彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

大潮の日、鳴門の大渦潮に自然の凄味を知る

私たちが4年9か月をかけて逆順で廻った四国八十八ヵ所霊場巡りの満願成就を果たす第一番札所の霊山寺を訪れた日、令和3年3月30日は奇しくも大潮の日にあたっていた。

K願之証
霊山寺で拝受した四国遍路満願之証
しかも、当日はなんと正午前に残り三ヶ寺となったお遍路を終える予定となっていた。鳴門の最もダイナミックな渦潮を観ようとすれば、大潮の日でかつ満潮・干潮の前後1時間ほどのタイミングなのだという。

そして、その日、霊山寺で満願の証をいただいたのが午前10時30分。

^貳峪ソ衫郢鎧
四国88ヶ所第一番霊場 霊山寺
霊山寺から鳴門の観潮船乗り場まではおよそ26km、車で30分弱の距離である。

¬通膣儻汽船 うずしお観潮船乗場
鳴門観光汽船 うずしお観潮船乗場
その日の干潮時間は13時10分、潮流最速の時刻は13時。その時間帯の観潮船に乗ることができれば、潮流の最も早い時に発生する鳴門の躍動感あふれる大渦潮を船上から体感できる。

絶好の観潮日和いやピンポイントの観潮ゾーンに嵌まっていたのである。これをお大師様のご利益と呼ばずして何に譬えられようか。

…流最速が13時 出港12時45分 修正済み
観潮船チケット売場
ということで、残り10ヶ寺となっていた阿波の霊場をめぐる二泊三日の遍路旅は、鳴門の渦潮の干潮時間から逆算して計画し、事前に12時45分出港のアクアエディなる小型水中観潮船のチケットを予約したのである。

大型の観潮船とは異なり、船底に設けられた座席が指定されており、渦潮を海中から観られる趣向となっていた。

⊃綯羇冂船 アクアエヂィ
水中観潮船アクアエディ
乗船後、渦潮のメッカである鳴門大橋間近に着く頃、館内放送で船内に戻れと案内が流れる。
ヌ通膤ざの渦潮 小さい(淡路島福良港から 2019.10,15)
鳴門大橋
鳴門の大潮の渦潮
船内は夜光虫のような色相で彩られており、一挙に幻想の世界に引きずり込まれる。

アクアエディの船内 両脇の窓から海中の渦潮を観る
アクアエディの船内 左右窓から海中を観る
所定の座席にすわり、窓外にエメラルドグリーンの海中を見る。そして渦が海中に向かって錐を揉みこむように切り込んでゆく情景を期待したのだが、そこはそれ、そんなに甘くはない。70枚におよぶ写真を連写したなかに、この1枚だけを見つけ出した。
ヽっ罎ら見た渦潮
錐のように・・・渦が・・・
海中に向かって錐のように?渦を巻いていく、子供のそのまた子供のような可愛い渦潮が写っていた。わたしの努力の賜物だと思って鑑賞してほしい。

その水中観覧が終了して、今度こそ上部甲板から鳴門の渦潮を見下ろしにいった。

ぬ通臑膓兇凌寝爾捻可発生
鳴門大橋の真下の海面が泡立つ
上部甲板には乗船客の歓声がそこここに挙がる。大潮の日の干潮の時刻、潮流が最速となったまさに絶好のタイミングである。

4劃時最速時の大渦潮
おおぉ 渦巻きだぁ〜
鳴門大渦潮ショーの開演である。この写真を御覧じよ!

鳴門の大潮の渦潮
鳴門の大渦潮です!!
船上で感じる振動と音をお伝え出来ぬのが残念であるが、見事な渦を巻いているのが見て取れよう。

海面に段差
海に小さな段差が生まれる・・・
もう一枚、これも頑張って撮ったので、見てほしい。

η力の大渦潮
渦がそこここに・・・
それと、ビデオも撮ったのだが、最もすばらしいところはどうも録画ボタンがちゃんと押せていなかったようで、次点の動画を一応、アップしておくが、あまり期待しないでほしい。

そうこうするうちに、船会社もそこは商売である。観潮の時間はあっという間に終了し、鳴門の桟橋に向けて無情にも観潮船は回頭し、次の船客を載せるために渦潮の真っただ中からそれこそ脱兎のごとく桟橋目指して船速をあげてゆくではないか。遊覧回数を増やせば増やすほど儲けがあがることは自明である。

あと、10分海峡に止まっていたかった、失敗したビデオ撮影を今度こそ・・・それが正直な一船客の感想であったが、もはや詮無いことである、大渦潮をこの目に焼き付けられたことが一番。貴重な体験ができたことに感謝しよう。

C枯島より 暴れる鳴門海峡
実は鳴門海峡の観潮体験は3度目となるが一度目はもう数十年前になり、記憶も薄れているが、直近は20191015日の大潮の日、淡路島の福良港から出港して鳴門の渦潮を観覧している。

一年半前は他の訪問先の予定を優先したため、ピーク時の満潮時刻より1時間半ほど前の観潮船に乗らざるを得なかった。

それはちょっとしたタイミングのズレであったのだが、波はそれなりに暴れ、海面は泡立っている。しかし目指すきれいな渦巻きの姿を目にすることはかなわなかった。

満潮までもう少し渦が巻いていない(淡路島から 2019.10.15)
満潮前だと鳴門の渦潮もこんな程度であった
そして鳴門の渦潮”といってもあの鳴門巻きの紋様のような渦はいつでも見られるということではないのだということを愚かにも初めて知らされた。わたしは基本的にいつでも渦潮は見ることができるが、渦巻きの大小や迫力の違いくらいに考えていたので、その時の“なんだかなぁ・・・”といった宙ぶらりんな気持ちが鳴門の観潮を今度こそ全身で感じてみたいと願い、今般の観潮スケジュールを立てるに至ったのである。

鳴門の大潮の渦潮
そして、この度は、海面に出現する滝のような段差や複雑な潮流の動きが造り出す大渦潮、その造形の刹那をようやく目にできた。自然のいつもと変わらぬ営みのなかに時折見せつけられる凄味というか厳しさのようなものを感じさせられた、そんなひと時であった。

皆さまが鳴門の渦潮をご覧になる際には、大潮の日、しかも満潮・干潮の時刻を狙って旅の行程を立てられんことを是非とも願い、筆を置くこととする。

霧ケ峰高原・霧ケ峰湿原の初夏、レンゲツツジは今が盛り

6月21,22日の両日にわたって車山肩の湿原と霧ケ峰高原を訪れた。

初日は車山肩のコロボックルヒュッテから見下ろせる湿原を歩き、湿原を貫く木道の両脇に広がる植物群落のなかにオレンジ色の花をつけたレンゲツツジや白い花をいっぱいに咲かせたコバイケイソウの群生を鑑賞した。

コロボックルヒュッテから見下ろす霧ケ峰湿原植物群落
ただ、ヒュッテから見下ろす湿原の遠景には白いコバイケイソウの植生は確認できるものの、レンゲツツジのおだやかなオレンジ色は残念ながら目に映えてはこない。

コロボックルヒュッテの脇から湿原におりる石ころの道を下ってゆくと、途中から湿原を貫くように一本の木道が伸びている。

⊆峪格の霧ケ峰湿原植物群落木道
この日は梅雨の合間とあって、自然道を歩く酔狂な人もほとんどない。車山のふもとに広がる湿原は静寂が支配している。湿原に響く音といえばそこここで啼くウグイスの声に、時折、ツガイの雉が鳴く声が交じるていど。頭上はるかに広がる大空と湿原の間にはまことに心鎮まるゆるやかな時の流れが満ちていた。

その木道の両脇に目をやるとようやくあの柔らかな橙色の彩りを目にすることができる。

細君はずっと昔見た写真ではオレンジ色がびっしりと敷き詰められたようなレンゲツツジの群落があったはずと云う。しかし、いまわれわれが目にできるレンゲツツジの木は老木が多いのか枝の半分くらいが枯れてしまい花のつかないものが数多く、また鳥にでも啄まれたのか枝につく蕾はまことに貧相である。

じ呂貉泙多く花の付きが悪いレンゲツツジ
そのため、オレンジ色が密集して目にも鮮やかに映えて見えるというのではなく、白っぽい枯れ枝の合間にチョロチョロと揺らめく小さな橙色の焔(ほむら)を観るようなものである。

勢いのあるレンゲツツジのオレンジは綺麗
その一方で、小さな白い花をとんがりコーンのような穂先に乱れ咲かすコバイケイソウは今を盛りと生気に満ちて見事である。湿原の各所に白い花で身を装い群れ咲いてみせている。

Д灰丱ぅ吋ぅ愁Δ侶架遒涼罎レンゲツツジの橙色
この梅雨の真っ最中に信州の高原を訪れる機会はこれまでめったになかった。コバイケイソウがこんなに清潔な白い花を咲かせるのだとはちょっとした驚きであった。というのもいつも盛りが過ぎた盛夏の頃によく湿原を訪れるためか、土気色の斑(ぶち)を染みつかせた葉っぱと、盛りを過ぎた花を冠したコバイケイソウの落魄した姿をたびたび目にするだけで、わたしはどうもこの花に薄汚いイメージを抱きつづけてきたようだ。

ジ事なコバイケイソウの白い群落
この度現金なもので、その可憐な白い花を穂先にまとわせる様を心ゆくまで目にしたゆえか、コバイケイソウという花が高原に初夏の訪れを告げる先触れの花、「高原の夏の魁(さきがけ)」とも名付けるべきであると掌返しに思ったところである。


次の日はレンゲツツジが多分、車山肩よりも沢山咲いているはずとの植物博士として我が家で高名な奥方さまがおっしゃるので、久しぶりに車山肩を過ぎてちょっとだけ足を延ばし、霧ケ峰高原へ向かった。

霧ケ峰高原へ ビーナスライン
霧ケ峰高原へ ビーナスラインをゆく
そこには自然研究路というアカデミックな名を冠する自然道がある。そこに目指すレンゲツツジの群落があるはずというのである。

〔献永自然研究路案内板
霧ケ峰自然研究路の説明板
小学生の時からどうも植物の名前を覚えるのがとんと苦手な私である。すぐ覚えられたのはイヌノフグリやブタクサといった悪ガキにはとても好ましい語感を伴う草花のみであった自分に、蓮華躑躅などというどこかありがたい名前をもつ植物を鑑賞する機会を持たせてくれた連れ合いには感謝するしかない・・・と、心より思っている。

