彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

2021年京都の桜 平野神社の魁桜(さきがけざくら)は満開(3月25日)!

平野神社は平安時代の寛和元年(985)、時の花山天皇が桜樹をお手植えしてから桜の名所へと姿を変え、江戸時代には「平野の夜桜」と謳われるほどに観桜の名所として高名になってきたという。

〆の神紋の提灯をつるす本殿
平野神社・本殿
その境内には早咲きから遅咲きまで約60種類もの桜が植わっている。それ故に刹那(せつな)の美を愛でる櫻花でありながら、花見を愉しめる期間が長く、畢竟(ひっきょう)、桜の名所としての名を高らしめていったと云えなくもない。

∧震鄂声劼虜・桜・桜・桜
平野神社の桜・桜・桜
そんな数多(あまた)咲く桜のなかでも東神門と手水舎の間に植わるのが“魁桜(さきがけざくら)”と呼ばれる早咲きの枝垂れ桜である。

3〆と手水舎  こ〆の駒札
その開花は洛中の観桜の季節のはじまりを告げる予鈴、まさに「先駆け」として“魁桜(さきがけざくら)”の名誉に浴したのであろう。

ナ震鄂声劼粒〆(サキガケザクラ)
魁桜が枝垂れている
この度は願わくばこの魁桜の咲き誇るさまを一目見たいと、先般、アップした千本釈迦堂の阿亀桜(おかめざくら)を愛でたのちに、テクテクと平野神社へと足を向けたというわけである。

千本釈迦堂 阿亀桜
枝垂桜の銘木 千本釈迦堂の阿亀桜(おかめざくら)
北野天満宮の北縁を西に向かった先に平野神社の鳥居と花霞が見えてくる。遠目にも櫻花が開花しているのがよく見えた。

北野天満宮北縁の道の先に平野神社
“平野皇大神”と揮毫された大鳥居をくぐり境内に足を踏み入れると、正面に神紋である桜の紋をあしらった提灯が吊るす東神門が見えた。
平野神社・鳥居
その左手前に目指す魁桜が満開の花の重みで枝垂れて見えた。

東神門と魁桜
間近に見る枝垂れの魁桜は見事である。

満開の平野神社・魁桜
早速、写真撮影とカメラを構えるが、次から次に人々が押し寄せ、立ち止まり、魁桜を仰ぎ見てはシャッターをきる。という具合にて、魁桜の全体像を人影なしに撮るのは大変難しく、上方へ向けたアングルで仕上げたのがこの一枚である。だからこれが蒼天であれば・・・と欲深な思いをしたのは私だけではないはずである。

桜の神紋を吊るす東神門
神紋の桜をあしらった提灯のかかる東神門
そして東神門をくぐると正面に拝殿が見えるはずであった。

だが残念なことに平成30年9月4日に近畿地方を襲った台風21号により拝殿は壊滅し、現在修復の真っ最中で灰色の大きな覆いが掛けられていた。

2018年9月4日の台風21号で倒壊した修復中の拝殿
その修復費用捻出のため広い境内の桜苑の一部が有料観覧の措置がとられていた。

桜苑 有料500円
入場料が修復費用にあてられる
入場すると菜の花と桜の花で美しくはあった。

有料桜苑
菜の花の黄色と色とりどりの桜色が美しい桜苑
しかし、苑内の桜も枝の損傷がかなりひどいように見え、昔日は素晴らしい桜の園であったろうにと、思いを馳せたところである。

平野神社 有料桜苑
昨年の11月に嵯峨野の大覚寺を訪れた時にも、宸殿が21号台風で大きな被害を受けた様子を写真で目にしたところであった。

安膤仍宸殿の台風21号による被害
大覚寺宸殿に展示された台風21号被害の写真
そして、此度の平野神社ではまだその傷跡が癒されていないことを知った。

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平野神社拝殿の台風21号により拝殿は倒壊(写真展示)
自然の猛威というものがどれほど凄まじいものかをあらためて知らされた気がした。

ところで、魁桜とは別の意味でもうひとつ平野神社の花見名物がある。茶店や露店が出店され、しかもお酒など持ち込み自由という縁台花見が楽しめることだそうだ。この二年間はコロナのせいで、それもお預けということであった。

碓酒禁止の立て看板
飲酒禁止の立て看板が寂しく置かれていた
境内には「桜苑内での飲酒を禁止します」の立て看板が寂しそうに置かれていた。やはり花見は賑やかに生きたいものだと、“花より団子党”の党員としてはその意味でも1日も早いコロナ騒動の終息を祈らずにはいられないのである。

京菓子・老松(上七軒)で爆買い 流鏑馬と山人艸菓(さんじんそうか)・・・

今宮神社社前のあぶり餅の老舗・一文字屋和輔の創業長保二年(西暦1000)は別格としても、創業四百年、三百年の伝統を有す京菓子の老舗がざらにある京都の街で、百年の歴史を有すといってもそれは新参者に近い。

右に一文字屋
今宮神社参道 右手があぶり餅・一文字屋和輔 左が”かざりや”
そんな新参者が北野天満宮の東門に突き当たる上七軒通の出口近くに店を構える老松(おいまつ)である。

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上七軒通に面する老松北野店
天満宮境内に末社・老松社が建つが、店名はそれに由来するという。

北野天満宮末社・老松社
北野天満宮末社・老松社
その老松北野店には12年前に一度訪れて以来、足を踏み入れていない。節季物の花びら餅など東京新宿の伊勢丹の老松で買えるようになったことがわざわざ京都の店へ伺うことがなくなった理由でもあった。

ただ此度は千本釈迦堂から平野神社への道すがらでもあり、上七軒通にある老松で何かおいしい菓子を物色したいとの魂胆もあり立ち寄った。

上七軒歌舞練場前から上七軒通りを
上七軒歌舞練場前から上七軒通を見る
職菓子御調進所(ゆうそくがしごちょうしんしょ)と墨書された懐かしい老松の暖簾をくぐると、「新参者であっても由緒正しき」を證する北野天満宮御用達、御婚礼諸儀御菓子調進所といった大きな表札が目に飛び込んでくる。

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北野天満宮御用達など表札がかかる老松店内
静謐で清楚な店内の雰囲気は以前のままである。目に美しいショーウインドーの飾りつけも気持ちが落ち着き、気分がよい。

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すっきりした老松のショーウィンドウ
まずお土産に大好きな“流鏑馬(やぶさめ)”を求めた。丹波大納言の粒餡をしっとりとした生地で包んだどら焼き風の平鍋物である。下賀茂神社の流鏑馬神事の射手の綾傘の形を模した上品な京菓子である。

⇔鏑馬
わたしの大好きな流鏑馬
次に黒糖、三盆糖、しょう油の三種類の味をそろえた古能美(このみ)菓子を求めた。

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手前が古能美菓子 うしろが山人艸菓(さんじんそうか)
店員さんが奥にお包みに入っている束の間の間に、ショーウインドーはわれわれを魅惑する。そして、追加に追加に追加・・・と、注文が五月雨式に増えていく。

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3種類の古能美菓子 左に菅公梅
ん肋得餅・菅公梅
麩焼煎餅・菅公梅
まず、洋風でおしゃれな菓子だと家内が篭絡された“山人艸菓(さんじんそうか)”の“橙糖珠(だいとうじゅ)”と“胡桃律(ごとうりつ)”の詰合せである。

山人艸菓 左:胡桃律 右:橙糖珠
山人艸菓 左:胡桃律 右:橙糖珠
〇確嚊膕(さんじんそうか)の橙糖珠(だいとうじゅ)
橙糖珠(だいとうじゅ)
わたしはホテルに帰っておやつにと、季節感ピッタシの“桜餅”と一風変わっていて目に留まった京菓子風月餅の“香菓餅”を注文した。

サ菓子風月餅
ホテルで食べた香菓餅
桜餅は関東と異なり、道明寺粉のモチモチを二枚の桜の葉で包んだいわゆる関西の桜餅である。

F麕腓虜の葉え包まれた老松・桜餅
関西の桜餅 中身は道明寺
香菓餅はドライフルーツ入りの白餡を粒餡で巻き、そぼろをまぶした創作和菓子である。

ホテルで早速いただいたが、両方とももちろん美味で、満ち足りた気分に包まれた。

最後に白状するが、老松でこれだけお菓子を買い溜めしたにもかかわらず、北野天満宮でちょっとお参りしてからと立ち寄ったところ、東門から入ったのが運の尽き、いや、僥倖であったというべきであろう。毎月25日の縁日のみに営業する長五郎餅の境内茶店に暖簾が出ていたのである。
毎月25日の縁日のみ開く、長五郎餅北野天満宮境内店  秀吉に命名された長五郎餅

これは菅公のお引き合わせに違いないと、ありがたくもつつましく二個入りを手に入れた。もちろんホテルで翌日のお目覚にいただいた。ふくよかなお餅であった。
こうやって改めて写真を見ると、まさにはしなくも爆買いをしてしまったとの感は否めない。

2021年京都の桜・千本釈迦堂(大報恩寺)の阿亀桜(おかめざくら)は見事!

