彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

July 2007

丸川珠代議員当選に餞(はなむけ)の言葉――認めたくない現実1

 今般当選された丸川珠代参議院議員が住民票転入未届け問題によりここ少なくとも3年間は投票権がなく、投票所に足を運んでいなかったことが判明したのは、まさに選挙期間中であった。選挙期間中に異例とも言える涙の謝罪を経ても、相当な批判が世間から浴びせられ、よもや同氏が当選を果たすとは思いだにしなかった。

 

同氏に国政に参加する資格などないといったことがネット上などでも激しく議論されていたことは周知のことであった。そして書き込みにも東京都民の良識に期待するとの他府県の人たちの意見も寄せられていた。

 

 しかし、蓋を開けてみれば691,367票を獲得し、定員5名に対して第4番目で当選を果たした。その結果に対してわたしも都民の一員として慙愧に堪えない。

 

丸川珠代氏は2005911日の郵政総選挙の投票結果について、杉村太蔵衆議院議員を引き合いに出し、自身のブログ上で「認めたくない現実」(20050103号)というタイトルで以下のように記していた。選挙期間中はその内容についての発言は一応控えていたが、りっぱな国会議員となられた今は、政治家の「言葉に対する責任の重み」という視点から、ひと言もふた言も言っておかねばならない。【( )内ゴチック文字は彦左の独り言】

 

郵政総選挙とその後について、(実は投票には行ってないのだけれど、しかも選挙権などなかったのだけれども、一応)一選挙民としての思いをお伝えしたいと思います」

「もっとも認めたくない現実(今は認めちゃってもいいかなと、ちょっと思ってる)は、小泉チルドレンと呼ばれる新人議員の一人、杉村太蔵議員のことです」

「当選直後、杉村議員は、グリーン車が無料になることを喜んだり、早く料亭に行きたいと言ったり、国会議員になって得られる特権や、得られるであろう経験を、無邪気に喜びました。そこに国民の負託を受けた責任の一片でも感じていれば話は別だったのですが(これを書いたときのわたしは国民の権利である選挙権など関係ないと軽んじていたのが実際のところなんですが・・・)、責任の重さには言及せず、それが彼の未熟さと映りました。多くの常識ある大人たちは、彼の国会議員としての自覚のなさに、がっかりしたようです。(今、思えばよくぞこんな大それたことを言ったものだと反省してます・・・)」

 

「しかし、彼のような26歳がいることも日本の現実なのです(わたしのような36歳がいることもまた残念ながら現実なのです、国民の皆さん)。彼自身がフリーターやニートの気持ちがわかる、というのなら、そういう人の中には、彼のように権利と義務についての認識が希薄な人や、社会に対する想像力に乏しい人が、多いのかもしれません(もちろん、わたしもその一人)。あるいは、大人社会のルールが身についていないため就職できない、という可能性も考える必要がありそうです。

為政者はもちろん、教育関係者や、一般の大人たちは、彼(わたし)を未成熟と切り捨てる前に、あの程度の想像力や成熟度しか持ち合わせていない若者が、この国にはどのくらいいるかを心配したほうが、よいのではないか、という気がするのです。なにしろ国会議員は苟も国民の代表なのですから。しかし、彼の存在意義は、(一部の)26歳の現実を示しただけではありません。彼は国会議員の特権を広く世間に知らしめました。私達は彼の素直な喜びを通して、一般庶民からみた国会議員の特権がどういうものかを、知ることが出来ました。

そもそも国会議員になった人は、彼のように喜びません(もちろん、わたしも喜ぶなどはしたないマネはしませんでした。バンザイもしませんでしたよ)。特権より責任に言及します。議員としての責任の重さを自覚している人も、もちろんいるでしょうが、特権から目を逸らすためという考え方もあるでしょう。特権ばかりが注目されれば、非難を受けるかもしれないからです。

いままで日本社会では、自分たちの特権を守るために、その存在を秘匿するという、暗黙のルールに従うのが常識でした。しかし杉村議員は、その大人の常識を見事に踏みにじった、ということも言えます。それは、(成熟して大人の常識を持ったわたしから見て)未成熟で自覚に乏しい彼だからこそ出来た、常識破りであったと思うのです。社会に組み込まれた大人には、そう出来ることではありません(もちろん、選挙に行かないなどという非常識なこともないはずです・・・)。

つまり、大人の常識によって隠されていた特権や真相を、白日の下に曝す力が、彼の自覚のなさにはあった、というわけです。それこそ、暗黙の了解を破って解散総選挙に持ち込み、国民の支持を得た小泉総理のチルドレンとしては、面目躍如というものでしょう。