ぢ茖官狠呂惴かう自然研究路
第4園地に向かう自然研究路
日頃運動不足の私である。5コースある自然研究路なる散策道を、できるだけ距離が稼げる、しかし、そんなに熱心に歩くことはどちらかと言えば避けたい。そんな自分が選んだのは第4園地をめぐる所要時間は40分ほど、距離にして1・5kmほどのコースである。


¬献永高原のレンゲツツジ
目指すレンゲツツジは園地の奥のほうに群生していた。なるほど車山肩よりも間近に鑑賞できて、まだ成木が多そうである。蕾も喰い荒らされていない。

トロトロ歩きの私である。途中で写真を撮るという理由で休憩しながらの歩きである。結局、1時間10分ほどの野辺歩きとなったが、群生するレンゲツツジの花をすぐ脇で鑑賞し、しっかり堪能することができた充実した時間であった。
ヂ茖官狠呂埜つけたアヤメ
と、ここで筆を置きたいところではあるが、実際のところは、野辺歩きのそこここで雑草の中からアヤメやハクサンフウロなどを見つけては歓声を上げる細君を横目に、いまだイヌノフグリに仲間意識を覚えてしまっている私に気づかされ、ひそかに舌を出している自分に、ほとほと情けなさを感じさせられた霧ケ峰高原のアカデミックな散策ではあった。

昔ながらの信州そば ビーナスライン沿いの「そば庄」

いつのころからか蓼科のビーナスラインは“そば街道”の別称を持つようになった。調べてみると、「ビーナスラインちの観光協会」が2016年に観光客の集客のために作成したマップにどうもその由来は求められるらしい。

蕎麦畑の白い花
蕎麦畑に白い花が・・・
県道192号線沿いにそば屋が多いので命名したというが、そもそも信州はそば処で有名。県内のどの街道もそば街道と呼ばれる資格を有するが、昔と比べて、ビーナスライン沿いにそば屋がふえてきているのは確かである。

なかでもバラクラ・イングリッシュ・ガーデン前のイタリア料理、リストランテ・イルポルトに隣接する“みつ蔵”というそば屋、いやそば処がいつも門前に蕎麦通を自認するであろう客が列をなしている。

2006年8月のブログでビーナスライン沿いのそば屋について記述しているが、それを読み返してみると、「みつ蔵」は5点満点の2点とずいぶん冷たい扱いをしている。

創業してすぐ訪れたはずなので、蕎麦がでてくるまでにずいぶんと待たされるなどまだ客あしらいに手馴れておらず、蕎麦の質というよりサービスの在り方に不満を抱いたようだ。

ところが、いつの頃からか“みつ蔵”の門前には群がる人々が目立つようになり、今では店の前には何台もの車が順番待ちをしている。

それを車上から横目で見るたびに、そこまでして蕎麦如きを喰らうことがあろうかと天邪鬼の虫が疼いてきて、15年間再訪を果たしていない。ということで店頭の写真すら撮ることもなく、だからここに掲載できないでいる。

しかし、日頃から価値観の多様性に重きを置く、要は自己主張にこだわらぬだけだと思うのだが・・・細君さまは、おいしい店で食べようと列んでいるのだから「人其々でいいんじゃない」といたって冷静で大人の対応で終始する。

現に、わたしの息子家族は何度か訪れているみたいで、「みつ蔵、おいしいよ」と若夫婦そろって無邪気にのたまっている。


そんなこんなでビーナスライン沿いのそば屋も栄枯盛衰の歴史を積み重ねてきているのだが、その15年前の彦左衛門のランキングで最下位に位置していたのが、今回、アップする「そば庄」である。

ビーナスライン沿いにあるそば庄_LI
ビーナスライン沿い、温泉旅館”滝の湯”手前に”そば庄”はある
「そば庄」は見るからに観光地の蕎麦屋という風情の館なのだが、旧中山道下諏訪宿にあった脇本陣(天保年間建築)をそのまま移築したものだそうだ。
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店内は今ではほとんど目にすることのできぬ三和土の土間づくりとなっている。それだけでも一見の価値があるので、だまされたと思って一度訪ねてみるとよい。

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今は珍しい三和土(たたき)の土間
こんなことを痴れっと言っている今の自分、まさにエッ!ということなのだが、実は最近、何度か通っているのだ。過去の自分の舌の感度を恥じ入ることもなく、こうして紹介しようとしている己に忸怩たるものはある。

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柱や梁に時代を感じさせる店内 

ただ、我が舌の名誉のためにいうのだが、“そば庄”も一時期、味が落ちたと感じて夫婦して足が遠のいた時期があった。あくまで推測ではあるが、当時は何らかの理由で本当に味が落ちていたのだと思う・・・たぶん・・・おそらく・・・。

ところが、2、3年前にほかの蕎麦屋が閉まっていたので、仕方なく入ってみたところ、あれっ!結構おいしいじゃないかとなったのである。

爾来、昼時に近くを通る際には時々立ち寄るようになった。そういう顛末で、本日、ご紹介する運びとなった。

セ該擇修
素朴な山菜蕎麦
今回、温かい山菜蕎麦の素朴な味を知ってもらいたくて、また、15年前のわたしの原罪を赦していただきたくこうしてブログにアップさせていただいた。

先日、食べた鴨せいろもシンプルでおいしかったので、写真を載せておく。

ヽせいろ そば庄
鴨せいろ
またそば庄のちょっと先のプール平から沢に下りてゆくと大滝という知る人ぞ知る名勝がある。

B臑譴ら流れる小川
老木の根が縦横に這う青苔の樹林を抜けた突き当りに大滝がある。
大滝
人声もなく、ただ滝の音のみが聴こえてくる。水音はすさまじいのだが、それをうるさいと感じるのではなく、逆に静寂を感じるのだから人の心とは不思議なものである。


また、“そば庄”を下ったところには、5月のGWの頃に満開となる桜の名所、聖光寺がある。今年は全国どこも桜の開花が早く、蓼科も5月1日でもう花が散り始めていた。

Δ修仂蔚瓩に桜が有名な聖光寺
聖光寺の桜
周辺にもいろいろ自然を愛でる場所も多い、そんな“そば庄”をぜひ御贔屓に。どこかのテレビ局の女子アナたちのように“そば庄”から何も利益供与は受けていないので、このブログ、ステマではないことだけははっきり言っておく。

2021年京都の桜 琵琶湖疎水・“哲学の小径”を辿る

京都最終日の3月26日は哲学の小径を法然院あたりから南禅寺までゆっくりと散策することにした。


⓪法然院の茅葺の山門
法然院 山門
椿で有名な法然院であっても、桜の樹くらいはあるだろうと高をくくってお参りしたが、境内に桜を見つけることはできず、手水鉢に浮かべられた椿の二輪の花びらで花見に替えた。
法然院手水鉢に二輪の椿
ただ、未練がましく寺域内をうろついたところ、墓地の傾斜地に枝垂れ桜が一本咲いているのを見つけたので、写真を撮った。

法然院の墓地に立つ枝垂桜枝垂桜
法然院の墓地に一本の枝垂桜
桜がないからだろう、現金なもので訪れる人はほとんどなかった法然院をあとにして、大きな石段を下り、“哲学の小径”いや現在でいう“哲学の道”に出た。疎水の両岸に桜並木が続いている。それなりの人出である。

疎水の満開の桜
疎水沿いに哲学の道 桜が満開
不自由な脚で南禅寺まで歩きとおせるか不安であったが、疎水沿いの桜は満開であった。

哲学の道
のんびりと細君とそぞろ歩いた。追い越していく人も多くいたが、もう少し頭上の桜花を愛でながらゆったりと歩を進めたらよかろうになどと、年寄りの負け惜しみとでもいおうか、風流を解せぬ輩は困ったものと嘆いたものだ。

さて、琵琶湖疎水に沿ってつづくこの“哲学の道”であるが、はじめて歩いたのは今を去ること半世紀も前のことになる。一浪後に大学入学を果たして無上の解放感とほとばしる希望に溢れた19歳の春のことである。入学手続きを終えた4月、京の安宿には炬燵がまだ設えてあり、朝夕の冷え込みが厳しい季節であった。

哲学の小径
かねて高校の恩師から東山の麓には疎水に沿って“哲学の小径”と呼ばれる鄙びた土手道があるから一度歩いてみるとよいと勧められていた。あの偉大な哲学者、西田幾多郎京大教授が思索を深め、“思惟”の重みで踏み固めていった散歩道があるというのだ。

善の研究 西田幾多郎
青春時代のど真ん中、精一杯背伸びしていた頭でっかちの自分にとって、難解な哲学を語る思想界の巨人が日々逍遥したという土手道、しかも“哲学の小径”なる尊称を冠された小径を歩いてなぞることで、哲学という高邁な空気感のようなものを肌で感じることができるのではないか、

哲学の道
疎水のほとり、まだ見ぬ風致のなかにわが身を置くことで、幾多郎のいう“微妙幽遠なる人生”の奥義の片鱗にでも触れてみることができるのではないか・・・などと夢想を逞しくし、土手伝いに歩いてみようと思ったのである。

哲学の小径 満開の桜が
“哲学の道”はもともと1890年(明治23年)、琵琶湖疎水が完成した際に設置された管理用道路であったということを、この度、知った。


そんなことだったから、昭和46年当時は未舗装の堤の両側に雑草がはびこる何の変哲もない細長い土手道であった。その夕暮れ時も観光客がわざわざ歩くほどのこともなく、地元の人が散策に使う常の道という景観であった。

その日は銀閣寺から南禅寺までを逍遥というよりは一気にせかせかと歩きとおしたが、哲学の小径の終焉近くに琵琶湖疎水を跨ぐ鄙びた土橋があった。どこか風情を滴らせる橋であったので、興味本位に対岸の東山の麓を少し上ってみることにした。

その山道をわずかに登ったあたりに苔むした石塔がいくつも転がっているひと隅があった。摩滅した刻字のなかに元号らしきものが見えたので、これは室町時代の頃の無縁仏だと勝手に決めつけてなぜか大発見をしたような気分でひとり悦に入ったことを思い出した。