千本釈迦堂の本堂前に年季の入った枝垂れ桜の銘木がある。9年前に訪ねた際、此度よりわずかに10日ほど早かった(2012.3.13)にもかかわらず開花にはほど遠かったものの、阿亀桜(おかめざくら)の頭上高くには蒼穹が広がっていた。

2012.3.13 千本釈迦堂の阿亀桜
2012.3.13の蒼天のもとに阿亀桜
これで枝垂れに櫻花が咲き誇っておれば、富安風生(とみやすふうせい)の名句、「まさをなる空よりしだれざくらかな」の実景が見られたのにと、悔しい思いをしたことが思い出される。

一度は蒼天の満開のときに訪れたいと願っていたが、2021325日、ようやく櫻花が満開の時に京都を訪れることができた。

阿亀桜看板正面
阿亀桜
前日は醍醐寺の満開の桜に感動しっぱなしで、強欲な老夫婦は「まさをなる空より阿亀桜かな」と、既にひとつの秀句をしたためて胸躍らせていたのである。

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千本釈迦堂の参道と標柱
ところが、ところがである。前日の晴天は雨空に変わり、春雨のそぼ降る生憎の日和となった。

タクシーが千本釈迦堂の山門へつづく細い石畳の前に着く。

雨に濡れた石畳の目先、山門からは枝垂桜が満開であることが見える。

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山門の先に枝垂桜が咲いている
山門をくぐって、いよいよ花をつけた阿亀桜とご対面だ。

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本堂に雪崩れる阿亀桜
「天気荒天なれども心拍数高し」と日本海海戦の名参謀秋山真之も口にしたに違いないと確信した。

本堂に阿亀桜
阿亀桜と本堂
阿亀桜の古木の條々には見事な櫻花が咲き溢れている。

傘と阿亀桜
雨傘をかざして阿亀桜
「鈍色の空にも阿亀桜かな」

見事な枝垂れ桜 阿亀桜
本堂から今を盛りの阿亀桜
老夫婦は雨であろうと嵐であろうと、阿亀桜が満開の笑顔で我々を迎えてくれたことに心より感謝した。

ケ中の阿亀桜
雨中の阿亀桜
内東側に据わる阿亀多福像もそぼふる雨に肩口を濡らしながらも微笑んでいたのである。

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阿亀多福像
最後に千本釈迦堂の魅力について述べておかねばならない。

千本釈迦堂とは嵐山にある清凉寺(嵯峨の釈迦堂)との区分けにおいての通称で、瑞応山大報恩寺というのが正式な寺号である。清凉寺とならび釈迦信仰の都の中心寺として古来、篤く庶民の崇敬を集めてきている。

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国宝・千本釈迦堂本堂
その中心となる本堂は洛中で最も古い木造建造物として国宝に指定されている。安貞元年(1227)、鎌倉時代初期に建てられた創建時そのままの本堂は簡素な造りであるが、骨太の堂々とした佇まいが堂内に招き入れられた人々の心を寛がせる。ご本尊の釈迦如来坐像の前に坐り、しずかに手を合わせてみてほしい。心中から世の俗事がす〜っと消え去り、穏やかな気持ちになるから不思議だ。

また、本堂の西側にコンクリート造りの霊宝殿があるが、そこには貴重な仏像が多々、安置されている。

千本釈迦堂・霊宝殿
霊宝殿
わたしが好むのは、それぞれが国の重要文化財に指定されている定慶作の六體の観音像と快慶とその弟子作の十體の10大弟子像である。すべての仏像が一堂にしかもほぼ毀損なく残されているのは非常に珍しく、落ち着いた静謐の館内でじっくりと鑑賞するのは仏像好きの人にとっては至福の時である。
阿亀桜だけでなく、霊宝殿の拝観もぜひ、併せて勧めたいところである。

京都の“割烹やました”で春の珍味・花山椒に遭遇

日中は古刹で櫻花を存分に愛で、宵には“割烹やました”で大将お薦めの料理に舌鼓を打つ。わたしたち夫婦が古都京都をこよなく愛す所以である。

醍醐寺不動堂と桜
醍醐寺不動堂と桜
その京都へ。昨年はコロナの嵐で緊急事態宣言が解除された11月にたった一度訪れたのみである。

2020.11割烹やましたを訪ねる
2020年11月17日にその年、初めてやましたを訪れた
そして、「来年は早々2月に来るね」と大将に堅く約束し、店を後にしたのに、またまた緊急事態宣言で予約したホテルをキャンセル、宣言解除の3月に花見を兼ねて京都行きを決行。

その日“やました”には6時半に予約をいれていた。少し遅れて入店したところ、すでにカウンターは私たちの二席を残して満席。一番手前の席であったが、これはこれで板場の景色が変わって見えて新鮮な経験。

当夜はまずオコゼの薄造りからはじまった。

.コゼの薄造り
ワンパターンになりつつあるが、やはり旨い。

昨年、わたしが体調を崩してから今後、お酒は一合までとこわ〜いお医者様から申し渡された。不満顔のわたしに酒好きでもあるドクターは心中を察してくれて「これからは値段は張っても旨い酒を一合呑めばよい」と、一合呑みの極意を伝授してくれた。

一合の鳳麟を嗜む
そこで、この日も大将お薦めの伏見の酒・「鳳麟」を一合いただくことにした。

一口舐めては、皿に箸を伸ばす。最近はこの振付が板についてきた。つましいものである。

そして当夜は、学生時代からの畏友・Y氏がつい先日、“やました”を訪れた際、うまそうだったとわざわざ連絡をくれた毛蟹を注文。

い笋呂衄味えあった毛ガニ
味噌も含めて美味この上なし。わが家の娘はいつも海老・蟹アレルギー(ものすごく軽いのだが・・・)だと騒ぐ。だから海老・蟹は娘がいないときにしか注文できない。そうだからなのか、猶更、美味しく感じるから不思議なものだ。

ソ佞猟遡・花山椒
手前の緑が花山椒
そして、大将が旬の珍しい花山椒が手に入ったから花山椒鍋を食べろと薦めてくれた。わたしは鍋料理があまり得てではなく、つい逡巡した。すると殺気のようなものを右頬に感じるではないか。そこで隣の家内に目を遣ると春の旬を食すのが通というものとそれを断る気か!とその瞳は糾弾の色を濃くしている。つまらぬ我を通すのも野暮というもの。春の彩、刹那を食すのも良いかと、当夜は注文することにした。

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確か、昆布と鰹節と薄口醤油だったか。上品でシンプルな出汁である。

それから順に具材を鍋に入れていき、丁寧に灰汁とりをする。

最後にメインの緑鮮やかな花山椒をさっと鍋に入れて、素早く小鉢に小分けする。

ゾ鉢でいただく花山椒鍋
出汁を吸い、花山椒ごと豆腐を口にする。山椒と名がついても花山椒の風味はやさしい。小さな春が口腔いっぱいに広がった。

機会があったら是非、京都の春を口腔と目で愉しんで欲しい。

この度、これまでの“割烹やました”の写真を見返していたら、ええ〜っ!!

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2019年4月にちゃんと写真を撮っていた花山椒鍋
二年前の421日に、花山椒鍋を食べていたことが判明。

その時は鶏肉ではなく、牛シャブ花山椒鍋であった。この老夫婦、認知症が始まっているらしい。あぁくわばら!くわばら!

そのころ、ブログをお休みしていた時期で、記憶があまり整理できていなかったのかもしれない。

そして、鍋の最後はさっぱりと素麺で〆め。おいしかった。

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それと、当夜、琵琶湖の珍味、本モロコとならぶビワマスなるものを酒のツマにいただいた。「琵琶湖八珍」と呼称される琵琶湖の固有種のひとつである。

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脂がのってトロリとしているのだが、しつこくなく上品な味わいであった。

さて、料理も最後となったが、従来、やましたは常連客が多く、入れ替えで10時近くまでにぎわうのを常としていた。ところがコロナ騒動になってから緊急事態宣言解除で営業時間が延ばされたというのに、もう8時過ぎにはバラバラお客も席を立ちはじめ、9時前なのに残る客はなんとわたしら夫婦とあと一人ということになった。

こうなると不思議なもので、慣れ親しんだ“やました”でもどうも尻がむずむずしてくる。われわれもそろそろ退散だと席を立ったのは9時ちょっと過ぎである。

木屋町通り 高瀬川沿いの夜桜
押小路橋から高瀬川の夜桜
そして見送りに出てきてくれた大将とお互いの健康を誓い合い、高瀬川の夜桜を横目に見ながらホテルへとそぞろ歩いた。

心地よい夜風が頬をなでて、まだ手を振ってくれている大将の彼方へと流れていった。

2021年京都の桜 醍醐の花見を愉しむ(3月24日)

老い先もそう長くもないわれわれ老夫婦、コロナ禍の緊急事態宣言の間隙を縫って昨年11月の紅葉狩りにつづき、京都の満開時の桜を満喫しておこうと数か月前にピンポイントでホテルを予約した。

‖藐鏤仁王門
醍醐寺仁王門の桜も満開
観桜は紅葉と違い旬の見ごろというのは一週間そこそこである。

だから324日から二泊の宿泊日を前もって定めたのは一種の賭けであった。当れば儲けものといったところで桜花の一輪でも咲いていれば花見ができたということにしようと老妻と互いに納得し合い、ハズレの場合の失望を前もって共有しておいた。お互いに文句は言いっこなしということである。