ところが、彼は突如会見を開いてお詫びを繰り返しました。「自覚の足りないまま幼稚で無責任な発言を繰り返してしまいました。大変反省しています。今日からは心を入れ替え国会議員として、責任と品位のある言動を心がけていきます。」その反省は、彼の無自覚を嘆く大人たちにすれば、ようやくわかったか、という得心につながるかもしれません(彦左はそんなに物分かりはよくないぞ)。

 

「彼はいったい誰に詫びたのでしょう。税金が彼の歳費に使われることに怒りを覚える人、自民党を支援してきた人でしょうか。あるいは、特権を共有している人たちかもしれません。しかし彼がいくら謝っても、任期中は私達の税金が彼(彼女)のために使われることになります」

 

 オリジナルのブログは読めば読むほどよくも厚顔無恥にこんなことが言えたものだと思ってしまいました。そこでちょっと、上のように彦左の独り言を添えてみました。

 

実はこの生のブログを最初に読んだとき、破廉恥さを脇に置けば、その論理構成と文章力はそれなりの水準にあると感じました。しかし投票に行ってもおらず、民主主義の根幹である参政権を行使しなかった郵政総選挙の結果について、当選した議員を「権利と義務についての認識が希薄な人や、社会に対する想像力に乏しい人」とこき下ろす精神構造を持ち合わせた人物、そしてそれまでも棄権を常習化していたのではないかと思われる人物をこそ、「権利と義務についての認識が希薄」な「無自覚・無責任な人間」としてわれわれは糾弾すべきなのではないのか。

 

丸川珠代議員に同議員が杉村議員を詰問したように「任期中は私達の税金が彼()のために使われることになります」。そして「苟も国民の代表なのですから」「自身の無自覚さが武器になることを自覚して、誰にも出来ないことをやって欲しいと思ったのです。果たして(彼女の今後の政治活動は)どうなることやら、これまた、『認めたくない現実』に帰結しなければいいのですが」という口先だけの欺瞞に満ちたあなたご自身の言葉を今回の当選のはなむけの言葉として「鸚鵡(おうむ)返し」にここにお贈りするものです。



半文居(はんぶんこ)ーー銀座グルメ編4

伝説の復活・レストラン半文居(はんぶんこ)が築地に降臨!!
値段は裏馬場・料理は代官山の“炎としゃぼん”=高田馬場グルメ

ワインバー・フランス料理 ★★★★★

     中央区銀座3-4-1(電話:03-5524-0428)

 「半文居」という文字を目にしたとき、読み方に苦労した。そしてこうした店名をつけた店にありがちなオーナーの「こだわり」の押し付けを懸念しつつ、お店を訪れた。知人に紹介され、その仲間と二人でお店に向かった。

 銀座三丁目という一等地に構えるお店、さてどうなることやら。大きな道からビルとビルの間の隙間のような筋に入り込むと、そこにビルの谷間のような狭い空間が現れる。左手に曲がると正面に粋な暖簾のかかった鮨屋が目に入った。「う~ん、こっちも外見は捨てがたい・・・。でも値段は張りそう・・・」

 浮気をせずにその左手に置いてある手書きの看板に目をやると、そこに目的の「半文居」があった。「はんぶんこ」と読むのだと、知人に教えられ、ドアを開けた。かなり小さなお店である。入ってすぐ右手にテーブル席が二つ、そして正面に鍵型のカウンターがある。いたってシンプルな造りである。お客は12人ほどでいっぱいになるという。

半文居の表

半文居オーナー1

 

 

 

 

 カウンターに落ち着き、挨拶をすませ、店内にゆっくりと目を凝らすと、店造りに対するオーナーのさりげないこだわりが伝わってきた。簡素だがどこか気分をほぐしてくれる雰囲気が店内に漂っている。これはいったい何だろう・・・。趣味の押し付けとも違う・・・。

 メニューが出てきた、というより運ばれてきた。緑地の黒板?であった。そこに本日のメニューが前菜からずらっと白墨(チョークとも言う)で、オーナーシェフ自らの手によって細かく書き込まれていた。そして当日のお勧め料理には☆印が頭に打ってある。

 ☆印を中心に、友人のお勧めの品も注文した。最初の前菜がゆっくりとテーブルに置かれる。盛り付けのしゃれ方は満点。つい、箸、いやフォークが動く・・・。

 この夜は前菜として

 ・石垣島産ミニアップルマンゴーとイベリコ豚の生ハム

 ・サマートリュフ入り冷製カルボナーラ2007

 ・穴子のカリカリ焼き 茄子とズッキーニのタルタル添え

 メインディッシュが

 ・オーストラリア産仔羊の燻製とスパイス風味のスペアリブ

 それでは、おいしい赤ワイン(フルルドジョンゲイ)でまずは、乾杯!