遠くに土橋のような橋が
疎水を跨ぐ橋が目に入ってきた
それから50年後、記憶の中ではずっと土橋だと思っていた古ぼけた石造りの橋に遭遇した。確かに意識の底ひに埋もれていたあの土橋だ、山麓への道ならぬ細道がかすかに記憶に残っていた。そこで、足を止め、暫し双眸を閉じた。十九歳の自分を瞼の内に投影してみようと思ったからである。

それからしずかに目を開けてみると、目前には背を丸めた老人が欄干に腰をおろし無心に写生する姿があった。

写生する人
そして、山麓への登り口には鐵柵が立ちはだかっていた。わたしの“青の時代へ続く小径”は無情にも立ち入り禁止となっていた。

暗擽兇寮茲藁ち入り禁止
その登り口のすぐ脇に、当時はなぜか気づかなかった王女のお墓があった。江戸時代末期の皇族伏見宮貞敬親王の皇女・宗諄女王のお墓だと駒形の説明にあった。室町時代?の無縁仏といい、王女の御廟といい、この一画はひょっとしたらむかしは墓所として利用されていたのかもしれない。

宗諄王女の墓所
白塀で囲われた宮内庁管理の宗諄王女の墓所
この思い入れ深い“土橋”を過ぎると、“哲学の小径”もいよいよ終着点の若王子(ニャクオウジ)橋が視界に入ってくる。天気にも恵まれ、法然院を出立してから杖を片手にほぼ2時間の長閑な道行きとなった。

花びらを山風に散らす桜並木も途絶え、おだやかに流れる疎水に視線を転じると、点々と桜花を貼りつけた川面に番(ツガ)いの鴨がゆったりと身を任せるように浮かんでいた。

曳屬い粒が疎水の流れにのって・・・
思えば、50年前に19歳の青年が独り歩き通した哲学の小径を、いま、縁という糸で結ばれた男と女が共に老いを迎え、陸続と続く若人たちに先を譲りながら人生の終着駅へと一歩一歩、時を刻んで歩をすすめている。そんな懐旧と寂寞の想いを惹起させた“哲学の小径”の道行きであった。

2021年京都の桜 平野神社の魁桜(さきがけざくら)は満開(3月25日)!

平野神社は平安時代の寛和元年(985)、時の花山天皇が桜樹をお手植えしてから桜の名所へと姿を変え、江戸時代には「平野の夜桜」と謳われるほどに観桜の名所として高名になってきたという。

〆の神紋の提灯をつるす本殿
平野神社・本殿
その境内には早咲きから遅咲きまで約60種類もの桜が植わっている。それ故に刹那(せつな)の美を愛でる櫻花でありながら、花見を愉しめる期間が長く、畢竟(ひっきょう)、桜の名所としての名を高らしめていったと云えなくもない。

∧震鄂声劼虜・桜・桜・桜
平野神社の桜・桜・桜
そんな数多(あまた)咲く桜のなかでも東神門と手水舎の間に植わるのが“魁桜(さきがけざくら)”と呼ばれる早咲きの枝垂れ桜である。

3〆と手水舎  こ〆の駒札
その開花は洛中の観桜の季節のはじまりを告げる予鈴、まさに「先駆け」として“魁桜(さきがけざくら)”の名誉に浴したのであろう。

ナ震鄂声劼粒〆(サキガケザクラ)
魁桜が枝垂れている
この度は願わくばこの魁桜の咲き誇るさまを一目見たいと、先般、アップした千本釈迦堂の阿亀桜(おかめざくら)を愛でたのちに、テクテクと平野神社へと足を向けたというわけである。

千本釈迦堂 阿亀桜
枝垂桜の銘木 千本釈迦堂の阿亀桜(おかめざくら)
北野天満宮の北縁を西に向かった先に平野神社の鳥居と花霞が見えてくる。遠目にも櫻花が開花しているのがよく見えた。

北野天満宮北縁の道の先に平野神社
“平野皇大神”と揮毫された大鳥居をくぐり境内に足を踏み入れると、正面に神紋である桜の紋をあしらった提灯が吊るす東神門が見えた。
平野神社・鳥居
その左手前に目指す魁桜が満開の花の重みで枝垂れて見えた。

東神門と魁桜
間近に見る枝垂れの魁桜は見事である。

満開の平野神社・魁桜
早速、写真撮影とカメラを構えるが、次から次に人々が押し寄せ、立ち止まり、魁桜を仰ぎ見てはシャッターをきる。という具合にて、魁桜の全体像を人影なしに撮るのは大変難しく、上方へ向けたアングルで仕上げたのがこの一枚である。だからこれが蒼天であれば・・・と欲深な思いをしたのは私だけではないはずである。

桜の神紋を吊るす東神門
神紋の桜をあしらった提灯のかかる東神門
そして東神門をくぐると正面に拝殿が見えるはずであった。

だが残念なことに平成30年9月4日に近畿地方を襲った台風21号により拝殿は壊滅し、現在修復の真っ最中で灰色の大きな覆いが掛けられていた。

2018年9月4日の台風21号で倒壊した修復中の拝殿
その修復費用捻出のため広い境内の桜苑の一部が有料観覧の措置がとられていた。

桜苑 有料500円
入場料が修復費用にあてられる
入場すると菜の花と桜の花で美しくはあった。

有料桜苑
菜の花の黄色と色とりどりの桜色が美しい桜苑
しかし、苑内の桜も枝の損傷がかなりひどいように見え、昔日は素晴らしい桜の園であったろうにと、思いを馳せたところである。

平野神社 有料桜苑
昨年の11月に嵯峨野の大覚寺を訪れた時にも、宸殿が21号台風で大きな被害を受けた様子を写真で目にしたところであった。

安膤仍宸殿の台風21号による被害
大覚寺宸殿に展示された台風21号被害の写真
そして、此度の平野神社ではまだその傷跡が癒されていないことを知った。

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平野神社拝殿の台風21号により拝殿は倒壊(写真展示)
自然の猛威というものがどれほど凄まじいものかをあらためて知らされた気がした。

ところで、魁桜とは別の意味でもうひとつ平野神社の花見名物がある。茶店や露店が出店され、しかもお酒など持ち込み自由という縁台花見が楽しめることだそうだ。この二年間はコロナのせいで、それもお預けということであった。

碓酒禁止の立て看板
飲酒禁止の立て看板が寂しく置かれていた
境内には「桜苑内での飲酒を禁止します」の立て看板が寂しそうに置かれていた。やはり花見は賑やかに生きたいものだと、“花より団子党”の党員としてはその意味でも1日も早いコロナ騒動の終息を祈らずにはいられないのである。

京菓子・老松(上七軒)で爆買い 流鏑馬と山人艸菓(さんじんそうか)・・・

今宮神社社前のあぶり餅の老舗・一文字屋和輔の創業長保二年(西暦1000)は別格としても、創業四百年、三百年の伝統を有す京菓子の老舗がざらにある京都の街で、百年の歴史を有すといってもそれは新参者に近い。

右に一文字屋
今宮神社参道 右手があぶり餅・一文字屋和輔 左が”かざりや”
そんな新参者が北野天満宮の東門に突き当たる上七軒通の出口近くに店を構える老松(おいまつ)である。

‐綣係 老松
上七軒通に面する老松北野店
天満宮境内に末社・老松社が建つが、店名はそれに由来するという。

北野天満宮末社・老松社
北野天満宮末社・老松社
その老松北野店には12年前に一度訪れて以来、足を踏み入れていない。節季物の花びら餅など東京新宿の伊勢丹の老松で買えるようになったことがわざわざ京都の店へ伺うことがなくなった理由でもあった。

ただ此度は千本釈迦堂から平野神社への道すがらでもあり、上七軒通にある老松で何かおいしい菓子を物色したいとの魂胆もあり立ち寄った。

上七軒歌舞練場前から上七軒通りを
上七軒歌舞練場前から上七軒通を見る
職菓子御調進所(ゆうそくがしごちょうしんしょ)と墨書された懐かしい老松の暖簾をくぐると、「新参者であっても由緒正しき」を證する北野天満宮御用達、御婚礼諸儀御菓子調進所といった大きな表札が目に飛び込んでくる。

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北野天満宮御用達など表札がかかる老松店内
静謐で清楚な店内の雰囲気は以前のままである。目に美しいショーウインドーの飾りつけも気持ちが落ち着き、気分がよい。

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すっきりした老松のショーウィンドウ
まずお土産に大好きな“流鏑馬(やぶさめ)”を求めた。丹波大納言の粒餡をしっとりとした生地で包んだどら焼き風の平鍋物である。下賀茂神社の流鏑馬神事の射手の綾傘の形を模した上品な京菓子である。

⇔鏑馬
わたしの大好きな流鏑馬
次に黒糖、三盆糖、しょう油の三種類の味をそろえた古能美(このみ)菓子を求めた。

ー蠢阿古能美菓子・後ろ山人艸菓橙塘珠
手前が古能美菓子 うしろが山人艸菓(さんじんそうか)
店員さんが奥にお包みに入っている束の間の間に、ショーウインドーはわれわれを魅惑する。そして、追加に追加に追加・・・と、注文が五月雨式に増えていく。

ο珪勝仝吐夙菓子
3種類の古能美菓子 左に菅公梅
ん肋得餅・菅公梅
麩焼煎餅・菅公梅
まず、洋風でおしゃれな菓子だと家内が篭絡された“山人艸菓(さんじんそうか)”の“橙糖珠(だいとうじゅ)”と“胡桃律(ごとうりつ)”の詰合せである。

山人艸菓 左:胡桃律 右:橙糖珠
山人艸菓 左:胡桃律 右:橙糖珠
〇確嚊膕(さんじんそうか)の橙糖珠(だいとうじゅ)
橙糖珠(だいとうじゅ)
わたしはホテルに帰っておやつにと、季節感ピッタシの“桜餅”と一風変わっていて目に留まった京菓子風月餅の“香菓餅”を注文した。

サ菓子風月餅
ホテルで食べた香菓餅
桜餅は関東と異なり、道明寺粉のモチモチを二枚の桜の葉で包んだいわゆる関西の桜餅である。

F麕腓虜の葉え包まれた老松・桜餅
関西の桜餅 中身は道明寺
香菓餅はドライフルーツ入りの白餡を粒餡で巻き、そぼろをまぶした創作和菓子である。

ホテルで早速いただいたが、両方とももちろん美味で、満ち足りた気分に包まれた。

最後に白状するが、老松でこれだけお菓子を買い溜めしたにもかかわらず、北野天満宮でちょっとお参りしてからと立ち寄ったところ、東門から入ったのが運の尽き、いや、僥倖であったというべきであろう。毎月25日の縁日のみに営業する長五郎餅の境内茶店に暖簾が出ていたのである。
毎月25日の縁日のみ開く、長五郎餅北野天満宮境内店  秀吉に命名された長五郎餅

これは菅公のお引き合わせに違いないと、ありがたくもつつましく二個入りを手に入れた。もちろんホテルで翌日のお目覚にいただいた。ふくよかなお餅であった。
こうやって改めて写真を見ると、まさにはしなくも爆買いをしてしまったとの感は否めない。

2021年京都の桜・千本釈迦堂(大報恩寺)の阿亀桜(おかめざくら)は見事!