∋淇發貂に五重塔
下醍醐五重塔と枝垂桜
ということで3月に入ってからというものは、「桜ナビという各地の桜の開花・満開予想を日々伝えているWEBサイトを日に幾度も確認しては「今年の開花は早そうだ」と念じ、その熱意が神様に届いたのか、当初の願いは満開予想日が日毎に前倒しになるにつれ、徐々に期待から確信へと変じていった。

だ饗躓槐凖堆討了淇盧
清瀧宮拝殿脇に立つ豪奢な枝垂桜 この無効に五重塔が隠れている
旅の初日、天気は晴天、京都駅に12時過ぎに到着。駅前にあるホテルのウエルカムラウンジがコロナのため相変わらず閉鎖中ということで、新幹線八条東口の外にある“京都駅八条口・デリバリーサービス”を利用、ホテルまでの荷物の配送を頼んだ。

京阪バス 京都駅八条口のりば
そして八条口前の京阪バス京都醍醐寺線(H4)を利用し、醍醐寺に到着。20年ほど前の2003330日に訪ね、その時はまだ桜の開花には早く一輪の桜も目にしなかったのだが、それ以来18年ぶりの醍醐寺の拝観である。
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桜に埋まる五重塔
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年前の日付が確かなのは、この醍醐寺で初めて「御朱印」なるものを知り、御朱印帳を購入し、人生最初の御朱印をいただいたからである。醍醐寺から始めた全国を巡る御朱印の旅により、現在の御朱印帖は15冊目に入っている。

  
醍醐寺御朱印 平成15年令和三年 醍醐寺御朱印
平成15年の御朱印       令和3年の御朱印
さて、その醍醐寺であるが、慶長3年3月15(1598年4月20日)に時の天下人、豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催したことはあまりにも有名である。秀吉は家臣の前田玄以に命じて伽藍から醍醐山の山腹まで七百本の桜を植樹させたという。

弁天堂の池に舞う桜吹雪
観音堂の池に舞い散る櫻花
京都の花見は醍醐の花見にはじまり、仁和寺の御室桜(おむろざくら)で終わるともいわれている。此度は都の花見のはじまりを僥倖ともいうべき絶好のタイミングで愉しむことができた。

櫻花に観音堂
櫻花に観音堂
アップした数々の写真をご覧いただくと、青空を背景とした醍醐寺の満開の桜が洛中の人々の度肝を抜いた、あの太閤以来、その豪華さと絢爛さにおいて寸分も衰えていないことがご理解いただけると思う。
清瀧宮本殿
清瀧宮と桜
といっても太閤の花見を観覧したことはないんですが・・・。

まずは京都の一日目。夕方までの四時間弱を醍醐寺のみで過ごしたが、それだけの時間を費やしても下醍醐を一巡できたばかりで、予定していた上醍醐までは足は伸ばせなかった。

醍醐寺不動堂と桜
不動堂に桜
しかし、かねて念願の醍醐の花見が心行くまで堪能出来て老夫婦は満面の笑みでホテルへと向かった。

醍醐寺・仁王門の桜
仁王門への参道
翌日は平野神社の魁桜(さきがけざくら)と千本釈迦堂の銘木、枝垂れの阿亀桜(おかめざくら)を観に行く予定である。そして、当夜の晩餐は昨年11月以来の“割烹やました”で、春を彩る“花山椒の鍋”の馳走にあずかることになり、夫婦して大きな舌鼓を打ったのである。

茶寮・寿庵のわらび餅
寿庵のわらび餅
醍醐寺の境内はあまりに広い。下醍醐の奥に位置する観音堂の池を挟んだ弁天堂の前にお休み処・阿闍梨寮寿庵がある。そこで、一服のほうじ茶とおいしい“わらび餅”は是また美味で、ぜひ大口開けて頬張ることをお薦めしておきたい。
古来、花より団子とはこの事を云う。

古代氏族・忌部氏の精霊が散らす吉良のエドヒガン桜の花吹雪

令和3年3月28日 吉良のエドヒガン桜
徳島県の北西部、吉野川上流の山中に御所神社(美馬郡つるぎ町)というゆかしい名をもつ神社がある。

御所神社(忌部神社
御所神社
阿波忌部(インベ)氏の本貫(根拠地)である当地にその始祖(天日鷲命=アマノヒワシノミコト)を祀ったものである。そもそも忌部氏は、斎部広成(インベノヒロナリ)によって大同2年(807)に撰上された「古語拾遺(コゴシュウイ)」に詳しいが、中臣氏(中臣鎌足が有名)とともに古代大和朝廷の宮廷祭祀を司った一方の旗頭であった。その中央の忌部氏に奉仕していた地方忌部のひとつが麻布や木綿(ゆう)を大嘗祭の際に貢納する役を担った阿波忌部である。

御所神社・拝殿
御所神社 拝殿
そんな往古まで遡る歴史を誇る御所神社であるが、明治初期に延喜式内社・忌部神社の本家争いが当社の東北東18kmの吉野川沿いに建つ山崎・忌部神社(吉野川市山川町)との間で勃発、紆余曲折ののち太政官の調停により徳島市二軒屋町に新たに忌部神社が創祀され喧嘩両成敗の裁定で事が収まるという経緯を持つ。

桜と山崎忌部神社   徳島市二軒屋町 忌部神社
           本家争いが起った山崎忌部神社   徳島市内二軒屋町の忌部神社
現在は徳島市内の眉山中腹に建つ忌部神社の摂社としておさまり、当社鳥居の扁額には「忌部奥社 御
所神社」と記されている。

御所神社 忌部奥社と記された扁額
御所神社鳥居の扁額に忌部奥社とある
そうした人間臭い謂れを持つ古社の社前に樹齢四百年を誇る桜の巨木が立っている。
社前に立つエドヒガン桜
社前小高い斜面に立つ樹齢四百年の吉良のエドヒガン桜
「吉良のエドヒガン桜」と呼ばれ、昭和46年に徳島県の天然記念物に指定されている。

御所神社社前に立つ吉良のエドヒガン桜
今を盛りに枝ぶりも見えぬほどの満開の櫻花(2021年3月28日)
桜の古木は得てして幹こそ太いものの花のつきが悪いものを多く目にするが、ここのエドヒガン桜は花びらの色も雅な桜色で四方に伸びた枝々が隠れるほどに全面に櫻花が咲き誇っている。山腹に立つその様は悠揚として孤高の品格を放っている。

樹齢四百年の吉良のエドヒガン桜
静謐の中に咲き誇る吉良のエドヒガン桜
その日は雨もよいのあいにくの空模様であったが、時折、吹き下ろしてくる山風がエドヒガン桜の今を盛りの花びらを鶯の啼き聲を透き通す嵐気のなかに輪舞させる。

精霊たちの花吹雪 - コピー
精霊たちが踊り戯れ花吹雪を舞わす
わたしはその風韻ただよう小宇宙の中に身をゆだねつづけた。すると、往古、ひたすら祈りの時を刻んでいた氏族の精霊たちがこの春のひととき、花冠を目深に被り踊り戯れている様子が目の前にひろがってみえたのである。

閻魔大王お墨付きの最強のお守り・摺袈裟(すりげさ)を授かった

新年にあたり彦左の正眼の読者の方々にとっておきの福を遍(あまねく)く、お届けしたいと思う。古くから四国霊場第18番札所・恩山寺(おんざんじ)のみが授与してきた『摺袈裟(すりげさ)』という閻魔大王のお墨付きもいただいている最強のお守りである。この万能の効験がこの写真の念力を通じて皆さんの心のうちに宿ることを心から願っている。

18番札所恩山寺の摺袈裟
摺袈裟(すりげさ)
まず、『摺袈裟』の由来について恩山寺の説明書きを下記に転載する。

 

摺袈裟(すりげさ)は別名『袈裟曼荼羅(けさまんだら)』ともいい、僧侶が用いる袈裟の内に梵字(ぼんじ=古いインドの文字)で曼荼羅(まんだら)を書いたものです。摺()るとは「版木で印刷する」という意味で、袈裟とは「僧侶が行住坐臥(ぎょうじゅうざが=一日中常に)身につけるお釈迦さま以来の法衣」です。その袈裟に仏様を表す梵字や有り難い陀羅尼(だらに=仏様の功徳を説いた言葉)を書いたものが摺袈裟です。

所持すれば、陀羅尼の功徳によって患っているいかなる病気も治癒し、滅罪生善(めつざいしょうぜん=悪い事を良い事に変える)の為にはこれ以上の功徳あるもの無し、といわれています。

昔、閻魔大王が『死者が眠る墓にこの摺袈裟を掛け、一週間のあいだ供養すれば死者が蘇る』と説いた事に由来して、古くから、亡くなった人の棺にこの摺袈裟を入れてあげれば、必ず極楽浄土へ往生出来るといわれています。それゆえ、後からご仏壇の中に摺袈裟を入れると亡くなった方の供養にもなります。

なお、この摺袈裟の授与は古くから恩山寺(おんざんじ)のみで行われています。

以上

 

18番札所・恩山寺
第18番札所恩山寺
わたしたちがお遍路を始めたのは今を去ること4年前の閏年の2016年6月10日である。しかも事もあろうに香川県の88番札所・大窪寺(おおくぼじ)から徳島県の1番札所・霊山寺(りょうぜんじ)までを反時計回りで巡礼してゆくいわゆる「逆打ち」お遍路に挑んだのである。

