サルスベリの花

玄関に落ちた蝉の脱け殻

玄関に落ちた蝉の脱け殻
 

 いま、庭からもたくさんの蝉の鳴き声が聞こえてきます。

 

 今日は815日。終戦記念日であるとともに、旧盆の日です。

 

お墓と本堂

本堂とお花も少ない旧盆


お酒おジュースとお団子

お団子とお酒とジュースをあげました・・・

 

 今日は家内とお墓参りに行ってきました。娘は昨日、家内と墓掃除に行って来たので、今日はパスと自宅で無聊をかこっていました。菩提寺は多摩霊園の横にありますが、東京は新盆が主流ですので、霊園への墓参客もお彼岸などと違って少なかったのが印象的でした。

 

人影もまばらな多磨霊園

多磨霊園内も旧盆は人影もまばら

 菩提寺の方もお墓に活けられた花も少なく、やはり東京人は新盆なのだと思ったものです。照りつくような暑さを久々に味わいました。静かな境内で夫婦ふたりでお墓にお酒とジュースと家内手造りのお団子をあげて、手を合わせました。もう後、どれくらいしたらわたしたちもこの中に入るのだろうと、考えながら手を合わせていました・・・。頭上では境内の大きな木々が唸るように蝉の声を吐き出していました。

 

 夏は暑い!!やはり自然は生きていると、ホッとした次第です。住職ご夫妻と2時間ちょっと世相を嘆き合うお話をして、帰宅しました。住職の奥様が「境内の蝉がものすごいですよ。朝方など境内に出ると、方々から猛スピードでぶつかって来て、危険なくらいです」と言っていた。自然が残るところには命は息づいている・・のですね。

蝉が・・探してください

大樹に止まる蝉・・探して下さい

 

松の樹に止まる蝉

松の樹に止まり、思いっきり鳴く蝉

 

鳴かぬ蝉もいました・・・

大樹に止まる鳴かぬ蝉


 でも、今年は晴れ上がった、暑い、お盆らしいお盆を過ごしました。夜には久しぶりに息子が訪ねてきます。お墓でちょっと口をつけた日本酒で一杯、息子とヤロウと考えています・・・。

政権交代! Yes or No?5

政権交代! Yes or No

 

45回衆議院議員総選挙が来る830日(日)に行なわれる。721日の「バカ太郎解散」とも一部で呼ばれる衆議院解散から41日目の投票ということになる。

 

今回は各種世論調査でも政権交代を予感させる数字が続出している。与野党間をふくめメディアなどで交わされる議論も、ある種、選挙結果を待たずにもう政権交代が既定の事実となっているかのような錯覚すら覚えてしまう。

 

かような事態のなか戦後の混乱期と細川政権時代を除いて、これまで長らく政権与党の座についていた自民党の狼狽振りとその悲愴感は分からぬではない。しかし、半世紀を超える長きに亙る一党支配の政治がこの日本に明らかな制度疲労をもたらし、それが社会の荒廃という形で顕在化して来ていることは否めない事実である。

 

政権維持に不利な情報の隠蔽、与党と官僚のもたれあい、社保庁に代表される行政組織の弛緩、地方財政までを巻き込んだ利権構造のしがらみ、行政・司法人事の一党に偏した流れなど、社会構造の硬直化と主権在民の形骸化、そして政治・行政の透明性欠如とも併せて、国の仕組み自体のガラガラポンが必至であることは言を俟たない。

 

そうしたなかでの総選挙である。衆議院議員選挙法改正により婦人参政権が与えられた戦後初の総選挙(第22回総選挙・衆議院解散 19451218日、投票日1946410日=投票日までの期間114日)を除いて、公選法第313項「衆議院の解散に因る衆議院議員の総選挙は、解散の日から40日以内に行う」を目一杯に適用した40日間におよぶ実質的選挙運動が、盛夏の8月一杯にわたり行なわれる(公示日は818日)。

 