千本釈迦堂の本堂前に年季の入った枝垂れ桜の銘木がある。9年前に訪ねた際、此度よりわずかに10日ほど早かった(2012.3.13)にもかかわらず開花にはほど遠かったものの、阿亀桜(おかめざくら)の頭上高くには蒼穹が広がっていた。

2012.3.13 千本釈迦堂の阿亀桜
2012.3.13の蒼天のもとに阿亀桜
これで枝垂れに櫻花が咲き誇っておれば、富安風生(とみやすふうせい)の名句、「まさをなる空よりしだれざくらかな」の実景が見られたのにと、悔しい思いをしたことが思い出される。

一度は蒼天の満開のときに訪れたいと願っていたが、2021325日、ようやく櫻花が満開の時に京都を訪れることができた。

阿亀桜看板正面
阿亀桜
前日は醍醐寺の満開の桜に感動しっぱなしで、強欲な老夫婦は「まさをなる空より阿亀桜かな」と、既にひとつの秀句をしたためて胸躍らせていたのである。

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千本釈迦堂の参道と標柱
ところが、ところがである。前日の晴天は雨空に変わり、春雨のそぼ降る生憎の日和となった。

タクシーが千本釈迦堂の山門へつづく細い石畳の前に着く。

雨に濡れた石畳の目先、山門からは枝垂桜が満開であることが見える。

┿殻腓ら阿亀桜が見える
山門の先に枝垂桜が咲いている
山門をくぐって、いよいよ花をつけた阿亀桜とご対面だ。

0さ戯と千本釈迦堂・本堂
本堂に雪崩れる阿亀桜
「天気荒天なれども心拍数高し」と日本海海戦の名参謀秋山真之も口にしたに違いないと確信した。

本堂に阿亀桜
阿亀桜と本堂
阿亀桜の古木の條々には見事な櫻花が咲き溢れている。

傘と阿亀桜
雨傘をかざして阿亀桜
「鈍色の空にも阿亀桜かな」

見事な枝垂れ桜 阿亀桜
本堂から今を盛りの阿亀桜
老夫婦は雨であろうと嵐であろうと、阿亀桜が満開の笑顔で我々を迎えてくれたことに心より感謝した。

ケ中の阿亀桜
雨中の阿亀桜
内東側に据わる阿亀多福像もそぼふる雨に肩口を濡らしながらも微笑んでいたのである。

異徳箸澆鮖つ阿亀多福像
阿亀多福像
最後に千本釈迦堂の魅力について述べておかねばならない。

千本釈迦堂とは嵐山にある清凉寺(嵯峨の釈迦堂)との区分けにおいての通称で、瑞応山大報恩寺というのが正式な寺号である。清凉寺とならび釈迦信仰の都の中心寺として古来、篤く庶民の崇敬を集めてきている。

ね戝羣埜鼎量畋し造物 国宝・本堂
国宝・千本釈迦堂本堂
その中心となる本堂は洛中で最も古い木造建造物として国宝に指定されている。安貞元年(1227)、鎌倉時代初期に建てられた創建時そのままの本堂は簡素な造りであるが、骨太の堂々とした佇まいが堂内に招き入れられた人々の心を寛がせる。ご本尊の釈迦如来坐像の前に坐り、しずかに手を合わせてみてほしい。心中から世の俗事がす〜っと消え去り、穏やかな気持ちになるから不思議だ。

また、本堂の西側にコンクリート造りの霊宝殿があるが、そこには貴重な仏像が多々、安置されている。

千本釈迦堂・霊宝殿
霊宝殿
わたしが好むのは、それぞれが国の重要文化財に指定されている定慶作の六體の観音像と快慶とその弟子作の十體の10大弟子像である。すべての仏像が一堂にしかもほぼ毀損なく残されているのは非常に珍しく、落ち着いた静謐の館内でじっくりと鑑賞するのは仏像好きの人にとっては至福の時である。
阿亀桜だけでなく、霊宝殿の拝観もぜひ、併せて勧めたいところである。

京都の“割烹やました”で春の珍味・花山椒に遭遇

日中は古刹で櫻花を存分に愛で、宵には“割烹やました”で大将お薦めの料理に舌鼓を打つ。わたしたち夫婦が古都京都をこよなく愛す所以である。

醍醐寺不動堂と桜
醍醐寺不動堂と桜
その京都へ。昨年はコロナの嵐で緊急事態宣言が解除された11月にたった一度訪れたのみである。

2020.11割烹やましたを訪ねる
2020年11月17日にその年、初めてやましたを訪れた
そして、「来年は早々2月に来るね」と大将に堅く約束し、店を後にしたのに、またまた緊急事態宣言で予約したホテルをキャンセル、宣言解除の3月に花見を兼ねて京都行きを決行。

その日“やました”には6時半に予約をいれていた。少し遅れて入店したところ、すでにカウンターは私たちの二席を残して満席。一番手前の席であったが、これはこれで板場の景色が変わって見えて新鮮な経験。

当夜はまずオコゼの薄造りからはじまった。

.コゼの薄造り
ワンパターンになりつつあるが、やはり旨い。

昨年、わたしが体調を崩してから今後、お酒は一合までとこわ〜いお医者様から申し渡された。不満顔のわたしに酒好きでもあるドクターは心中を察してくれて「これからは値段は張っても旨い酒を一合呑めばよい」と、一合呑みの極意を伝授してくれた。

一合の鳳麟を嗜む
そこで、この日も大将お薦めの伏見の酒・「鳳麟」を一合いただくことにした。

一口舐めては、皿に箸を伸ばす。最近はこの振付が板についてきた。つましいものである。

そして当夜は、学生時代からの畏友・Y氏がつい先日、“やました”を訪れた際、うまそうだったとわざわざ連絡をくれた毛蟹を注文。

い笋呂衄味えあった毛ガニ
味噌も含めて美味この上なし。わが家の娘はいつも海老・蟹アレルギー(ものすごく軽いのだが・・・)だと騒ぐ。だから海老・蟹は娘がいないときにしか注文できない。そうだからなのか、猶更、美味しく感じるから不思議なものだ。

ソ佞猟遡・花山椒
手前の緑が花山椒
そして、大将が旬の珍しい花山椒が手に入ったから花山椒鍋を食べろと薦めてくれた。わたしは鍋料理があまり得てではなく、つい逡巡した。すると殺気のようなものを右頬に感じるではないか。そこで隣の家内に目を遣ると春の旬を食すのが通というものとそれを断る気か!とその瞳は糾弾の色を濃くしている。つまらぬ我を通すのも野暮というもの。春の彩、刹那を食すのも良いかと、当夜は注文することにした。

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確か、昆布と鰹節と薄口醤油だったか。上品でシンプルな出汁である。

それから順に具材を鍋に入れていき、丁寧に灰汁とりをする。

最後にメインの緑鮮やかな花山椒をさっと鍋に入れて、素早く小鉢に小分けする。

ゾ鉢でいただく花山椒鍋
出汁を吸い、花山椒ごと豆腐を口にする。山椒と名がついても花山椒の風味はやさしい。小さな春が口腔いっぱいに広がった。

機会があったら是非、京都の春を口腔と目で愉しんで欲しい。

この度、これまでの“割烹やました”の写真を見返していたら、ええ〜っ!!

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2019年4月にちゃんと写真を撮っていた花山椒鍋
二年前の421日に、花山椒鍋を食べていたことが判明。

その時は鶏肉ではなく、牛シャブ花山椒鍋であった。この老夫婦、認知症が始まっているらしい。あぁくわばら!くわばら!

そのころ、ブログをお休みしていた時期で、記憶があまり整理できていなかったのかもしれない。

そして、鍋の最後はさっぱりと素麺で〆め。おいしかった。

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それと、当夜、琵琶湖の珍味、本モロコとならぶビワマスなるものを酒のツマにいただいた。「琵琶湖八珍」と呼称される琵琶湖の固有種のひとつである。

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脂がのってトロリとしているのだが、しつこくなく上品な味わいであった。

さて、料理も最後となったが、従来、やましたは常連客が多く、入れ替えで10時近くまでにぎわうのを常としていた。ところがコロナ騒動になってから緊急事態宣言解除で営業時間が延ばされたというのに、もう8時過ぎにはバラバラお客も席を立ちはじめ、9時前なのに残る客はなんとわたしら夫婦とあと一人ということになった。

こうなると不思議なもので、慣れ親しんだ“やました”でもどうも尻がむずむずしてくる。われわれもそろそろ退散だと席を立ったのは9時ちょっと過ぎである。

木屋町通り 高瀬川沿いの夜桜
押小路橋から高瀬川の夜桜
そして見送りに出てきてくれた大将とお互いの健康を誓い合い、高瀬川の夜桜を横目に見ながらホテルへとそぞろ歩いた。

心地よい夜風が頬をなでて、まだ手を振ってくれている大将の彼方へと流れていった。

2021年京都の桜 醍醐の花見を愉しむ(3月24日)

老い先もそう長くもないわれわれ老夫婦、コロナ禍の緊急事態宣言の間隙を縫って昨年11月の紅葉狩りにつづき、京都の満開時の桜を満喫しておこうと数か月前にピンポイントでホテルを予約した。

‖藐鏤仁王門
醍醐寺仁王門の桜も満開
観桜は紅葉と違い旬の見ごろというのは一週間そこそこである。

だから324日から二泊の宿泊日を前もって定めたのは一種の賭けであった。当れば儲けものといったところで桜花の一輪でも咲いていれば花見ができたということにしようと老妻と互いに納得し合い、ハズレの場合の失望を前もって共有しておいた。お互いに文句は言いっこなしということである。