女体山と第88番札所・大窪寺本堂
第88番札所・大窪寺
「逆打ち」は通常の1番から順を追って廻る「順打ち」を何回かこなしたベテラン遍路が挑戦するもののようだが、4年に一度の閏年にはじめる「逆打ち」は遍路道のどこかでお大師さまに邂逅できるうえに色々とご利益も大きいのだという話を小耳にはさみ決断した、今風でいう“ご利益ポイント3倍キャンペーン”みたいな謳い文句にのっかって少々欲深で軽いノリではじめたというのが実際のところである。

逆打ちの由来となった衛門三郎とお大師さま
逆打ちの由来となった衛門三郎とお大師さまの銅像(12番焼山寺の杖杉庵)
その最初の88番札所・大窪寺で納経帖に御朱印をいただいた時、わが夫婦はWHOのいう高齢者の初年兵である65歳に達し、「頼みもしないのにお上から介護保険証なる失礼なものが送られてきた」とブイブイ文句を言っていたころである。

焼山寺・本堂
第12番札所・焼山寺
あれから4年! “綾小路きみまろ”ではないが、ようやく残り10ケ寺のところまでやってきた。本当は2020年の閏年で結願(けちがん)となる心づもりであったが、この4年間、母の介護あり、幾たびもの台風の襲来や豪雨の発生といった自然災害も度重なり、昨年には新型コロナウイルスという人類未曽有の災禍にも見舞われ、計画した旅程はキャンセルにつぐキャンセル、順延に次ぐ順延とまさに「逆打ち」遍路は至難、逆境の行であった。
しかも「歩き遍路」であれば、4年の歳月をかけてといっても、よう頑張ったと褒めてくれる人もいようが、我々老夫婦は当然、「車遍路」である。
道後温泉本館
道草遍路の定番・道後温泉本館
旅行代理店が企画しているツアーであれば14日間で88ヶ所を巡礼するという弾丸ツアーもあるではないか。団体旅行であれば二週間でまわれるものを4年間掛けてまだ結願していない。
多伎神社一の鳥居  多伎宮古墳群
    多伎神社一の鳥居      多伎神社境内奥の多伎宮古墳群
なんとも性根の据わらぬテイタラクぶりであるが、そもそもが“しまなみ海道”も辿ってみたい、多伎神社の古墳群は見ておかねばならぬとか、道後温泉をはじめ温泉巡りは必須でしょとか、ついでに近くの式内社巡りは欠かせないとか道草に時間を多く割いた遍路である。
しまなみ海道
しまなみ海道・大三島の多々羅大橋
「まぁいいか!」と、恬として恥じもせぬこの老夫婦である。でも、本堂と大師堂で二人で必ず声を大にして般若心経を唱えることは欠かさずやって参りました。最初は途切れ途切れであったものが、今ではそれなりに様になりつつあると二人して内心では自負しております。

准胝堂・御影堂の先に根本大塔
結願して高野山へいくぞ! 2018年に下見・根本大塔
そして今年こそ残り10ケ寺をまわり高野山へと考えていた矢先、緊急事態宣言である。まだ予約をいれずに様子見をしていたのが幸いし、予約キャンセルの面倒な手間がはぶけた。

事程左様にこんなふうで、まだまだ結願までには紆余曲折がありそうである。

18番札所恩山寺の摺袈裟
そこで、ここらで、少し、お遍路のご利益を少しお裾分けでもしておきたいと考えた次第。新年にふさわしい摺袈裟(すりげさ)なる最強パワーのお守りをご紹介して、そのご利益がこのコロナの嵐が吹き荒れる丑年に皆さんの心の内に届くように写真を掲載し、駄文を添えたものである。

めでたさも 中くらいなり おらが春

年末の冬至の記事で来たる丑年を「あけましてもおめでたくない」と表現したが、やはり新たな年を迎えるにあたって「めでたくない」と言い切ってしまうのはあまりにも寂しすぎた。

2021年鏡餅と恩山寺・摺袈裟
なにせ箱根駅伝で最終10区の残り2kmのところで、なんと、なんと大逆転劇をみせて、駒澤大学が13年ぶりの優勝を果たした。箱根路217kmを2日間にわたって駆け抜けた若人 (わこうど)たちにとっては「あけましてとんでもなくおめでたい」年がスタートしたのだから。

お屠蘇
そこで新年となって、小林一茶の俳句にひとつ好い句があったので、タイトルに拝借したというわけである。やはり、若人にとっては新たな年というのは、明るく輝いているのが相応しい。しかもかつては、老若男女年齢を問わず一斉に齢を重ねる祝日でもあった元旦は、やはり、おめでたいというのが通り相場である。ところが菅総理は、元旦の年頭所感につづくこの4日、新型コロナ感染者の急増に対処すべく「1都3県に今週中にも緊急事態宣言」を発出する見通しであると表明した。


ということは、箱根駅伝の大逆転劇で盛り上がった祝賀とコロナの緊急事態宣言発出の災禍を足して二で割ると、一茶の「ちうくらい(中ぐらい)」の表現がピッタシであると得心したところであった。
そしてこの新年最初のブログアップは終了のはずであった。


ところが、いろいろと調べているうちに、この句の解釈が「老い先短い身にとっては、正月を迎えるめでたさといってもいい加減なものだが、それもまた自分にふさわしいものではないか」(学研全訳古語辞典)といったことらしいということがわかった。めでたさが「中ぐらい」ということではないというのである。

長野県信濃町柏原 俳諧寺
長野県信濃町柏原の俳諧寺
「ちうぐらい」とは、一茶が生まれ、そして終焉の地に選んだ北信濃の柏原あたりの方言で、「いい加減」とか「たいしたことはない」という意味だというのである。要は、皆んながめでたいめでたいという正月なんぞ、これまでのわが身を振り返ってみればどうってことではないと、少し投げやりな口調で詠った句であるということのようだ。

長野県信濃町柏原 小林一茶終焉の古宅
柏原の小林一茶が終焉をむかえた古宅

そうは言ったって2021年、いくら新型コロナが猛威を振るおうが、いい加減でどうってことのない年であっていいわけはない。何とか「中ぐらい」までには帳尻を合わせたいものだと願うところである。そこで、最後に正岡子規の句を紹介して、新年、丑年の初ブログの〆としたい。


「めでたさも一茶位や雑煮餅」


子規が先の一茶の句を「中ぐらい」と詠みなしてものした俳句である。

 

最後になったが、冒頭の鏡餅に供えた「摺袈裟(すりげさ)」は四国霊場第18番札所でのみいただけるレアもので、「袈裟曼荼羅(けさまんだら)」ともよばれるものである。

18番札所恩山寺の摺袈裟
これを「所持すれば、陀羅尼(仏様の功徳を説いた言葉)の功徳によって患っているいかなる病気も治癒し、滅罪生善(悪い事を良い事に変える)のためにはこれ以上の功徳あるものなし」と紹介されており、遍路人のなかでも「最強のお守り」として珍重されているものである。

そしてこのお守りの功徳はなんと一生続くというのだから、まさに最強、スーパーカリフラ・・・、そう、むか〜しメリーポピンズが“supercalifragilisticexpialidocious”、”スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス“と唱えて周囲を煙に巻いたあの魔法の言葉が脳裡に浮かんでくる。


なんだかこんな時代にはとてもぴったりくるお守り、いや魔法のおまじないの言葉のようなものだと感じたものだから、お正月にあたって鏡餅に添えて飾ってみました。そして皆さんにもこのご利益が一生涯にわたって届きますよう心から願っています。



2020年冬至 それでも、ゆず湯とかぼちゃ!!

とんでもない災禍の年がまずは終わりを告げようとしている。「まずは」と殊更に述べたのは、2020年という一年間はようやくおしまいとなるが、来たる2021年はのっけからコロナウイルスの脅威がおおいかぶさったままで明けて、どこまでこの苦難の道が続いてゆくのかがわからぬという意味合いである。

片倉城址公園の桜
片倉城址公園の桜
「明けましてもおめでたくない」、そんな息が詰まるような時間の流れのなかでも、春になれば桜前線が南から北へと列島を駆けあがっていったし、秋になると紅葉が北から南へ染め下り、山から里へと錦の帯を拡げて見せた。

四国遍路 焼山寺の秋
四国88か所 焼山寺の秋
そんな2020年という不本意な年にも、復活の日はまようことなく決然としてやってきた。


2020年12月21日、冬至の日。


わたしは例年通り、ゆず湯にずっぽり首までつかり、南瓜を大口開けてムシャムシャ食い尽くしてやった。

冬至のカボチャ
細君は夕刻になって柚子を買おうと近所のスーパーにいったのだが、たった4個しか残っていなかったという。悪辣極まりないコロナをぶっ飛ばそうと今年は盛大に柚子を放り込んでと目論んでいたが、他人様も考えることは同じなのか、わが家のゆず湯は数足らずでやや貧相なものとなってしまった。

2020年冬至 ゆず湯
でも物は考え様である。スーパーの柚子がなくなるほどに数多の家庭で柚子の香ばしい薫りを湯屋の窓から解き放ち、列島全体をすっぽり覆いつくしてやったのだと想うと、それはそれで痛快事であり、コロナの悪霊もきっと進軍の足音をひそめざるを得なかったに違いない。