われわれ国民もここは心してこの総選挙に臨まねばならない。幸い今回は、前回の郵政選挙のような熱病にうなされることなく、投票日までの時間もある。TV、新聞等を通じて、マニフェスト(政権公約)の概要たる「自民党の政策・みなさんとの約束」や「民主党の政権政策・政策集」など(政権公約は公選法の規定で公示日以降、配布可)自民、民主等の掲げる政策の検証、比較、論争も前回選挙に較べ明らかに活発になってきている。もちろん812日の麻生太郎、鳩山由紀夫両党首の間で行なわれた党首討論やメディア等の政策検証の緻密さや具体性などは必ずしも満足のいくものでないとしても、それは政党政策自体に大きく具体性を欠く部分があるということでもあり、仕方がないとも言える。ただ党首討論のディベートのあり方、質の面での水準アップは必須であるのは言うまでもない。

 

さて、わたしは721日の解散以降、さまざまな意味において今度の選挙をどう考えたらよいか悩んできた。前述の二大政党の政策もHPから刷り出し、読んだ。メディアの各党の政策比較なども参考にした。その間、心は右に左に揺れ動き通しだったというのが、正直なところである。自民党が攻撃する政権担当能力が果たして民主党にはあるのか。素人目にも、政権を狙うには同党の国家ビジョンは分かりづらいうえに、安全保障問題など国家運営の根幹の部分における党内議論の統一化が図られていないなど大きな弱点、問題点が日々、露呈されるのが実情である。

 

それを目にする日には、いやとてもこの党に日本を任せるわけには行かぬということになる。しかし、この人心の荒廃した、経済基盤が脆弱化した日本を見るにつけ、これまでの半世紀余、政権を担当してきた自民党には、一体、政権担当能力があると言えるのか。そう考えると、今のこの日本の体たらくをもたらしたのは自民党、あなたではないかということになる。右に左に心が揺れ動くわけである。どっちもどっちで不甲斐ないのだから。

 

であれば、やはり一度、政権交代によって戦後政治の膿を出し尽くして、日本は出直しをするしか道はないのだと思い定めたところである。衆参の捻じれだけで、いろいろとこれまで隠されていた情報・事実が表に表われたことひとつで、その実効性は実証済みと言えるのではないか。

 

だからまずは民主党による政権交代を行なわせ、そこで硬直化した社会構造に風穴を開けさせる。次に戦後の中央・地方を巻き込んだ利権構造をぶち壊す。そして隠蔽されたさまざまな情報を国民の目の前に開示してもらう。その過程で、大きな政・官・財の疑獄も出てくるかもしれない。そうした戦後政治の大掃除をやることが、今の日本が置かれた環境では、待ったなしの方途なのだと思う。

 

その後に、民主党の安全保障の考え方、日教組を大きな支援母体とする同党の教育改革の考え方など、国家運営の根幹、バックボーンの存念を、国民の前で明らかにしてもらう。そして民主党が現状のままの党内事情であるとすれば、当然、その根幹の問題で党内統一を図ることは不可能である。この急所をついてゆけば、閣内不一致どころか、同党は自壊の道を歩んでゆくしかない。

 

その倒閣運動のなかで、自民、民主などの既存政党の枠を超えた、本来の主義主張の旗の下に、政界が再編されてゆくのが、最もすっきりした、国民に分かりやすい二大政党政治の成り立ちなのだと思う。対立軸は、「憲法9条を守る」のか、それとも「米国からの独立、つまり核の傘から脱け、自主防衛の道を探る」のかでもよいし、「北欧型の高福祉・高負担国家」を選択するのか、「中福祉・中負担」あるいは小泉内閣が目指した市場に任せた「小さな政府」国家を選択するのかでもよい。

 

その大きな選択をするためには、やはり一度、この国の大掃除をやっておく必要がある。わたしはこうした以上の手順を踏んでこれからの日本の政治が動いていって欲しいと願い、この30日、投票所へ行こう決めたところである。