∋淇發貂に五重塔
下醍醐五重塔と枝垂桜
ということで3月に入ってからというものは、「桜ナビという各地の桜の開花・満開予想を日々伝えているWEBサイトを日に幾度も確認しては「今年の開花は早そうだ」と念じ、その熱意が神様に届いたのか、当初の願いは満開予想日が日毎に前倒しになるにつれ、徐々に期待から確信へと変じていった。

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清瀧宮拝殿脇に立つ豪奢な枝垂桜 この無効に五重塔が隠れている
旅の初日、天気は晴天、京都駅に12時過ぎに到着。駅前にあるホテルのウエルカムラウンジがコロナのため相変わらず閉鎖中ということで、新幹線八条東口の外にある“京都駅八条口・デリバリーサービス”を利用、ホテルまでの荷物の配送を頼んだ。

京阪バス 京都駅八条口のりば
そして八条口前の京阪バス京都醍醐寺線(H4)を利用し、醍醐寺に到着。20年ほど前の2003330日に訪ね、その時はまだ桜の開花には早く一輪の桜も目にしなかったのだが、それ以来18年ぶりの醍醐寺の拝観である。
1
桜に埋まる五重塔
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年前の日付が確かなのは、この醍醐寺で初めて「御朱印」なるものを知り、御朱印帳を購入し、人生最初の御朱印をいただいたからである。醍醐寺から始めた全国を巡る御朱印の旅により、現在の御朱印帖は15冊目に入っている。

  
醍醐寺御朱印 平成15年令和三年 醍醐寺御朱印
平成15年の御朱印       令和3年の御朱印
さて、その醍醐寺であるが、慶長3年3月15(1598年4月20日)に時の天下人、豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催したことはあまりにも有名である。秀吉は家臣の前田玄以に命じて伽藍から醍醐山の山腹まで七百本の桜を植樹させたという。

弁天堂の池に舞う桜吹雪
観音堂の池に舞い散る櫻花
京都の花見は醍醐の花見にはじまり、仁和寺の御室桜(おむろざくら)で終わるともいわれている。此度は都の花見のはじまりを僥倖ともいうべき絶好のタイミングで愉しむことができた。

櫻花に観音堂
櫻花に観音堂
アップした数々の写真をご覧いただくと、青空を背景とした醍醐寺の満開の桜が洛中の人々の度肝を抜いた、あの太閤以来、その豪華さと絢爛さにおいて寸分も衰えていないことがご理解いただけると思う。
清瀧宮本殿
清瀧宮と桜
といっても太閤の花見を観覧したことはないんですが・・・。

まずは京都の一日目。夕方までの四時間弱を醍醐寺のみで過ごしたが、それだけの時間を費やしても下醍醐を一巡できたばかりで、予定していた上醍醐までは足は伸ばせなかった。

醍醐寺不動堂と桜
不動堂に桜
しかし、かねて念願の醍醐の花見が心行くまで堪能出来て老夫婦は満面の笑みでホテルへと向かった。

醍醐寺・仁王門の桜
仁王門への参道
翌日は平野神社の魁桜(さきがけざくら)と千本釈迦堂の銘木、枝垂れの阿亀桜(おかめざくら)を観に行く予定である。そして、当夜の晩餐は昨年11月以来の“割烹やました”で、春を彩る“花山椒の鍋”の馳走にあずかることになり、夫婦して大きな舌鼓を打ったのである。

茶寮・寿庵のわらび餅
寿庵のわらび餅
醍醐寺の境内はあまりに広い。下醍醐の奥に位置する観音堂の池を挟んだ弁天堂の前にお休み処・阿闍梨寮寿庵がある。そこで、一服のほうじ茶とおいしい“わらび餅”は是また美味で、ぜひ大口開けて頬張ることをお薦めしておきたい。
古来、花より団子とはこの事を云う。

古代氏族・忌部氏の精霊が散らす吉良のエドヒガン桜の花吹雪

令和3年3月28日 吉良のエドヒガン桜
徳島県の北西部、吉野川上流の山中に御所神社(美馬郡つるぎ町)というゆかしい名をもつ神社がある。

御所神社(忌部神社
御所神社
阿波忌部(インベ)氏の本貫(根拠地)である当地にその始祖(天日鷲命=アマノヒワシノミコト)を祀ったものである。そもそも忌部氏は、斎部広成(インベノヒロナリ)によって大同2年(807)に撰上された「古語拾遺(コゴシュウイ)」に詳しいが、中臣氏(中臣鎌足が有名)とともに古代大和朝廷の宮廷祭祀を司った一方の旗頭であった。その中央の忌部氏に奉仕していた地方忌部のひとつが麻布や木綿(ゆう)を大嘗祭の際に貢納する役を担った阿波忌部である。

御所神社・拝殿
御所神社 拝殿
そんな往古まで遡る歴史を誇る御所神社であるが、明治初期に延喜式内社・忌部神社の本家争いが当社の東北東18kmの吉野川沿いに建つ山崎・忌部神社(吉野川市山川町)との間で勃発、紆余曲折ののち太政官の調停により徳島市二軒屋町に新たに忌部神社が創祀され喧嘩両成敗の裁定で事が収まるという経緯を持つ。

桜と山崎忌部神社   徳島市二軒屋町 忌部神社
           本家争いが起った山崎忌部神社   徳島市内二軒屋町の忌部神社
現在は徳島市内の眉山中腹に建つ忌部神社の摂社としておさまり、当社鳥居の扁額には「忌部奥社 御
所神社」と記されている。

御所神社 忌部奥社と記された扁額
御所神社鳥居の扁額に忌部奥社とある
そうした人間臭い謂れを持つ古社の社前に樹齢四百年を誇る桜の巨木が立っている。
社前に立つエドヒガン桜
社前小高い斜面に立つ樹齢四百年の吉良のエドヒガン桜
「吉良のエドヒガン桜」と呼ばれ、昭和46年に徳島県の天然記念物に指定されている。

御所神社社前に立つ吉良のエドヒガン桜
今を盛りに枝ぶりも見えぬほどの満開の櫻花(2021年3月28日)
桜の古木は得てして幹こそ太いものの花のつきが悪いものを多く目にするが、ここのエドヒガン桜は花びらの色も雅な桜色で四方に伸びた枝々が隠れるほどに全面に櫻花が咲き誇っている。山腹に立つその様は悠揚として孤高の品格を放っている。

樹齢四百年の吉良のエドヒガン桜
静謐の中に咲き誇る吉良のエドヒガン桜
その日は雨もよいのあいにくの空模様であったが、時折、吹き下ろしてくる山風がエドヒガン桜の今を盛りの花びらを鶯の啼き聲を透き通す嵐気のなかに輪舞させる。

精霊たちの花吹雪 - コピー
精霊たちが踊り戯れ花吹雪を舞わす
わたしはその風韻ただよう小宇宙の中に身をゆだねつづけた。すると、往古、ひたすら祈りの時を刻んでいた氏族の精霊たちがこの春のひととき、花冠を目深に被り踊り戯れている様子が目の前にひろがってみえたのである。

閻魔大王お墨付きの最強のお守り・摺袈裟(すりげさ)を授かった

新年にあたり彦左の正眼の読者の方々にとっておきの福を遍(あまねく)く、お届けしたいと思う。古くから四国霊場第18番札所・恩山寺(おんざんじ)のみが授与してきた『摺袈裟(すりげさ)』という閻魔大王のお墨付きもいただいている最強のお守りである。この万能の効験がこの写真の念力を通じて皆さんの心のうちに宿ることを心から願っている。

18番札所恩山寺の摺袈裟
摺袈裟(すりげさ)
まず、『摺袈裟』の由来について恩山寺の説明書きを下記に転載する。

 

摺袈裟(すりげさ)は別名『袈裟曼荼羅(けさまんだら)』ともいい、僧侶が用いる袈裟の内に梵字(ぼんじ=古いインドの文字)で曼荼羅(まんだら)を書いたものです。摺()るとは「版木で印刷する」という意味で、袈裟とは「僧侶が行住坐臥(ぎょうじゅうざが=一日中常に)身につけるお釈迦さま以来の法衣」です。その袈裟に仏様を表す梵字や有り難い陀羅尼(だらに=仏様の功徳を説いた言葉)を書いたものが摺袈裟です。

所持すれば、陀羅尼の功徳によって患っているいかなる病気も治癒し、滅罪生善(めつざいしょうぜん=悪い事を良い事に変える)の為にはこれ以上の功徳あるもの無し、といわれています。

昔、閻魔大王が『死者が眠る墓にこの摺袈裟を掛け、一週間のあいだ供養すれば死者が蘇る』と説いた事に由来して、古くから、亡くなった人の棺にこの摺袈裟を入れてあげれば、必ず極楽浄土へ往生出来るといわれています。それゆえ、後からご仏壇の中に摺袈裟を入れると亡くなった方の供養にもなります。

なお、この摺袈裟の授与は古くから恩山寺(おんざんじ)のみで行われています。

以上

 

18番札所・恩山寺
第18番札所恩山寺
わたしたちがお遍路を始めたのは今を去ること4年前の閏年の2016年6月10日である。しかも事もあろうに香川県の88番札所・大窪寺(おおくぼじ)から徳島県の1番札所・霊山寺(りょうぜんじ)までを反時計回りで巡礼してゆくいわゆる「逆打ち」お遍路に挑んだのである。

女体山と第88番札所・大窪寺本堂
第88番札所・大窪寺
「逆打ち」は通常の1番から順を追って廻る「順打ち」を何回かこなしたベテラン遍路が挑戦するもののようだが、4年に一度の閏年にはじめる「逆打ち」は遍路道のどこかでお大師さまに邂逅できるうえに色々とご利益も大きいのだという話を小耳にはさみ決断した、今風でいう“ご利益ポイント3倍キャンペーン”みたいな謳い文句にのっかって少々欲深で軽いノリではじめたというのが実際のところである。

逆打ちの由来となった衛門三郎とお大師さま
逆打ちの由来となった衛門三郎とお大師さまの銅像(12番焼山寺の杖杉庵)
その最初の88番札所・大窪寺で納経帖に御朱印をいただいた時、わが夫婦はWHOのいう高齢者の初年兵である65歳に達し、「頼みもしないのにお上から介護保険証なる失礼なものが送られてきた」とブイブイ文句を言っていたころである。