大徳寺黄梅院と興臨院のモミジの饗宴(2020.11.19)

紅葉狩りの京都、三日目は当初、真如堂を訪ねる予定であったが、タクシーの運転手が人込みを見るよりしずかに広縁にすわってモミジがゆっくり鑑賞できるお薦めのところがあるという。

大徳寺黄梅院の門内の紅葉
大徳寺黄梅院の前庭
秋の特別公開がされている大徳寺の黄梅院のモミジが見事だというのである。写真撮影は禁止だが、すばらしいところなので、ぜひ、行くべしと云うではないか。そこで車は急遽、方向転換、紫野の大徳寺へと向かった。

大徳寺総門   大徳寺 境内図
大徳寺の総門          大徳寺境内図
大徳寺の総門へ着くと、入ってすぐに黄梅院があった。織田信長、豊臣秀吉、小早川隆景、蒲生氏郷、千利休といった戦国時代の錚々たる人物ゆかりの塔頭だという。
大徳寺黄梅院
黄梅院塔頭の山門
撮影禁止のため門内の一区画のみの写真にとどまるが、
大徳寺黄梅院 秋の特別公開
モスグリーンの苔を這わした前庭の頭上に錦のモミジが織りなす景観を目にしただけで境内の紅葉の華やかさを想像させて心は躍った。

大徳寺黄梅院 梵鐘にもみじ
黄梅院前庭 梵鐘ともみじ
千利休の造営とされる、野趣あふれた“直中庭”(じきちゅうてい)をぬけて方丈の広縁へ向かう。そこに広がる「破頭庭」をめぐる築地塀の外側、西方に楓の巨木がそびえたっている。わたしたちは誰もいない広縁に腰を落とし、日向ぼっこをしながらその豊穣の葉叢が織りなす紅や黄のもみじのグラデーションを心ゆくまで愉しんだ。

秋天にもみじ 大徳寺黄梅院
秋天の青に紅色 黄梅院前庭
吹きわたる風のそよぎと秋の陽光のいたずらで、真っ青な秋空を背景に黄金色と紅色(くれないいろ)の小世界はめまぐるしく映像をコマおくりして観る者の目を飽きさせることがなかった。これはいくら言葉を尽くしても、観るに如かずとしかいいようのないアートである。

庫裡と紅葉 大徳寺黄梅院
黄梅院庫裡を覆うモミジ
さてこの絢爛の色モミジを鑑賞したあと、同じく特別公開中の近くの興臨院へと向かう。
大徳寺興臨院 秋の特別公開
大徳寺・興臨院 秋の特別公開
こちらは写真撮影可ということで、腕を撫して院内へ足を踏み入れた。
大徳寺興臨院 門内前庭
興臨院門内前庭
こちらも特別公開するだけあって見事な紅葉である。方丈前の枯山水は簡素で楓の木も庭の片隅にひっそりとたたずんでいる。白と紅と青の世界が清々しい。

興臨院 中根金作修復の枯山水庭園
方丈の南に枯山水の白沙の庭
ところが方丈の北側へ回廊を回り込むと、一転、南庭の画然たる色合いとは異なり、紅や黄色に緑の水彩絵の具を刷いたようで、その綾なす色模様に一瞬にして魅入られる。
大徳寺興臨院 モミジ
方丈北庭の陰翳
秋の光芒は南庭に雪崩れるようにして注ぎこみ、白沙の乱反射に双眸を細める。
興臨院 南庭
ところが一旦方丈の北庭へ廻り込むや、一面、苔色の地衣類に覆われた湿潤な土壌に楓の木々が枝葉をのばす。大きな軒先に遮られた秋の日差しは、ひかえめな陰影を随えて色モミジを照らす。
秋の風情 興臨院北庭
秋天のもとの溌剌とした色もみじとは一味違う、しっとりとした秋の風情である。

誰もいない海 日和佐・大浜海岸

阿波の薬王寺のお遍路の途中、晩秋の誰もいない海で憩う。

晩秋の大浜海岸
海亀が産卵のため上陸してくる海岸として有名な日和佐の大浜海岸である。

日和佐の海
その日は秋の日差しも心地よく、浜辺を吹きわたる風が古希をむかえる老夫婦の乾いた頬を和毛で刷くように柔らかくなでてゆく。

日和佐 大浜海岸
遠くに時折子供の歓声が聞こえてくるが、打ち寄せる波音にすぐにのみこまれてはあとに潮騒の音色だけが残響としてのこるだけである。



ウミガメを待つ海辺
とてもしずかで妙に人懐かしくなる晩秋の海辺の情景である。

秋の海 グラデーション
もうすぐ新しい年がこの浜辺にも新たな足跡をきざみにやってくる。


京都・嵐山の松籟庵(ショウライアン)で評判の湯葉コースでランチ

亀山公園(嵐山公園亀山地区)のなかに位置する松籟庵(ショウライアン)で昼食をいただいた。松籟庵の建物は近衛文麿元首相の別邸と呼ばれ、現在は豆腐の懐石料理で有名な料理屋となっている。

松籟庵の玄関
場所が公有地の公園内とあって、タクシーで行けるのは嵐山吉兆までで、そこから桂川(保津川)沿いに川縁の小径を上流へとそぞろ歩いていくことになる。

保津川沿いにつづく遊歩道
松籟庵までは距離にして500mほど、ほんの6、7分の散策となるが、時季は紅葉の季節である。
保津川下りの舟の船着場
遊歩道の途中、保津川下りの船着場や茶屋があり、11月とは思えぬ暖かさとも相まって旅人気分は全開となった。自然に行き交う人々とマスク越しに「こんにちは」とあいさつを交わすことになる。

松籟庵の案内板を掲げる茶屋
松籟庵の看板を掲げる小さな茶屋はまとまった時間がとれないときには、軽食のサービスもあるので店内の席から嵐山の風情を楽しみながらランチをとるのも一興だと感じた。京都通の嵐山隠れスポットとでもいってもよいか。

保津川と嵐山ともみじ
茶屋を過ぎてしばらく進むと、保津川に張り出した楓の葉叢から保津川下りの舟や遊覧船が顔をのぞかせて、のどかな嵐山の秋景色が満喫できる。

もみじ越しにボートや遊覧船がみえる
そんななか、突然、船頭が嵐山に響き渡る大声を発した。鴨の一群が我先に餌をまく船頭めがけて飛来する。大道芸ならぬアクロバティックな大河芸に鴨の羽音のなか船客が一斉に、そう全員が腹の底から快哉を叫ぶ。コロナ感染騒動の状況下、わたしはそんな光景に今年はじめて出合ったなぁと、思いっきり愉快な気分になった。

保津川下り 船頭が鴨を呼び寄せてみせる
さて、遊歩道の突き当りにぶつかると、右手に折れて自然石の石段がのぼっている。

保津川遊歩道の突き当りから松籟庵への石段
そこを上った先、左手に松籟庵の看板が立つ。
松籟庵看板 小径を入っていく
その看板を左に折れ細い砂利道をゆくと十段ほどの石段を下りたところに玄関がある。

砂利道を下った先石段を
当日は予約客でいっぱいで玄関で断られているお客もいたが、幸い当方は事前予約をしていたので、安心して案内を請うた。導かれた席は保津川と紅葉を間近にみながら食事ができる窓際の一等席である。

奥の窓際の席でいただきました
予約したコースは最近メニューに加えられた評判の“松籟の湯葉コース”(税別4600)

昼食のメニュー 松籟湯葉コース(税別4600円)
以下写真でご紹介するが、盛り付けが美しく整っているだけではなく、味付けも上品に仕上がっていた。

ボリュームたっぷりの八寸
ボリュームのある八寸
表現が少々失礼にはなるが、観光地でよく出会う形ばかりを懐石風に似せたまがい物とは異なり、気の利いたミニ懐石料理であるといってよい。

先付け(雪塩添え豆腐・梅酒)
先付け(雪塩添え豆腐)
次に料理の品をいくつか紹介しておく。どれもとてもおいしかったので。
樋湯葉の揚げ物  揚げ出し豆腐
樋湯葉の揚げ物           揚げ出し豆腐
当日のメニューのなかで創作料理と謳われているものは書画家で女将の小林芙蓉氏の作品をテーマにつくりあげた一品だそうだ。

女将の秋の紅葉を題材にした作品
料理のテーマとなった小林芙蓉女将の作品
豊穣の秋と紅葉をイメージしたものだろう、味覚のみでなく視覚でも料理を味わい尽くせるアーティスティックなひと皿であった。

収穫の秋 朴葉にのせた創作の一品
秋の創作の一品
かくのごとく和建築の室内を飾る見事な書が懸かる部屋で、窓外にもみじと保津川を眺めながら、次々繰り出される洒脱な料理に舌つづみを打つ。

窓越しに保津川と紅葉
なるほど松籟庵には大人の心をくすぐる贅沢な時間が用意されているのだと感心したところである。

湯葉のしゃぶしゃぶ   湯葉のしゃぶしゃぶ鍋
湯葉のしゃぶしゃぶ
これから嵐山を訪ねる際には、時間に余裕をもってぜひこの松籟庵で食事をとられることをお勧めしたい。