ワイン

オーナー2

子羊料理

 

 

 

 

 

 

 運ばれてくるお皿はなかなか手の込んだ料理と、えっこの食材をといったアイデア一杯の調理にご満悦。

 デザートはいちじくと胡麻のアイスでした。ごちそうさまでした!

 銀座の露地にひっそりと「グルメの旅人」たちを待っているお店・・・「半文居」。

 「文化を分かち合う場所」という意味で「半文居(はんぶんこ)」と、命名したのだと説明してくれるシェフをいつしか「まじめな人で、心中に熱いもの」をもつ人なんだと納得している自分。

 すてきなひと晩でした・・・。

 また今度はわたしが友人たちを連れて、いろいろな心の文化の交流をしたいと思っています。


参議院議員選挙丸川珠代候補は投票棄権の常習者?2

 

 参議院東京選挙区の丸川珠代候補者(自民党公認・元テレビ朝日アナウンサー)が16日、新宿区役所で期日前投票を行なおうとしたところ、投票資格がないとして拒絶されたことがわかった。拒絶の理由はいたって単純で、約3年前に海外勤務(ニューヨーク)から帰国した際に転入届を同区にこの4月までに提出していなかったため、投票権が消滅したままであったということである(公職選挙法第9条第2項)。

 

同候補は「忙しくて(転入手続きを)忘れてしまって」と釈明したということだが、その釈明を信じるとすれば、20059月の郵政総選挙やこの4月の都知事選挙を棄権したことになるし、投票に行こうと思いすらしなかったことになる。投票に行っていればそのときに転入届が出されていないことに気づいたはずだからである。国政の場に打って出ようとする人物として、またこれまでジャーナリストの端くれに名を連ねていた人間として、これまで「参政権」の意味をどう考えていたのか、その思考の底の浅さを見るようで悲しい。正直、本人に問うてみたいものだ。

 

 そしてわたしは今回の同候補者の行動を知って、投票を棄権したのは実は、帰国後のこの3年間だけではないのではないか、渡米する以前からの棄権常習者だったのではないかと強い疑いを抱いたのである。

 

 何故なら、いくら帰国ボケといっても、選挙管理委員会から事前に送付されてくる投票所入場券を投票に行く際に持参することを忘れることなどありえぬと思うからである。何度か投票所へ足を運んでおれば、投票所で投票管理者が選挙人名簿と入場券を照合し、本人確認を行なうことを知らぬはずはない。そのチェックを経たうえでないと投票用紙が手交されないことは常識である。わざわざ投票所に出向いてきた選挙民で、投票所入場券を忘れたなどという光景をわたしの経験のなかで今まで目にしたことはない。

 

同候補者が投票に行こうと思い立ったときに手ぶらで出かけた行動こそ、これまで投票という行為の習慣がなかったのではないかと詮索せざるをえず、実は棄権常習者ではないのかと強い疑いを抱く所以なのである。

 

 622日、自民党本部での出馬表明の際、女子アナ時代、反自民的発言を続けてきた同候補者が与党候補者として立候補する大義を「自分の熱い思いを届けるならば政権与党の真ん中に入るしかない」と説明した。

 

民主主義の世界において投票という行為は、国民である己の意思を政治に表明する最も直接的かつ高位にある参政行為である。国政の場において「政治に熱い思いを届け」たいほどの人物であれば、選挙民の立場にあったときには、まずその参政権を行使することでその意思表明、熱い思いを届けていたはずだと考えるのはわたしだけだろうか。

 

同候補はそのオフィシャルサイトの「私の決意」の結びで「権力が過ちをおかしたときには、もちろん獅子身中の虫となってその過ちを正す覚悟です」と述べている。同候補者が立候補表明の場において発言した「政治への熱い思い」は一体、本物なのか。今回の期日前投票拒絶事件で「その思い」に残念だが?をつけざるをえない。こうした丸川珠代のような人物を国政の場に登場させることこそ、「民主主義の獅子身中の虫」を育てることにつながってしまうのではないか、そうわたしには思えて仕方がないのである。



ハニカミ王子に踊るTV局の報道の重み2

「あるある」や「朝ズバッ!」など昨今のTV局の暴走振りは目に余るものがある。

 そして今回は若干15歳のアマチュアゴルファーのハニカミ王子こと石川遼選手に対する過熱報道である。

 

 この少年が注目を集めたのは、5月の「マンシングウェアオープンKSBカップ」(岡山県・東児が丘マリンヒルズGC)で日本ゴルフツアー最年少優勝を達成したことにあるのは周知のことである。