焼山寺・本堂
第12番札所・焼山寺
あれから4年! “綾小路きみまろ”ではないが、ようやく残り10ケ寺のところまでやってきた。本当は2020年の閏年で結願(けちがん)となる心づもりであったが、この4年間、母の介護あり、幾たびもの台風の襲来や豪雨の発生といった自然災害も度重なり、昨年には新型コロナウイルスという人類未曽有の災禍にも見舞われ、計画した旅程はキャンセルにつぐキャンセル、順延に次ぐ順延とまさに「逆打ち」遍路は至難、逆境の行であった。
しかも「歩き遍路」であれば、4年の歳月をかけてといっても、よう頑張ったと褒めてくれる人もいようが、我々老夫婦は当然、「車遍路」である。
道後温泉本館
道草遍路の定番・道後温泉本館
旅行代理店が企画しているツアーであれば14日間で88ヶ所を巡礼するという弾丸ツアーもあるではないか。団体旅行であれば二週間でまわれるものを4年間掛けてまだ結願していない。
多伎神社一の鳥居  多伎宮古墳群
    多伎神社一の鳥居      多伎神社境内奥の多伎宮古墳群
なんとも性根の据わらぬテイタラクぶりであるが、そもそもが“しまなみ海道”も辿ってみたい、多伎神社の古墳群は見ておかねばならぬとか、道後温泉をはじめ温泉巡りは必須でしょとか、ついでに近くの式内社巡りは欠かせないとか道草に時間を多く割いた遍路である。
しまなみ海道
しまなみ海道・大三島の多々羅大橋
「まぁいいか!」と、恬として恥じもせぬこの老夫婦である。でも、本堂と大師堂で二人で必ず声を大にして般若心経を唱えることは欠かさずやって参りました。最初は途切れ途切れであったものが、今ではそれなりに様になりつつあると二人して内心では自負しております。

准胝堂・御影堂の先に根本大塔
結願して高野山へいくぞ! 2018年に下見・根本大塔
そして今年こそ残り10ケ寺をまわり高野山へと考えていた矢先、緊急事態宣言である。まだ予約をいれずに様子見をしていたのが幸いし、予約キャンセルの面倒な手間がはぶけた。

事程左様にこんなふうで、まだまだ結願までには紆余曲折がありそうである。

18番札所恩山寺の摺袈裟
そこで、ここらで、少し、お遍路のご利益を少しお裾分けでもしておきたいと考えた次第。新年にふさわしい摺袈裟(すりげさ)なる最強パワーのお守りをご紹介して、そのご利益がこのコロナの嵐が吹き荒れる丑年に皆さんの心の内に届くように写真を掲載し、駄文を添えたものである。

めでたさも 中くらいなり おらが春

年末の冬至の記事で来たる丑年を「あけましてもおめでたくない」と表現したが、やはり新たな年を迎えるにあたって「めでたくない」と言い切ってしまうのはあまりにも寂しすぎた。

2021年鏡餅と恩山寺・摺袈裟
なにせ箱根駅伝で最終10区の残り2kmのところで、なんと、なんと大逆転劇をみせて、駒澤大学が13年ぶりの優勝を果たした。箱根路217kmを2日間にわたって駆け抜けた若人 (わこうど)たちにとっては「あけましてとんでもなくおめでたい」年がスタートしたのだから。

お屠蘇
そこで新年となって、小林一茶の俳句にひとつ好い句があったので、タイトルに拝借したというわけである。やはり、若人にとっては新たな年というのは、明るく輝いているのが相応しい。しかもかつては、老若男女年齢を問わず一斉に齢を重ねる祝日でもあった元旦は、やはり、おめでたいというのが通り相場である。ところが菅総理は、元旦の年頭所感につづくこの4日、新型コロナ感染者の急増に対処すべく「1都3県に今週中にも緊急事態宣言」を発出する見通しであると表明した。


ということは、箱根駅伝の大逆転劇で盛り上がった祝賀とコロナの緊急事態宣言発出の災禍を足して二で割ると、一茶の「ちうくらい(中ぐらい)」の表現がピッタシであると得心したところであった。
そしてこの新年最初のブログアップは終了のはずであった。


ところが、いろいろと調べているうちに、この句の解釈が「老い先短い身にとっては、正月を迎えるめでたさといってもいい加減なものだが、それもまた自分にふさわしいものではないか」(学研全訳古語辞典)といったことらしいということがわかった。めでたさが「中ぐらい」ということではないというのである。

長野県信濃町柏原 俳諧寺
長野県信濃町柏原の俳諧寺
「ちうぐらい」とは、一茶が生まれ、そして終焉の地に選んだ北信濃の柏原あたりの方言で、「いい加減」とか「たいしたことはない」という意味だというのである。要は、皆んながめでたいめでたいという正月なんぞ、これまでのわが身を振り返ってみればどうってことではないと、少し投げやりな口調で詠った句であるということのようだ。

長野県信濃町柏原 小林一茶終焉の古宅
柏原の小林一茶が終焉をむかえた古宅

そうは言ったって2021年、いくら新型コロナが猛威を振るおうが、いい加減でどうってことのない年であっていいわけはない。何とか「中ぐらい」までには帳尻を合わせたいものだと願うところである。そこで、最後に正岡子規の句を紹介して、新年、丑年の初ブログの〆としたい。


「めでたさも一茶位や雑煮餅」


子規が先の一茶の句を「中ぐらい」と詠みなしてものした俳句である。

 

最後になったが、冒頭の鏡餅に供えた「摺袈裟(すりげさ)」は四国霊場第18番札所でのみいただけるレアもので、「袈裟曼荼羅(けさまんだら)」ともよばれるものである。

18番札所恩山寺の摺袈裟
これを「所持すれば、陀羅尼(仏様の功徳を説いた言葉)の功徳によって患っているいかなる病気も治癒し、滅罪生善(悪い事を良い事に変える)のためにはこれ以上の功徳あるものなし」と紹介されており、遍路人のなかでも「最強のお守り」として珍重されているものである。

そしてこのお守りの功徳はなんと一生続くというのだから、まさに最強、スーパーカリフラ・・・、そう、むか〜しメリーポピンズが“supercalifragilisticexpialidocious”、”スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス“と唱えて周囲を煙に巻いたあの魔法の言葉が脳裡に浮かんでくる。


なんだかこんな時代にはとてもぴったりくるお守り、いや魔法のおまじないの言葉のようなものだと感じたものだから、お正月にあたって鏡餅に添えて飾ってみました。そして皆さんにもこのご利益が一生涯にわたって届きますよう心から願っています。



2020年冬至 それでも、ゆず湯とかぼちゃ!!

とんでもない災禍の年がまずは終わりを告げようとしている。「まずは」と殊更に述べたのは、2020年という一年間はようやくおしまいとなるが、来たる2021年はのっけからコロナウイルスの脅威がおおいかぶさったままで明けて、どこまでこの苦難の道が続いてゆくのかがわからぬという意味合いである。

片倉城址公園の桜
片倉城址公園の桜
「明けましてもおめでたくない」、そんな息が詰まるような時間の流れのなかでも、春になれば桜前線が南から北へと列島を駆けあがっていったし、秋になると紅葉が北から南へ染め下り、山から里へと錦の帯を拡げて見せた。

四国遍路 焼山寺の秋
四国88か所 焼山寺の秋
そんな2020年という不本意な年にも、復活の日はまようことなく決然としてやってきた。


2020年12月21日、冬至の日。


わたしは例年通り、ゆず湯にずっぽり首までつかり、南瓜を大口開けてムシャムシャ食い尽くしてやった。

冬至のカボチャ
細君は夕刻になって柚子を買おうと近所のスーパーにいったのだが、たった4個しか残っていなかったという。悪辣極まりないコロナをぶっ飛ばそうと今年は盛大に柚子を放り込んでと目論んでいたが、他人様も考えることは同じなのか、わが家のゆず湯は数足らずでやや貧相なものとなってしまった。

2020年冬至 ゆず湯
でも物は考え様である。スーパーの柚子がなくなるほどに数多の家庭で柚子の香ばしい薫りを湯屋の窓から解き放ち、列島全体をすっぽり覆いつくしてやったのだと想うと、それはそれで痛快事であり、コロナの悪霊もきっと進軍の足音をひそめざるを得なかったに違いない。

大徳寺黄梅院と興臨院のモミジの饗宴(2020.11.19)

紅葉狩りの京都、三日目は当初、真如堂を訪ねる予定であったが、タクシーの運転手が人込みを見るよりしずかに広縁にすわってモミジがゆっくり鑑賞できるお薦めのところがあるという。

大徳寺黄梅院の門内の紅葉
大徳寺黄梅院の前庭
秋の特別公開がされている大徳寺の黄梅院のモミジが見事だというのである。写真撮影は禁止だが、すばらしいところなので、ぜひ、行くべしと云うではないか。そこで車は急遽、方向転換、紫野の大徳寺へと向かった。

大徳寺総門   大徳寺 境内図
大徳寺の総門          大徳寺境内図
大徳寺の総門へ着くと、入ってすぐに黄梅院があった。織田信長、豊臣秀吉、小早川隆景、蒲生氏郷、千利休といった戦国時代の錚々たる人物ゆかりの塔頭だという。
大徳寺黄梅院
黄梅院塔頭の山門
撮影禁止のため門内の一区画のみの写真にとどまるが、
大徳寺黄梅院 秋の特別公開
モスグリーンの苔を這わした前庭の頭上に錦のモミジが織りなす景観を目にしただけで境内の紅葉の華やかさを想像させて心は躍った。

大徳寺黄梅院 梵鐘にもみじ
黄梅院前庭 梵鐘ともみじ
千利休の造営とされる、野趣あふれた“直中庭”(じきちゅうてい)をぬけて方丈の広縁へ向かう。そこに広がる「破頭庭」をめぐる築地塀の外側、西方に楓の巨木がそびえたっている。わたしたちは誰もいない広縁に腰を落とし、日向ぼっこをしながらその豊穣の葉叢が織りなす紅や黄のもみじのグラデーションを心ゆくまで愉しんだ。