松籟庵の書
そして、お腹がいっぱいになったのちには、公園内の展望台にまで足を運んでほしい。後日、ブログにアップする予定だが、対岸の山腹に大悲閣千光寺を見晴らし、眼下に保津川下りの舟を見下ろし、タイミングがよければ渓谷を走るトロッコ列車の姿をみることができる絶景スポットなのである。
嵐山・大悲閣千光寺   嵐山・星野リゾートを見下ろす
渡月橋から見るありきたりの景観とは趣を異にする嵐山の景勝にふれて、あなたは嵐山のちょっとした通になったと感じること請け合いである。

常寂光寺 黄葉が紅葉に色変わり(2020.11.18)

楓のなかに常寂光寺仁王門
常寂光寺仁王門
嵯峨野の落柿舎を正面に望むところに瀟洒なお店がある。京あられの老舗、小倉山荘という。
晩秋の嵯峨野落柿舎
小倉山荘から落柿舎をみる
そのHPに「一期一会」という山本雄吉社長の対談集が連載されている。そのなかに万葉の時代には“もみじ”は中秋の萩を詠い「黄葉」と表記されていたものが、藤原定家が新古今和歌集や小倉百人一首の編纂を通じて、晩秋の楓の「紅葉」へと読み替えて、“もみじ”をもののあわれを感じる晩秋の色彩へと変じさせたとの興味深い話が紹介されていた。     

京あられのお店 小倉山荘  小倉山荘 あられお土産(冬おぐら山春秋&山椒あられ)

京あられ老舗の小倉山荘 おぐら山春秋・山椒あられ
日本の秋を彩る代表的な色を黄から紅へと転じてみせたのが藤原定家だというのである。万葉集には180首の“もみじ”の歌が載るが、その表記は「黄葉」あるいは「毛美知」となっている。「紅葉」の文字を使っているのはたったの1首なのだそうだ。

常寂光寺 紅葉に隠れる仁王門
山門から仁王門へ
小倉山荘から百メートルほど歩いた小倉山山麓に常寂光寺はある。
常寂光寺 仁王門に紅葉
紅葉のなか仁王門
紅葉と白壁のコントラストの美しい仁王門から石段をまっすぐにのぼった高台に本堂が建つ。
常寂光寺 本堂と紅葉
本堂
さらに妙見堂との間の山路をのぼっていくとひっそりと立つ小さな石碑にぶつかる。定家が小倉百人一首を編んだ“時雨亭跡”と刻まれている。

ひっそりと立つ時雨亭跡石碑 常寂光寺
時雨亭跡の石碑
時雨亭跡は近くの二尊院や厭離庵もその名があがるが、小倉百人一首が完成した八百年前、すでに嵯峨野一帯が楓の紅葉で有名であったことがうかがわれる。

二尊院・時雨亭跡から嵯峨野の紅葉を俯瞰   厭離庵の紅葉
二尊院時雨亭跡から嵯峨野を見下ろす  厭離庵の黄葉(共に2017.11.30撮影)
常寂光寺の境内にはひしめきあうように楓の木が植わっている。紅色の世界が広がる境内で、鐘撞堂近くに一本の鴨脚(いちょう)の大樹がそびえたつ。
常寂光寺 黄葉と紅葉の競演
万葉と平安の競演
その一画だけは黄色の小世界が息づいているようで、萩が鴨脚の木に代わってはいるものの、万葉の黄葉と平安の紅葉が相寄り添うて時代の色彩を競い合っているようにも見えた。


大覚寺・大沢の池 秋景色は一幅の絵画(2020.11.18)

京都二日目はわが老夫婦にしてはめずらしく朝も早い?八時半にホテルを出立。一路、嵯峨野の大覚寺を目指した。9時直前に明智門前に到着、開門と同時に清冽な空気に満ちた宸殿大玄関へ一番乗りを果たした。

大覚寺・明智門  大覚寺・表門
明智門              大覚寺表門
嵯峨野は東山よりも冷え込みがきつく、紅葉も進んでいるのだろうと思って訪ねることにしたが、2020年は東山の方が、もみじの色づきが早く発色もきれいだとのタクシー運転手の証言を車内で耳にしたとおり、大覚寺境内の紅葉も11月18日現在ではまだ盛り前というところであった。

大覚寺・御影堂 安井堂から
大覚寺の御影堂
大覚寺は十数年前に訪れたのが最後で、久しぶりの拝観である。宸殿から御影堂、安井殿、大沢の池を一望する五大堂と、それらを折れ曲がってつなぐ村雨の廊下。時代劇の映像で一度は目にしたことのある光景が眼前に展開する。

村雨の廊下から紅葉もチラホラ
村雨の廊下からチラホラと紅葉を観る
宸殿の広縁や村雨の回廊から色づいた紅葉がチラホラ見えて嵯峨野の秋もこれから深まってゆくのだろう、本格的な紅葉狩りには今一歩のところである。11月の下旬から12月上旬にかけてが、大覚寺・大沢の池の秋を愉しめるよい頃合いだと感じた。

宸殿・襖絵
大覚寺・宸殿の襖絵
そこで、これまで大覚寺の拝観はしても時間の関係で省いていた大沢の池の回遊に今回は挑戦してみた。
大沢の池 天神島の紅葉
大沢の池 天神島の紅葉
まずは、小倉百人一首・第55首の“滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ” で有名な“名古曽の滝”を目指した。歌が詠まれた千年前、既にこの滝は枯れていたことになるが、この和歌によって永遠の名声をこの世にとどめることになった。滝そのものは石組みを当時のまま伝えるのみで、千年のときを枯滝のまま過ごしてきたという奇妙な顛末となっている。ようやく名古曽の滝と対面がかなったものの、その滝石の造作に千年の風雪や風雅をしのぶ縁(ヨスガ)など一片も認められず、潔いまでになんの変哲もない石組みであったのは、時を超越して一切の感傷を拒絶しているように思えて、逆に痛快ではあった。

色づきはじめた紅葉のむこうに名古曽の滝
中央の石組みが名古曽の滝
その名滝をあとにして、大沢の池の東岸をなぞる紅葉の回廊へと足を向けた。堤の両端にはもみじの樹々が植えられ交錯する葉叢によって紅葉の隧道ができている。
大沢の池 もみじの隧道
大沢の池 もみじの隧道
まだ青紅葉が多いものの、一部に色づくもみじ葉が最盛期になれば土手道いっぱいに朱色の日差しをおとし、そのさまはさぞかし美しかろうにと、感じた。

大沢の池 秋景色
大沢の池の秋景色
また、樹間から大沢の池越しに見る大覚寺や紅葉の回廊を遠望すると、それはもう嵯峨野の秋の静寂を十分満喫できる一幅の絵画であった。


いよっ!! もみじの永観堂(2020.11.17)

“奥山の岩垣もみぢ散りぬべし照る日のひかり見る時なくて”

永観堂多宝塔の黄昏
この古今集の収録歌はいまから1200年ほど昔に永観堂の地に建っていた山荘を彩る紅葉を詠じたものである。爾来、洛中近境のもみじの代表的景勝地として“もみじの永観堂”とながく呼び習わされるようになった。

永観堂門前で息をのむ紅葉の競演
永観堂(禅林寺)は平安時代の初期、弘法大師の弟子真紹により藤原北家の公卿、藤原関雄の旧宅を譲り受け開基された。先の和歌は秀才の試験(中国でいう科挙)に合格した関雄が官途を厭い琴歌酒賦(キンカシュフ)の日々をすごした山荘から見た紅葉を、わが身の行く末に重ねて詠ったものだという。

紅葉トンネルの石橋
そんな奥ゆかしい由緒をもつ永観堂とは露知らず、わたしはこれまで、「もみじの〇〇」なんぞと称されるところなど俗臭ぷんぷんたる雑踏を見に行くようなものと嘯(ウソブ)き、足を遠ざけていた。

ところが古希を目前にし、わが人生を顧みることが多くなった。そして思ったのである。わたしの人生、スノッブそのものじゃないかと。そんなら、残り少ない時間をスノビズム礼賛で駆け抜けてみようじゃないかと。ひらきなおりの人生とでもいうのだろうか、肩が軽くなったような気がするから不思議だ、誰も見ていないのに・・・笑止である。

満艦飾の永観堂境内
という次第で、初めてもみじの永観堂なるところへ足を踏み入れてみた。門前に立った。山門に差し掛かる紅葉だけで心が震えた。

永観堂 甍越しにもみじの色模様
境内に植わる紅葉は三千本を数えるというではないか、そう聴いただけで眼前に紅蓮の炎は大袈裟にすぎるが、ひと筋の緋毛氈がす〜っと横にながれていったような気がしたのである。

息をのむ永観堂のもみじ
境内に歩を進めてゆくにつれ視界に映る紅葉の占める程合いは弥(イヤ)増しに増す。そして黄昏時へむかって秋のつるべ落としの光芒は三千本のもみじ葉に時の移ろいを燈(トモ)してみせ、色もようを赫々(カクカク)と滑らして大向こうを唸らせた。まさに千両役者の貫禄で“もみじの永観堂”を見事に演じきってみせたのである。

永観堂紅葉狩りの人々
境内に参集する観衆はカメラ片手に、「あの多宝塔のところ、綺麗ですよ」と、こみ上げる感動を伝えたくて、傍らの見知らぬ人につい声をかけてしまう。語りかけられたわたしも、つい、「あそこの紅葉も夕日に映えて美しい・・・」と、昼日中であればとても恥ずかしくて口に出せぬ言の葉で応じていたのである。

永観堂多宝塔 秋景色
黄昏時にしか訪れぬ面妖な永観堂の紅葉狩りのひとコマであった。
いよっ! 永観堂!