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の9 ――修学院離宮・上御茶屋 隣雲亭からの眺望5

 

2の9 修学院離宮・上御茶屋・隣雲亭から

 

【隣雲亭からの眺望(2009年1月・2005年11月)】

 

 標高149mという修学院離宮のなかでもっとも高い位置に建つ隣雲亭。下茶屋、中御茶屋をめぐって辿り着いた何の変哲もない平屋から、眼下に浴龍地を、そして目線を少し上げると一望に京洛を見下ろすことの醍醐味。そして遠く正面には京の西山、信仰の山である愛宕山が見える。

 

 

 後水尾上皇はそうした景観を我が眼に収めることで、徳川幕府に対し真の王者は自分であると、招いた客人に無言のうちに訴えて見せたのかも知れぬ。雄滝から落ちる水音が深閑とした隣雲亭に響き、いかにも巨大な瀑布が手のうちにあるような、そんな思い、錯覚を客人に抱かせるのである。まさに静謐の中で水音がいかに効果的な音響を作り出すのかを知りつくした巧みな演出である。そして浴龍池の水深がわずかに0.5〜1mと訊くにいたっては、その舞台道具を雄大に見せる演出家としての上皇の手練の技に舌を巻くしかない。

 

浴龍池と万松塢

眼下の浴龍池と万松塢

 

秋の浴龍池1
秋の浴龍池

 

秋の中島・万松塢
秋の万松塢
秋の隣雲亭から
秋の隣雲亭からの眺望

 

西山愛宕山を望む

西山連峰に連なる愛宕山

隣雲亭から西南方向に洛中市街を一望
隣雲亭の西南方向に洛中市街を一望

 

隣雲亭北側から雄滝を望む
隣雲亭北側から雄滝を望む

後水尾上皇を巡る人物と建築物---1にもどる

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2の8にもどる

後水尾上皇を巡る人物と建築物---2の10につづく

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の8 ――修学院離宮・上御茶屋5

2の8 修学院離宮・上御茶屋・隣雲亭

 

【隣雲亭(りんうんてい)】

 

 御成門を抜けて白い砂利敷き(白川石?)の階段をゆっくりと上ってゆく。両脇にあるのは高さ1m余の刈込に過ぎないのだが、足元に目が行くためか視界は見事に遮蔽されるから不思議だ。そして人一人が漸くといった狭隘な道幅からくる閉塞感とも相俟って、客人はただ一心に頂上を目指すといった心持ちになる。

 

上御茶屋御成門内側より

上御茶屋御成門を内側から

 

だからこそ標高149mの高処に建つ隣雲亭の小さな前庭に一歩をしるしたときの得もいわれぬ安堵感と開放感は格別である。下御茶屋から標高差40mを上り来た雅人にとって比叡下ろしの涼風は、一服の茶のもてなしのように思えたのではなかろうか。それは心憎いばかりの演出であり、後水尾上皇は希代の舞台演出家と評するのが適切なのかも知れない。

浴龍池の堰堤を望む

隣雲亭から西浜堰堤を望む

 

隣雲亭への階段
隣雲亭への階段

 

隣雲亭への階段混ぜ垣

階段両脇の混ぜ垣

 

 隣雲亭は簡素過ぎるほどに簡素に造作されている。二の間の3畳、一の間の6畳それに4畳の板の間が浴龍地に向けた表側に直列にならび、洛中市街に向けて全面が開放されている。裏側に控えの間として8畳と6畳二間が用意されている。小高い丘の上に風が吹き通り、夏でも居心地の良い建屋となっている。

隣雲亭室内

隣雲亭の簡素すぎる室内

 

 隣雲亭の廻り縁の下敷きは、以前は白漆喰でぬられ一二三(ひふみ)石が埋め込まれていたが、拝観者が靴の踵で傷つけることが多く、修復が頻発し、今ではセメント敷きとなっている(宮内庁職員の説明では、結構、悪戯が多かったとも)。