秋天にもみじ 大徳寺黄梅院
秋天の青に紅色 黄梅院前庭
吹きわたる風のそよぎと秋の陽光のいたずらで、真っ青な秋空を背景に黄金色と紅色(くれないいろ)の小世界はめまぐるしく映像をコマおくりして観る者の目を飽きさせることがなかった。これはいくら言葉を尽くしても、観るに如かずとしかいいようのないアートである。

庫裡と紅葉 大徳寺黄梅院
黄梅院庫裡を覆うモミジ
さてこの絢爛の色モミジを鑑賞したあと、同じく特別公開中の近くの興臨院へと向かう。
大徳寺興臨院 秋の特別公開
大徳寺・興臨院 秋の特別公開
こちらは写真撮影可ということで、腕を撫して院内へ足を踏み入れた。
大徳寺興臨院 門内前庭
興臨院門内前庭
こちらも特別公開するだけあって見事な紅葉である。方丈前の枯山水は簡素で楓の木も庭の片隅にひっそりとたたずんでいる。白と紅と青の世界が清々しい。

興臨院 中根金作修復の枯山水庭園
方丈の南に枯山水の白沙の庭
ところが方丈の北側へ回廊を回り込むと、一転、南庭の画然たる色合いとは異なり、紅や黄色に緑の水彩絵の具を刷いたようで、その綾なす色模様に一瞬にして魅入られる。
大徳寺興臨院 モミジ
方丈北庭の陰翳
秋の光芒は南庭に雪崩れるようにして注ぎこみ、白沙の乱反射に双眸を細める。
興臨院 南庭
ところが一旦方丈の北庭へ廻り込むや、一面、苔色の地衣類に覆われた湿潤な土壌に楓の木々が枝葉をのばす。大きな軒先に遮られた秋の日差しは、ひかえめな陰影を随えて色モミジを照らす。
秋の風情 興臨院北庭
秋天のもとの溌剌とした色もみじとは一味違う、しっとりとした秋の風情である。

誰もいない海 日和佐・大浜海岸

阿波の薬王寺のお遍路の途中、晩秋の誰もいない海で憩う。

晩秋の大浜海岸
海亀が産卵のため上陸してくる海岸として有名な日和佐の大浜海岸である。

日和佐の海
その日は秋の日差しも心地よく、浜辺を吹きわたる風が古希をむかえる老夫婦の乾いた頬を和毛で刷くように柔らかくなでてゆく。

日和佐 大浜海岸
遠くに時折子供の歓声が聞こえてくるが、打ち寄せる波音にすぐにのみこまれてはあとに潮騒の音色だけが残響としてのこるだけである。



ウミガメを待つ海辺
とてもしずかで妙に人懐かしくなる晩秋の海辺の情景である。

秋の海 グラデーション
もうすぐ新しい年がこの浜辺にも新たな足跡をきざみにやってくる。


京都・嵐山の松籟庵(ショウライアン)で評判の湯葉コースでランチ

亀山公園(嵐山公園亀山地区)のなかに位置する松籟庵(ショウライアン)で昼食をいただいた。松籟庵の建物は近衛文麿元首相の別邸と呼ばれ、現在は豆腐の懐石料理で有名な料理屋となっている。

松籟庵の玄関
場所が公有地の公園内とあって、タクシーで行けるのは嵐山吉兆までで、そこから桂川(保津川)沿いに川縁の小径を上流へとそぞろ歩いていくことになる。

保津川沿いにつづく遊歩道
松籟庵までは距離にして500mほど、ほんの6、7分の散策となるが、時季は紅葉の季節である。
保津川下りの舟の船着場
遊歩道の途中、保津川下りの船着場や茶屋があり、11月とは思えぬ暖かさとも相まって旅人気分は全開となった。自然に行き交う人々とマスク越しに「こんにちは」とあいさつを交わすことになる。

松籟庵の案内板を掲げる茶屋
松籟庵の看板を掲げる小さな茶屋はまとまった時間がとれないときには、軽食のサービスもあるので店内の席から嵐山の風情を楽しみながらランチをとるのも一興だと感じた。京都通の嵐山隠れスポットとでもいってもよいか。

保津川と嵐山ともみじ
茶屋を過ぎてしばらく進むと、保津川に張り出した楓の葉叢から保津川下りの舟や遊覧船が顔をのぞかせて、のどかな嵐山の秋景色が満喫できる。

もみじ越しにボートや遊覧船がみえる
そんななか、突然、船頭が嵐山に響き渡る大声を発した。鴨の一群が我先に餌をまく船頭めがけて飛来する。大道芸ならぬアクロバティックな大河芸に鴨の羽音のなか船客が一斉に、そう全員が腹の底から快哉を叫ぶ。コロナ感染騒動の状況下、わたしはそんな光景に今年はじめて出合ったなぁと、思いっきり愉快な気分になった。

保津川下り 船頭が鴨を呼び寄せてみせる
さて、遊歩道の突き当りにぶつかると、右手に折れて自然石の石段がのぼっている。

保津川遊歩道の突き当りから松籟庵への石段
そこを上った先、左手に松籟庵の看板が立つ。
松籟庵看板 小径を入っていく
その看板を左に折れ細い砂利道をゆくと十段ほどの石段を下りたところに玄関がある。

砂利道を下った先石段を
当日は予約客でいっぱいで玄関で断られているお客もいたが、幸い当方は事前予約をしていたので、安心して案内を請うた。導かれた席は保津川と紅葉を間近にみながら食事ができる窓際の一等席である。

奥の窓際の席でいただきました
予約したコースは最近メニューに加えられた評判の“松籟の湯葉コース”(税別4600)

昼食のメニュー 松籟湯葉コース(税別4600円)
以下写真でご紹介するが、盛り付けが美しく整っているだけではなく、味付けも上品に仕上がっていた。

ボリュームたっぷりの八寸
ボリュームのある八寸
表現が少々失礼にはなるが、観光地でよく出会う形ばかりを懐石風に似せたまがい物とは異なり、気の利いたミニ懐石料理であるといってよい。

先付け(雪塩添え豆腐・梅酒)
先付け(雪塩添え豆腐)
次に料理の品をいくつか紹介しておく。どれもとてもおいしかったので。
樋湯葉の揚げ物  揚げ出し豆腐
樋湯葉の揚げ物           揚げ出し豆腐
当日のメニューのなかで創作料理と謳われているものは書画家で女将の小林芙蓉氏の作品をテーマにつくりあげた一品だそうだ。

女将の秋の紅葉を題材にした作品
料理のテーマとなった小林芙蓉女将の作品
豊穣の秋と紅葉をイメージしたものだろう、味覚のみでなく視覚でも料理を味わい尽くせるアーティスティックなひと皿であった。

収穫の秋 朴葉にのせた創作の一品
秋の創作の一品
かくのごとく和建築の室内を飾る見事な書が懸かる部屋で、窓外にもみじと保津川を眺めながら、次々繰り出される洒脱な料理に舌つづみを打つ。

窓越しに保津川と紅葉
なるほど松籟庵には大人の心をくすぐる贅沢な時間が用意されているのだと感心したところである。

湯葉のしゃぶしゃぶ   湯葉のしゃぶしゃぶ鍋
湯葉のしゃぶしゃぶ
これから嵐山を訪ねる際には、時間に余裕をもってぜひこの松籟庵で食事をとられることをお勧めしたい。

松籟庵の書
そして、お腹がいっぱいになったのちには、公園内の展望台にまで足を運んでほしい。後日、ブログにアップする予定だが、対岸の山腹に大悲閣千光寺を見晴らし、眼下に保津川下りの舟を見下ろし、タイミングがよければ渓谷を走るトロッコ列車の姿をみることができる絶景スポットなのである。
嵐山・大悲閣千光寺   嵐山・星野リゾートを見下ろす
渡月橋から見るありきたりの景観とは趣を異にする嵐山の景勝にふれて、あなたは嵐山のちょっとした通になったと感じること請け合いである。

常寂光寺 黄葉が紅葉に色変わり(2020.11.18)

楓のなかに常寂光寺仁王門
常寂光寺仁王門
嵯峨野の落柿舎を正面に望むところに瀟洒なお店がある。京あられの老舗、小倉山荘という。
晩秋の嵯峨野落柿舎
小倉山荘から落柿舎をみる
そのHPに「一期一会」という山本雄吉社長の対談集が連載されている。そのなかに万葉の時代には“もみじ”は中秋の萩を詠い「黄葉」と表記されていたものが、藤原定家が新古今和歌集や小倉百人一首の編纂を通じて、晩秋の楓の「紅葉」へと読み替えて、“もみじ”をもののあわれを感じる晩秋の色彩へと変じさせたとの興味深い話が紹介されていた。     

京あられのお店 小倉山荘  小倉山荘 あられお土産(冬おぐら山春秋&山椒あられ)

京あられ老舗の小倉山荘 おぐら山春秋・山椒あられ
日本の秋を彩る代表的な色を黄から紅へと転じてみせたのが藤原定家だというのである。万葉集には180首の“もみじ”の歌が載るが、その表記は「黄葉」あるいは「毛美知」となっている。「紅葉」の文字を使っているのはたったの1首なのだそうだ。

常寂光寺 紅葉に隠れる仁王門
山門から仁王門へ
小倉山荘から百メートルほど歩いた小倉山山麓に常寂光寺はある。
常寂光寺 仁王門に紅葉
紅葉のなか仁王門
紅葉と白壁のコントラストの美しい仁王門から石段をまっすぐにのぼった高台に本堂が建つ。
常寂光寺 本堂と紅葉
本堂
さらに妙見堂との間の山路をのぼっていくとひっそりと立つ小さな石碑にぶつかる。定家が小倉百人一首を編んだ“時雨亭跡”と刻まれている。

ひっそりと立つ時雨亭跡石碑 常寂光寺
時雨亭跡の石碑
時雨亭跡は近くの二尊院や厭離庵もその名があがるが、小倉百人一首が完成した八百年前、すでに嵯峨野一帯が楓の紅葉で有名であったことがうかがわれる。

二尊院・時雨亭跡から嵯峨野の紅葉を俯瞰   厭離庵の紅葉
二尊院時雨亭跡から嵯峨野を見下ろす  厭離庵の黄葉(共に2017.11.30撮影)
常寂光寺の境内にはひしめきあうように楓の木が植わっている。紅色の世界が広がる境内で、鐘撞堂近くに一本の鴨脚(いちょう)の大樹がそびえたつ。
常寂光寺 黄葉と紅葉の競演
万葉と平安の競演
その一画だけは黄色の小世界が息づいているようで、萩が鴨脚の木に代わってはいるものの、万葉の黄葉と平安の紅葉が相寄り添うて時代の色彩を競い合っているようにも見えた。