2020年京都の紅葉狩り 洛北・圓光寺の額縁に映える紅葉(2020.11.17)

コロナ禍のなか遠出は控えようと自粛三昧の日々を過ごしてきたが、秋の訪れとともにどうにもこうにも辛抱できず今年初の京都への旅を紅葉狩りとしゃれこんでみた。紅葉真っ盛りの京都を訪ねるのは久しぶりである。

圓光寺 竹林のむこうにもみじ模様
圓光寺 竹林ともみじ
ピーク時に訪れても観光客の頭頂を拝観させていただくだけで京(ミヤコ)の風情も情緒もあったものではないと永年にわたり避けてきたが、老夫婦に残された時間はそれほどないのだと悟ることこれあり、晩秋の京都を二泊三日で訪れた。

大原・宝泉院 額縁におんな
大原・宝泉院 額縁におんな(2003.12)
初日は最近、人気の紅葉スポットとして脚光を浴びる洛北の圓光寺へ向かった。HPに拝観前には事前に拝観予約を入れてからとあったので午後2時からの予約を取っていた。
予約なしの拝観可能だった圓光寺
予約無拝観可の看板(写真のどこかに💛印が・・・)
ただ当日は平日で人数制限の1時間当り300名という拝観者数に達していなかったのだろう、予約なしでも拝観は可能であった。

圓光寺 境内を彩る紅葉  圓光寺定番の子地蔵ショット
圓光寺境内               定番の小地蔵ショット
さて、わたしも初めての拝観となる圓光寺であるが、京都大原に名高い宝泉院と趣向を一にして、座敷奥に坐り縁側越しに額縁を覗き込むように紅葉を観るのだというではないか。そこで、いの一番に本堂にあがり額縁庭園を眺めることにした。この日は自由に拝観できるくらいだから・・・人はすくな・・い・・・と高をくくって座敷に足を踏み入れ・・て・・・。

圓光寺 額縁庭園ブログ2
それが・・・なん・・・なんと目に飛び込んできたのは・・・座敷奥に坐りこむ人、人、人・・・、それに縁側に坐りこむツワモノまでいて・・・千牛之庭(センギュウノニワ)に色づく紅葉が零す幽(カソケ)き聲に聴き入る静謐とはほど遠いものであった。

額縁庭園の実態は?
そういうことなら・・・自慢の腕で傑作写真をとタイミングをはかるも、視界を過ぎる人影の連鎖・・・シャッターチャンスは訪れない。そんななかわずかに巡ってきた刹那、デジカメのシャッターを切る。室内に一斉にとどろくシャッターの連写音・・・。

圓光寺 額縁庭園ブログ4
慌てていたので、額縁がない・・・
その彦左の手練れ?の写真が緋毛氈と縁側と軒先の構図に嵌まる圓光寺のもみじである。構図がいま一、いや、いま三ではあるが・・・人の映り込みを避けアングルを工夫したその苦労をくみ取って欲しい・・・。

額縁庭園ブログ1
軒の庇と縁の柱・・・額縁完成!!
額縁に映る紅葉を摘まみ食いのように玩味し尽くしてからようやく千牛之庭へおりた。こじんまりした庭園をぬけて裏山へ上る。中腹に当寺を創建した徳川家康の歯を埋葬したお墓がある。傍らには東照権現のお堂が祀られていた。
圓光寺開基の徳川家康の墓(歯を埋葬)
徳川家康の墓
そこからは境内のもみじ模様が眼下に見下ろせ、ところどころに紅葉を配する洛北の街も一望できた。

境内の紅葉模様
初めての圓光寺はまずはこんなものか。そして、次に紅葉の時季に来られる機会があれば70名限定の7時半からの早朝拝観を事前予約して紅葉を独り占め、いや、70人占めにするのも一興だと思ったところである。




 

令和元年、冬至 彦左の正眼、復活の日

これから太陽の光が強まってくる冬至の日に、ながらく休眠していた彦左の正眼を復活させることは自然の摂理にも適っていると・・・令和元年のどん詰まりになって思いなして、ブログ再開宣言をしよう。

空白の時間に充電していたはずの彦左である。またまた、縦横無尽に筆を走らせ、世相を切り取り、切り刻み、時に旅に出て、時に旨いものを喰らい・・・てな調子で・・・さぁ、はじまりだ!!

福永武彦「草の花」の舞台、西伊豆・戸田温泉へ旅した

「戸田村は伊豆西海岸の小さな漁村だ。細長い岬と荒れ果てた断崖とに入口を扼され、漣波に浮んだ油の汚点がひとりでに伸び縮みしながらひろがって行くものうい内海」

出逢い岬から御浜岬と戸田湾を見下ろす

                                                    出逢い岬から戸田湾と御浜岬を一望

これは福永武彦の「草の花」のなかの「第一の手帳」の一節である。一高生の汐見茂思が弓道部の合宿で戸田寮へ行った際の描写である。

 

わたしは20歳のころ福永武彦に傾倒し、「風土」、「海市」、「忘却の河」、「廃市・飛ぶ男」など一挙に読み漁ったなかにこの「草の花」があった。当時、わたしは昔の旧制一高にあたる東大の駒場に在籍していた。だから、18歳という年齢で汐見茂思がまとった死人のように冷たい孤独感や虚無感のようなものが一体何故生じるのか背伸びしてでも理解しようとつとめた。が、その鋭利な感性を透徹しうることなど希望に満ちたその時の自分にはとうてい無理だと断念したことを覚えている。

 

そして、ほぼ半世紀がたったこの3月下旬、「桜の樹が蕾を膨らませている。が、花にはまだちょっと早いようだ」と描かれた同じ季節に、田方郡戸田村(現在、沼津市戸田町)を訪なった。

 

「草の花」には小さな港の様子を村役場や郵便局、小学校にならんで「二軒の旅人宿」があると記している。この度はそのひとつ、明治3年開業の「ときわや」に宿をとり、湾口を扼す細長い御浜岬の突端に建つ東大戸田寮を訪ね、駿河湾越しに家内が大好きな富士山を眺めようと思い立ったというわけである。

 

ときわやの角部屋部屋から薄暮の駿河湾

                    ときわやの広い角部屋       そこから駿河湾の薄暮を見た

稜線のくっきりした美しい富士山がみたいのだとかねがね言い募っていた家内のために、宿は天気予報とにらめっこしながらギリギリまで待って決めた。日を追って予報がくるくる変わる春の空模様である、結局、予約を入れたのはほんの五日前であった。

 

当日、修善寺戸田線(県道18号線)を通って小さな内海沿いのわずかな平地にへばりつくようにできた戸田の町へと入っていった。

 

天気は曇り、翌日が朝から晴れの予定であった。早速、御浜岬へと車を駆った。戸田湾の最奥部から御浜岬の突端に建つ諸口神社の朱色の鳥居越しに富士山を仰いだ。曇りでこれだけ見えれば十分と細君も満足。

戸田湾奥より富士山を

                           雲が多いが富士の頂は見えている
そしていよいよ快晴の翌日は6時起きで再度、御浜岬へ向かった。日の出直後の早春の澄んだ青空を背景にした富士山を拝むためだ。日頃、そんな早起きなどせぬわたしが言葉通りに起床したのには、家内も目をまん丸くしていたっけ。わたしだって、やるときにゃやる! 

 

ただ、う〜ん、晴れといってもうすい霞がかかっている。故に蒼穹に稜線くっきりというわけにはいかなかったが、岬から見る駿河湾越しの富士山は昨日にくらべて麓まで見渡せたのでよしとしようと二人で納得。

早朝の富士山 御浜岬の遠景として
                     昨日よりはっきりした富士の山 

その後、早朝のうちにと宿の“ときわや”を通り過ぎ、出逢い岬からの大富士を堪能しにいった。朝早くて物好きな人いない。誰もいない岬の上、先ほどと違い目線が上になり、さえぎるもののない富士の山が目前に見えた。早春の朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸って、爽快このうえなし。

4・出逢い岬の人気のアングル

                        出逢い岬のオブジェの輪のなかに富士山

それから宿にもどって、ゆっくりとした朝食を摂った。宿を出たのは10時前、早起きの分だけ、旅立ちも遅い。そして、まずは伊豆半島を再度、北上、“煌めきの丘”という絶景スポットへ向かう。やはり、今度は一眼レフを脇に抱えた人たちがいた、いた、いた・・・。

煌めきの丘から見る富士山
                     煌めきの丘から富士山、ズーム 


次いで今度は半島を南下し、富士山の絶景スポット、“恋人岬”へ駿河湾越しの富士山を見にむかった。恋人岬では駐車場から突端の展望台まで1km余の道のりを歩いて、二人で140歳になんなんとする老夫婦が、“ラブコールベル”などという頬を紅くしてしか口にできぬ、恋人たちの鐘を高らかに鳴らした。この無体を酔狂と言われても仕方のない仕儀であった。