一二三石

セメント敷きとなった下敷きの一二三石

 

一二三石
色の調和が崩れた一二三石

 

 埋められた石は、漆喰の時代は一つ石が赤、二つ石は青、三つ石が黒色の組み合わせとなっていたが、現在はご覧のようにその調和は崩されている。拝観者のマナーの悪さがこうした日本人の繊細な伝統の風雅といったものを壊してゆくのであって、残念でならない。まぁ、眺望にばかり目を奪われずに、足元もじっくりと見つめて見るとよい。

 

「一二三石」の解釈については、曼殊院門跡の39代門主で天台宗の碩学といわれた故山口光円師(1891-1972)が「天台にいう『一心三観』の法門から、景色の実相をながめる嗜好に見えてくる。一二三石とは空観(くうがん)、仮観(けがん)、中観(ちゅうがん)で、この三つが一つの白いしっくいでつらなり一心のしっくいは、三観という三つのものの真の見方となり、広範な景色は、その実相をあらわしてくる」と語っておられるが、凡人のわたし如きはその御説明をご紹介するのが精一杯である。

 

 

【2-9につづく

【2-7にもどる

後水尾上皇を巡る人物と建築物1にもどる

 

 

ペンション・シャローム=蓼科グルメ184

ペンション・シャローム=蓼科グルメ18

 

TEL 0266−69−3011

〒 391−0301

茅野市北山4026

蓼科東急リゾートタウン内

 

 

 「夕食だけでもOK」、リゾートの情報誌に掲載されていたのを家内が見つけ、予約を入れた。この日は手軽にというので家内と娘と3人で行った。コースは3,150円(税込)とリゾートのピーク時にはお安い値段である。

オードブル

オードブル
デコレーション


サーモンパイ包み

サーモンのパイ包み

豚ヒレ肉のチーズ焼き

豚ヒレ肉のチーズ焼き
タマネギのスープ

新玉葱のスープ
シフォンケーキ
檸檬のシフォンケーキ

 夕方になって雨が降り出した。管理センターの職員も雨続きの天候で今年は人が少ないと言っていたが、シャロームを訪ねたところ、われわれ以外はもうひと組(5人ほどの宿泊客)だけであった。

 

 御主人には申し訳ないが、静かでゆったりとした時間が過ごせてよかった。料理はシンプルであったが、量もちょうどよく、味も素朴でよい。ペンションの温かみが伝わってくるような食事であった。

 

 われわれが帰る頃に入れ違いに若い学生の一団がやって来た。ここはご主人が車で送迎をやってくれるそうで、みんなでお酒でワイワイやるには不公平がなくてよい。こう思うのは呑ん兵衛の私だけかも知れないが・・・。

 

 帰り際に奥様に「昔、ここでお昼、お好み焼きをやっていませんでした?」と訊ねたところ、「えぇ」とビックリされた様子で応えた。もう20年以上前のことである。中学生位の息子さんが焼いてくれた記憶があると申し上げたら、「そうです。懐かしいお話です」と言われた。いまはそのセピア色したお好み焼きはやっていない・・・。

 

 

御射鹿池――二〇〇九年盛夏の候5

御射鹿池(みしゃかいけ)――二〇〇九年盛夏の候


2010年、御射鹿(みしゃか)池の紅葉、見頃は10月23日
 

御射鹿池---新緑の候

 

御射鹿池---紅葉の候


 

 新緑の候、紅葉の候と訪ねてきたので、今回は盛夏の八月一日に御射鹿池に行った。当日は盛夏の候と言いながら、天気は曇りで真夏の太陽は雲海から顔をのぞかせることはなかった。

 

 いつものアプローチと逆に奥蓼科の明治温泉の方から下って来た。上から見る御射鹿池は何の変哲もなかった。日差しがあれば違うのかも知れぬが、湖面は普通の小さな池と変わることはなかった。

 

 その日は十名ほどの若人たちがいた。本格的な三脚と一眼レフのキャメラを見れば、どうも写真学校の学生のようである。気がつけば初老の男性が撮影の指導をやっていた。

 

 熱心に構図を考え、撮影に余念がなかった。その横でわれわれ家族はキャメラではなく、デジカメでちょこちょこと撮った。でも、われわれは立ち入り禁止の土手には入りません。そこがどんなにいいアングルだとしても。駄目ですよ!学生さん。ルールは守りましょうね。

 

御射鹿池2

 

御射鹿池4

 

蜻蛉と湖面の空?