 

 そのこと自体はまさにニュースであったし、同人が世間の関心を強く惹くことも仕方のないことではある。

 

 しかしTV局は放送法に基づき認可を受けた公共の電波を使用する報道機関である。おのずからその報道には公器としての平衡感覚が求められてしかるべきである。

 

 石川選手がプロ選手に転向したとすれば、その扱いはおのずから変わるのも道理である。しかし、この少年は依然、アマチュアであり、15歳のついこの前まで中学生であった男の子である。日に日にこの少年がジャニーズ系のアイドルのようにタレント然とインタビューに応えるようになってゆく姿を目にするにつけ社会教育とは何かを別の意味で本当に考えさせられる。

 

 そうした問題は脇に置くとしても、報道の在り方についてここでは言及したい。

ついこの前の日本アマチュアゴルフ選手権(第92回)を例にとるが、その試合内容、経過をスポーツ報道として伝えるのであればまだしも、今朝のウエアーは何色だとか、ピンそばに寄せたスーパーショットなどとスポーツ報道のなかで報じられる。トップにある選手も当然、ピンそばショットがあるはずだが、その映像はおろか名前すら報道されぬ。こうした報道の主旨は一体何か。彼らが伝えるべきものは何なのか。TV局の編集者たちはどう考えているのであろうか。これも編集権の独立とやらで人様にとやかく言われる筋合いのものではないと嘯(うそぶ)くのであろうか。

 

 TV局が課せられている本来の使命は何か。メディア人たちはじっくり胸に手を当てて考えるときが来ているのではないだろうか。国民は最近のTV局の不祥事やその後始末の在り方の不誠実さと傲慢さに、ほとほと嫌気が差し始めているのである。

 

 このまま報道とも呼べぬ報道姿勢が続くのであれば、真実を伝えるという民主主義の根幹にかかわる役割自体を国民から剥奪される、シカトされる時代もそう遠くない時期にやって来るのではなかろうか。そしてあまりにも国民を愚弄した愚かなバラエティー番組、まさに便所の落書きを、公共の電波を使って麗々しく垂れ流す腐臭プンプンの機関に転落するのも間近いと言ってもよい。報道の重みとTVの使命いう言葉などもうとうに国民の頭の中から消え去ってしまったと言わざるをえない現実、民主主義を足元から崩すメディアの現実に背筋がゾクッと寒くなってくるのである。



久間という人物の国会議員以前の資質3

久間章生防衛大臣(当時)の「しょうがない」発言には、正直、驚いた。久間氏も長崎県出身の衆議院議員であるのだから、当然のことだろうが、長崎原爆記念資料館を拝観しているはずである。わたしも遠い昔、中学生の時代に資料館を見学した。原爆罹災の悲惨さは話には聞いていたが、実際に原爆のすさまじさを伝える当時の遺跡や遺留品の展示物を目にした時の、大きな衝撃は40数年を経た現在、未だに目蓋から離れることはない。

人の手のひらが高熱により溶け込んだビール瓶とおぼしき不形状のガラスの塊。真黒に焦げたなかに人影だけがくっきりと白く浮き出たコンクリートの壁等々・・・。


その展示物を思い起こしてみるだけで、原爆、核兵器はこの世の中からなくさねばならぬと心に誓うはずである。

世界で唯一の被爆国たる日本。この意味合いを最も理解しているはずの長崎出身の代議士である久間氏。その日本人が米国の原爆投下を是認したとも受け取れる発言は、許されるものではない。同氏の発言を不適切な発言と評する人物や国会議員もいたが、その人物たちも久間氏と五十歩百歩である。「不適切」とは「ぴったりあてはまらない」という意味であり、表現の仕方を変えれば原爆投下の大義もありうるともとれなくもないのである。

その意味でこうした反応を示した人たちも久間元防衛大臣と同罪とも言える。原爆の投下にどんな理屈をつけても大義などあるはずはないのである!

コンクリートの壁に己の姿のみを遺影として残して逝った人物が、そんな平和ボケした現在の日本人を許すことなどありえない。

久間前防衛大臣が発言した内容は、国会議員の資質を議論する以前の人間として最もプリミティブな次元の問題である。

日本人として間違っても口にしてはならぬ、いや口になど出せるはずのない「鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)」の爛(ただ)れた歴史の瘢痕(はんこん)の部分なのである。今回の発言はそのカサブタをひっぱがす蛮行とも呼んでよい。

こうした人物が国民の代表として国会議事堂に席を有していたことが、一国民として恥ずかしさを超えて決して許せぬことであると感じた。



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