恋人岬から富士山を
                      恋人岬の先端デッキにはこんな甘いオブジェが・・・ 

恋人岬の先端デッキ ラブコールベルと富士山
                         この鐘を鳴らして・・・

こうした西伊豆への道行きとなったが、そもそもは福永武彦のいう孤独を半世紀経った己の肌で確かめようと思い立って計画した戸田への旅であった。もちろん、駿河湾越しの雄大な富士山をみせたいとの家内への感謝の気持ちもあってではあるが・・・。

出逢い岬から駿河湾越しに富士山を望む
                       出逢い岬から眺望できる富士山
 

福永が通ったであろう古い時代の東大戸田寮は数年前に取り壊されていたが、現在の寮も相当、年季が入っていた。

 

東大戸田緑蔭館

                            東大の現在の戸田寮
ただ、松林に囲まれた風情は「草の花」のままであった。この小径をあの汐見が・・・あの藤木が・・・、そう思うと、己のうえにむなしく過ぎ去った年月に呆然とするのみで、静寂の松林のなかにしばらく立ちすくんだのである。

 

そして、岬の駿河湾に面し築かれた堤防のうえを散策した。わたしは腰をおろして早春の陽光にきらきらと光芒を放ちながらゆったりとしたうねりを繰り返す海面をながめながら、人の孤独、死生について思いをはせた。

 

隣にすわる伴侶とはもう40年の歳月をともに歩んできた。永いようでもあり、あっという間のような気もする。最近、二人は残された短い時間をどう過ごしていったらよいか話す機会がふえた。迷惑をかけぬ死を迎えたい、でも、それは恣意的にやれるわけではない。死ぬのもなかなかむずかしいねと、いつも会話はそこでおわってしまう。スイスであったか、そこでは自裁死が法的に認められている。つい、先ごろも、オーストラリアの科学者がスイスへ旅立ち、当初の決心通りに自らの意思で安らかな眠りについた。

 

そんなことがそろそろ許されてもいいのではないか・・・、人生百年時代と声高に叫ばれる時代には・・・。そして、20代のある日、逗子の渚ホテルで先ごろ自裁死を選んだ三十歳代の西部邁氏と相部屋になって往生したことなど想い描きながら、人の「生き死に」の難しさをつくづく考えた。

渚ホテルの面影(旧HPより)
                                                      今は亡き渚ホテルの面影(旧HPより)                      

ただ確かなのは、いまのわたしにとって人の生き死は、20歳のころ頭で思い描いた硝子越しの死生観とははっきり違っているということ。わたしに見えている「生き死に」は明日、やって来ても何の不思議もない日常の一情景であるということ。来世も一緒になれたらいいねと、富士山に魅入られ隣で大富士に目を凝らしている伴侶にいうほどわたしも愚かではない。孤独は人であると認識したと同時に脇に実存するもの・・・。それに気づいている人、ある時、気づく人そして、死を前にしてようやく気づく人・・・。最後まで気づかぬ、ある意味、幸せな人・・・。

 

汐見の孤独にたいする思念は、肺結核という当時、不治の病に罹患していたからといった単純なものではなく、はじけるような青春時代の最中においてその本質に直接、手を触れていたと思われるところに、古希を目前とする男があぁかなわないな、もっとはやくにそれを認識しておれば・・・と、悔いるしかない。

 

が、仮にそれに覚醒していたら自分はどうなっていたのかとも考えたのも事実である。孤独の深淵というか真相を覗き込んだ人生はとてもではないが、伴侶など持てるはずもないし、それは不誠実、無責任というもの。

 

戸田港に帰る漁船に富士山
                                                堤防から戸田港へ帰港する漁船と富士山

そして愚昧であること、鈍感であることの良さも、この歳になってはじめてすこしわかってきたような気もする。睥睨するようにずっとこの国の成立前からそびえたつ大富士にただ目を凝らす伴侶を横目にそう思いなした戸田への旅であった。  


木曽駒ケ岳・千畳敷カールの紅葉は信州の高い青空に映える

10数年ぶりに秋の千畳敷カールへ登った。といっても、菅の台バスセンターの駐車場へ車を置いて、路線バスに乗り継ぎ、中央アルプス駒ヶ岳ロープウェイの“しらび平”駅(標高1,662m)まで40分。

1・しらび平駅前広場
しらび平駅前でロープウェイを待つ人たち
そこから山頂の千畳敷駅(2,612m)までの標高差950mをロープウェイでものの7分半で登攀?

太古の氷河期、巨大な氷で削り取られお椀の底のような形をした天空世界へと迷い込む。

2・おわん型にえぐれた千畳敷カール
そこは自然がもたらした圧倒的な造形と気の遠くなるような時の刻みの世界であった。

3・千畳敷カール
秋天は雲一つない青空である。

4・信州の青空に映える紅葉
紺碧の空には紅葉が似合う。

5・千畳敷カールの紅葉
遠くに南アルプスの峰々が見える。

6・遠くに南アルプスが連なる
絶景である。10数年ぶりの千畳敷カール。

7・青空を背景に駒ケ岳の稜線
散策路一周は40分ほどの行程である。

8・千畳敷カールを歩く登山客
昔と比べると、周遊路はずいぶんと整備されていたが、そこをわたしたちは約二時間をかけのんびりと歩いた。秋の一日、信州の紅葉と抜けるような青空を楽しんだ。


信州・八島湿原の晩夏に咲く花と昆虫をとくと御覧じよ 1/2

2017年8月19日、八ヶ岳中信高原国定公園内の標高1630mの高地にある八島湿原を6時間もかけて一周した。その熱意に免じて美しいなぁと自己満足に浸っている写真の数々をご紹介したい、いや、ぜひ見ていただきたい。

0・秋がしのび寄る八島が原湿原
秋が忍び寄る八島湿原
八島湿原の花々を堪能しようと思えば、湿原の南縁に沿って反時計回りで回るのがよい。

それでは、八島湿原でわたしが大好きな花々を・・・

もう盛りを過ぎようとしていたヤナギランである。

1・ヤナギランと八島が原湿原

2・ヤナギランとオミナエシ
ヤナギランの群生地は反時計回りで湿原を
回りだして20分ほどいったあたりに毎年、群生している。

次に日本から沖縄さらに八重山諸島や台湾にまで海を越えて飛んでいくのだという幻の蝶・アサギマダラがその蜜が大好きというヨツバヒヨドリ。

3・キク科ヨツバヒヨドリ
この花は別稿の“幻の蝶・アサギマダラはヒラヒラとまことに優雅に舞う”で、いやというほどその姿を目にされることになるが、ここではアサギマダラを一枚のみ紹介する。

4・一心不乱のアサギマダラ
きれいな浅葱色の蝶です アサギマダラ
ヨツバヒヨドリは御覧のように何の変哲もない花であるが、アサギマダラにとってはこの蜜は極上のものなのだろう。何ごとも見てくれではなく、中身が大切ということか。

次に霧ケ峰高原のそこここで目にするアカバナシモツケソウである。この時期は八島湿原ではほぼ終了したのか一部で目にしたのみであった。

5アカバナシモツケソウが咲き乱れている  6・アカバナシモツケソウ
そして、ついでと言っては失礼になるが、アカバナ科のイワアカバナである。

7・アカバナ科イワアカバナ
アカバナシモツケソウはバラ科であるが、この花はアカバナ科となる。理科が苦手だったわたし・・・、いや、花の名前とその違いを見分けるのは本当に難しい。

さて、次はいたるところで目に付いたキク科に属する多くの花をまとめてみました。

8・キク科 ノアザミ
ノアザミです。これって、菊?なのと花オンチのわたし・・・。キク科アザミ属の多年草なんだそうです。家内は花を見るのではなく、葉っぱを見なさいというのですが、葉っぱを見てもねぇ・・・、男はやはりキレイどころの花びらについつい目が行ってしまうのは仕方がないところと・・・心のなかで舌を出しているわたしでした。これじゃ、覚えが悪いのも当たり前か!

下の花、これは一目でキクだよねと、分かるやつ。

9・キク科ゴマナ
しかし、正式名はキク科のゴマナというのだそうです。ふつうに野に咲く菊でいいような気がするんだけど、学者さんたちって、細かいというか几帳面なんですね。

10・キク科ハバヤマボクチ
これ、ハバヤマボクチといいます。れっきとしたキク科です。

次は名前も姿もキク〜というシラヤマギクです。楚々として、うん、美しい日本の花だ。

11・キク科シラヤマギク
この下の写真はユウガギクといいます。その名の通りに優雅でしとやかな花です。

12・キク科ユウガキク
次はこれでもキク科の、ハンゴンソウ。

13・キク科ハンゴンソウ
次がメタカラコウ。こうなってくるとキク科って・・・何が何やらわからなくなる。

14・キク科メタカラコウ
マルバタケブキと言うんだそうです。

15・キク科マルバダケブキ
だんだん投げやりになってきているのがわかる。何せ、こんなに変化に富み、種類が多くては区別なんかできやしない・・・ブツブツ・・・

 

キク科の最後に、一輪、ようやっと見つけたコウリンカです。

16・キク科コウリンカ
もう萎れかけていましたが、なんとか頑張ってくれたコウリンカ。素敵な花です。ここまでで、八島湿原の花のその1を終了、その2は次稿となります。



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