   湖面に雲が流れていた、トンボが空を飛んでいるよう。目を凝らして見てください、雲で〜す!  

 こちらは定点観測のように、同じ構図の写真を撮り終わると、一足先に御射鹿池を後にした。しばらく坂を下ったところで、驟雨(しゅうう)がやってきた。雨の御射鹿池!ミラーレイクの湖面が鏡でなくなった御射鹿池が見たくなったので、もう一度、戻ることにした。雨脚は強い。ワイパーが必死にフロントガラスの視界を広げる。

湖面はただの湖面になっていました! 

雨の御射鹿池3

 

 傘もささずに慌てて撮った写真ですので、物好きな奴ということで、これも見てやってください。今度は太陽がカ〜ッとした日に行ってきます。今年は例年になく山紫陽花がとてもきれいでした(御射鹿池近くで)。

山紫陽花

山紫陽花がそこここに咲いていました

雨の御射鹿池2

 

御射鹿池1

 

御射鹿池俯瞰

 

酒井法子容疑者が逮捕=TBS報道特集番組5

 酒井法子容疑者が逮捕=TBS報道特集番組

 

相撲界と芸能界、大麻事件にご都合主義のテレビ業界

 

 この数日、女優酒井法子の覚せい剤取締法違反容疑騒ぎで日本中の耳目がテレビに集まった。最近、広告収入の減少に悩むテレビ界にとって、この事件はまさに干天に慈雨であった。ワイドショーから報道番組はこぞってこの事件を扱うことになった。報道のTBSにいたっては、逮捕状が出された7日(金)午後445分から550分まで報道特集番組を急きょ組んで放映した。

 

 酒井法子という女優・歌手に貼られた清純派というレッテルと、覚せい剤という闇社会との落差に世間もビックリ。その関心度が大きいのは容易に推測できるが、逮捕状が出状された段階で報道特集番組まで組むほどの話なのかと同局の報道姿勢に首を傾げざるを得なかった。

 

同局が報道機関を自負するのであれば、本当に伝えるべきニュース、真実とは何か、その間の優先順位、番組編成のあり方はどういう基準で行なわれているのかといったメディアの基本的姿勢が問われる今回の事件でもあった。その意味で今回の特番を組んだTBSは視聴率が稼げるという一点で、番組編成を考えたとしか言いようがない。

 

同局は報道特集を組んだその日に、BPO(放送倫理・番組向上機構)の放送人権委員会から情報バラエティー番組「サンデージャポン」が昨年10月に放映した「保育園イモ畑の行政代執行をめぐる訴え」事案で「重大な放送倫理違反があった」との勧告を受けたところであった。そして二日後の9日の同番組内では「勧告を真摯に受け止め、今後の番組作りに反映させていきたい」と謝罪したのである。

 

今回の番組編成自体は報道機関としての価値判断で行なったことであり、その意味においてBPOで批議すべき問題ではもちろんない。しかし今回の視聴率至上主義に冒されたと思われる番組編成のあり方を見る限り、つい三週間ほど前の717日に公表された「ニュースキャスター『二重行政の現場』」(2009411日放送)に関するBPO放送倫理検証委員会の「委員長談話」や同テレビ局からの回答にある「取材の基本動作の未熟さ」などとも併せ、その報道機関としての姿勢、対応力に首をひねらざるを得ないのである。

 