大覚寺・大沢の池 秋景色は一幅の絵画(2020.11.18)

京都二日目はわが老夫婦にしてはめずらしく朝も早い?八時半にホテルを出立。一路、嵯峨野の大覚寺を目指した。9時直前に明智門前に到着、開門と同時に清冽な空気に満ちた宸殿大玄関へ一番乗りを果たした。

大覚寺・明智門  大覚寺・表門
明智門              大覚寺表門
嵯峨野は東山よりも冷え込みがきつく、紅葉も進んでいるのだろうと思って訪ねることにしたが、2020年は東山の方が、もみじの色づきが早く発色もきれいだとのタクシー運転手の証言を車内で耳にしたとおり、大覚寺境内の紅葉も11月18日現在ではまだ盛り前というところであった。

大覚寺・御影堂 安井堂から
大覚寺の御影堂
大覚寺は十数年前に訪れたのが最後で、久しぶりの拝観である。宸殿から御影堂、安井殿、大沢の池を一望する五大堂と、それらを折れ曲がってつなぐ村雨の廊下。時代劇の映像で一度は目にしたことのある光景が眼前に展開する。

村雨の廊下から紅葉もチラホラ
村雨の廊下からチラホラと紅葉を観る
宸殿の広縁や村雨の回廊から色づいた紅葉がチラホラ見えて嵯峨野の秋もこれから深まってゆくのだろう、本格的な紅葉狩りには今一歩のところである。11月の下旬から12月上旬にかけてが、大覚寺・大沢の池の秋を愉しめるよい頃合いだと感じた。

宸殿・襖絵
大覚寺・宸殿の襖絵
そこで、これまで大覚寺の拝観はしても時間の関係で省いていた大沢の池の回遊に今回は挑戦してみた。
大沢の池 天神島の紅葉
大沢の池 天神島の紅葉
まずは、小倉百人一首・第55首の“滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ” で有名な“名古曽の滝”を目指した。歌が詠まれた千年前、既にこの滝は枯れていたことになるが、この和歌によって永遠の名声をこの世にとどめることになった。滝そのものは石組みを当時のまま伝えるのみで、千年のときを枯滝のまま過ごしてきたという奇妙な顛末となっている。ようやく名古曽の滝と対面がかなったものの、その滝石の造作に千年の風雪や風雅をしのぶ縁(ヨスガ)など一片も認められず、潔いまでになんの変哲もない石組みであったのは、時を超越して一切の感傷を拒絶しているように思えて、逆に痛快ではあった。

色づきはじめた紅葉のむこうに名古曽の滝
中央の石組みが名古曽の滝
その名滝をあとにして、大沢の池の東岸をなぞる紅葉の回廊へと足を向けた。堤の両端にはもみじの樹々が植えられ交錯する葉叢によって紅葉の隧道ができている。
大沢の池 もみじの隧道
大沢の池 もみじの隧道
まだ青紅葉が多いものの、一部に色づくもみじ葉が最盛期になれば土手道いっぱいに朱色の日差しをおとし、そのさまはさぞかし美しかろうにと、感じた。

大沢の池 秋景色
大沢の池の秋景色
また、樹間から大沢の池越しに見る大覚寺や紅葉の回廊を遠望すると、それはもう嵯峨野の秋の静寂を十分満喫できる一幅の絵画であった。


いよっ!! もみじの永観堂(2020.11.17)

“奥山の岩垣もみぢ散りぬべし照る日のひかり見る時なくて”

永観堂多宝塔の黄昏
この古今集の収録歌はいまから1200年ほど昔に永観堂の地に建っていた山荘を彩る紅葉を詠じたものである。爾来、洛中近境のもみじの代表的景勝地として“もみじの永観堂”とながく呼び習わされるようになった。

永観堂門前で息をのむ紅葉の競演
永観堂(禅林寺)は平安時代の初期、弘法大師の弟子真紹により藤原北家の公卿、藤原関雄の旧宅を譲り受け開基された。先の和歌は秀才の試験(中国でいう科挙)に合格した関雄が官途を厭い琴歌酒賦(キンカシュフ)の日々をすごした山荘から見た紅葉を、わが身の行く末に重ねて詠ったものだという。

紅葉トンネルの石橋
そんな奥ゆかしい由緒をもつ永観堂とは露知らず、わたしはこれまで、「もみじの〇〇」なんぞと称されるところなど俗臭ぷんぷんたる雑踏を見に行くようなものと嘯(ウソブ)き、足を遠ざけていた。

ところが古希を目前にし、わが人生を顧みることが多くなった。そして思ったのである。わたしの人生、スノッブそのものじゃないかと。そんなら、残り少ない時間をスノビズム礼賛で駆け抜けてみようじゃないかと。ひらきなおりの人生とでもいうのだろうか、肩が軽くなったような気がするから不思議だ、誰も見ていないのに・・・笑止である。

満艦飾の永観堂境内
という次第で、初めてもみじの永観堂なるところへ足を踏み入れてみた。門前に立った。山門に差し掛かる紅葉だけで心が震えた。

永観堂 甍越しにもみじの色模様
境内に植わる紅葉は三千本を数えるというではないか、そう聴いただけで眼前に紅蓮の炎は大袈裟にすぎるが、ひと筋の緋毛氈がす〜っと横にながれていったような気がしたのである。

息をのむ永観堂のもみじ
境内に歩を進めてゆくにつれ視界に映る紅葉の占める程合いは弥(イヤ)増しに増す。そして黄昏時へむかって秋のつるべ落としの光芒は三千本のもみじ葉に時の移ろいを燈(トモ)してみせ、色もようを赫々(カクカク)と滑らして大向こうを唸らせた。まさに千両役者の貫禄で“もみじの永観堂”を見事に演じきってみせたのである。

永観堂紅葉狩りの人々
境内に参集する観衆はカメラ片手に、「あの多宝塔のところ、綺麗ですよ」と、こみ上げる感動を伝えたくて、傍らの見知らぬ人につい声をかけてしまう。語りかけられたわたしも、つい、「あそこの紅葉も夕日に映えて美しい・・・」と、昼日中であればとても恥ずかしくて口に出せぬ言の葉で応じていたのである。

永観堂多宝塔 秋景色
黄昏時にしか訪れぬ面妖な永観堂の紅葉狩りのひとコマであった。
いよっ! 永観堂!

2020年京都の紅葉狩り 洛北・圓光寺の額縁に映える紅葉(2020.11.17)

コロナ禍のなか遠出は控えようと自粛三昧の日々を過ごしてきたが、秋の訪れとともにどうにもこうにも辛抱できず今年初の京都への旅を紅葉狩りとしゃれこんでみた。紅葉真っ盛りの京都を訪ねるのは久しぶりである。

圓光寺 竹林のむこうにもみじ模様
圓光寺 竹林ともみじ
ピーク時に訪れても観光客の頭頂を拝観させていただくだけで京(ミヤコ)の風情も情緒もあったものではないと永年にわたり避けてきたが、老夫婦に残された時間はそれほどないのだと悟ることこれあり、晩秋の京都を二泊三日で訪れた。

大原・宝泉院 額縁におんな
大原・宝泉院 額縁におんな(2003.12)
初日は最近、人気の紅葉スポットとして脚光を浴びる洛北の圓光寺へ向かった。HPに拝観前には事前に拝観予約を入れてからとあったので午後2時からの予約を取っていた。
予約なしの拝観可能だった圓光寺
予約無拝観可の看板(写真のどこかに💛印が・・・)
ただ当日は平日で人数制限の1時間当り300名という拝観者数に達していなかったのだろう、予約なしでも拝観は可能であった。

圓光寺 境内を彩る紅葉  圓光寺定番の子地蔵ショット
圓光寺境内               定番の小地蔵ショット
さて、わたしも初めての拝観となる圓光寺であるが、京都大原に名高い宝泉院と趣向を一にして、座敷奥に坐り縁側越しに額縁を覗き込むように紅葉を観るのだというではないか。そこで、いの一番に本堂にあがり額縁庭園を眺めることにした。この日は自由に拝観できるくらいだから・・・人はすくな・・い・・・と高をくくって座敷に足を踏み入れ・・て・・・。

圓光寺 額縁庭園ブログ2
それが・・・なん・・・なんと目に飛び込んできたのは・・・座敷奥に坐りこむ人、人、人・・・、それに縁側に坐りこむツワモノまでいて・・・千牛之庭(センギュウノニワ)に色づく紅葉が零す幽(カソケ)き聲に聴き入る静謐とはほど遠いものであった。

額縁庭園の実態は?
そういうことなら・・・自慢の腕で傑作写真をとタイミングをはかるも、視界を過ぎる人影の連鎖・・・シャッターチャンスは訪れない。そんななかわずかに巡ってきた刹那、デジカメのシャッターを切る。室内に一斉にとどろくシャッターの連写音・・・。

圓光寺 額縁庭園ブログ4
慌てていたので、額縁がない・・・
その彦左の手練れ?の写真が緋毛氈と縁側と軒先の構図に嵌まる圓光寺のもみじである。構図がいま一、いや、いま三ではあるが・・・人の映り込みを避けアングルを工夫したその苦労をくみ取って欲しい・・・。

額縁庭園ブログ1
軒の庇と縁の柱・・・額縁完成!!
額縁に映る紅葉を摘まみ食いのように玩味し尽くしてからようやく千牛之庭へおりた。こじんまりした庭園をぬけて裏山へ上る。中腹に当寺を創建した徳川家康の歯を埋葬したお墓がある。傍らには東照権現のお堂が祀られていた。
圓光寺開基の徳川家康の墓(歯を埋葬)
徳川家康の墓
そこからは境内のもみじ模様が眼下に見下ろせ、ところどころに紅葉を配する洛北の街も一望できた。

境内の紅葉模様
初めての圓光寺はまずはこんなものか。そして、次に紅葉の時季に来られる機会があれば70名限定の7時半からの早朝拝観を事前予約して紅葉を独り占め、いや、70人占めにするのも一興だと思ったところである。




 
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