「真摯」とは広辞苑に「まじめでひたむきなさま」とある。ここで報道機関としての使命をそれこそ真摯に考え直さなければ、視聴率云々どころの問題ではない、巷間言われるテレビ離れがますます進んでゆくことは間違いのないところである。

それにしても、44日に大麻取締法違反(所持)で逮捕され、起訴猶予となった中村俊太(31)本人の謝罪はどうなったのだろう。

 父親の俳優中村雅俊氏が不起訴を受けてのコメントで、「精神的に動揺、混乱をきたしており、肉体的にも極度の疲労状態にあります。それゆえ、後日、改めて、中村俊太自身より、本件事件についてのご報告をさせていただくとともにお詫びを申し上げたいと考えておりますので、報道機関各位におかれましては、本日の取材等は、何卒ご容赦くださいますようお願い申し上げます」と言っていたはずだが・・・。四か月も経っても31才のいい大人が己の犯した犯罪のお詫びもしないとは、それを約束した中村雅俊も、これじゃ、親も子も同じ穴のむじなで、頬かむりを決め込んだとしか思えぬ。メディアのけじめってこんなものなのかな・・・。

ヒロシマ・少女たちの日記帳=広島原爆5

広島平和記念資料館を訪ねる=原子力平和利用の国民的議論を(2011.3.31)
長崎原爆資料館を半世紀ぶりに訪ねて(2010.9.5)


少女たちの日記帳「ヒロシマ 昭和2046日〜86日」

広島原爆ドーム
広島原爆ドーム
 64年前の今日、午前815分。米軍のエノラ・ゲイ号は広島に人類初の原爆を投下した。当時の広島市の人口35万人の4割に当たる14万人が死亡した。


 私は長崎生まれで、長崎原爆資料館を見ているが、掌が溶け込んだグニャグニャになったガラス瓶の展示品を忘れることはできない。その記憶はもう40数年も前になるが、その時心に受けた衝撃は、今でも胸中の襞の奥底につらい疼きとして残っている。


 今夜、NHKで「ヒロシマ・少女たちの日記帳」を観た。主人公の石堂郁江さんは当時、広島県立広島第一高等女学校の一年生で、一組の副級長をしていたという。「この伝統ある広島第一県女に入学することを許されます。ます覚悟を新たにして学業にはげみ、
心身を鍛え・・・」と、つい4か月前に生徒日誌に記した少女は、その日、授業休講中の疎開作業の途中で被爆し、無辜の命を奪われた

 少女たちの生徒日誌をもとに淡々として描かれた広島原爆の日は、私に平和の意味を真剣に考え直す機会を与えてくれた。


86日原爆投下」の文字が画面中央に流れるだけの番組の終わり方だったが、それが余計に夢にあふれたこの少女たちの尊い命が理不尽にも一瞬にして消え失せた悲惨さを心に沁み入るように伝えてくれた。私はただ黙ってテレビのスイッチを切り、頬を伝う涙を流すにまかせた。

 


 つい先日、米国で「1945年8月6日と9日の広島、長崎への原爆投下について、米国民の61%が『正しい判断だった』と考え、22%が『誤っていた』とみなしていることが4日、米キニピアック大学(コネティカット州)の世論調査研究所の調査結果でわかった」(8/5中日新聞)とのアンケート結果がニュースで報じられた。


一方で、オバマ大統領は4月5日にプラハで「核兵器を使った唯一の国として行動する道義的責任がある核兵器のない平和と安全保障を追求する核兵器のない世界を目指して具体的な方策を取る」などに言及した、いわゆる「プラハ演説」を高らかに行なった。


先の米国民のアンケート結果とオバマ大統領の「プラハ演説」との乖離はあまりにも大きく、その無責任さ加減にあきれて言葉もない。


原爆の悲惨さを実際に目にしたことのない米国民。無知なるが故の米国民の非道の是認。石堂郁江さんが何を思い死んでいったかに鎮かに思いを致したとき、私は米国民の鈍感な傲慢さをとてもじゃないが許すことはできないと歯ぎしりするように思ったのである。

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