5日、日本サッカー協会(JFA)の川淵三郎会長(キャプテン)がロイターのインタビューに対し、「中田英寿はチームのほかの選手と意思を通じさせることができなくなっていた。彼はW杯で持てるすべてを出したが、無視されていた部分もあった。彼自身、どうやって意思疎通させていいか分からなくなっていた」と語った。(ロイター)

 

Wカップドイツ大会の一次リーグ最終のブラジル戦で、試合終了後、ピッチに仰向けに寝転がり、天を仰いで涙をこらえようとしていた中田英の姿が、まざまざとまた私の瞼に浮んできた。

 

つねに「天才は孤独」「先駆者は愚かな民に排斥(ハイセキ)される」と言われるが、川淵キャプテンの言葉を聴いて、わたしは二つの意味で悲しみといおうか、この日本人のどうしようもない狭量さに愛想がつきてしまった。

 

ひとつは、Wカップ日本代表の選手たちについてである。彼らは当然、プロである。勝つことを求められているサッカーのプロフェッショナルである。勝つために何が必要で、そのためには何をしなければならぬか、何を我慢し、やってはならぬかを熟知していたはずである。

 

だが、彼ら(英を除く代表選手)はプロではなかった。プロフェッショナルとして当然やるべき、勝利という目的へ達成するやらねばならぬことに、子供じみた個人の感情を持ち込んでしまった。世界の最高峰の選手が集うWカップで、「組織の勝利のために個を殺す」ことは、当たり前すぎるほど当り前のことであろう。個人的嫌悪感や感情を殺して、強力なリーダーシップの人間の下で結束せねば、トップレベルのチームに勝利など覚束ない。現に、ドイツ大会は日本代表は赤子の手を捻られるようにして惨敗した。

 

川淵キャプテンの話を聴いて、選手間に予想以上の感情の亀裂があったことに、この代表選手たちの子供じみた心の狭量さを感じた。勝つための鉄の意志。こんな言葉・心持ちは日本のプロスポーツ選手にはまったく持ち合わせようのない、哲学的精神なのであろう。技術がどうこうの前に、精神的な闘う者としての成熟度が、あまりに低レベルであると言わざるを得ない。これはサッカーのみでなく、野球やほかのスポーツでも当てはまる。TVでちょっと持て囃されて一流になったと勘違いする。その程度のやわな精神構造で世界で通じようと考えることが甘え以外の何ものでもないのだろう。

 

もうひとつは、この発言をしゃーしゃーとして恥じぬ川淵キャプテン以下日本サッカー協会の面々たちの、どうしようもない無能力さである。気がついていたのであれば、人事権、資金などまさに協会が合法的に有する権限で、結束力欠如の要因排除に縁の下で最大限の努力と工夫をするのが、役員、指導者たるものの最も大切な役割ではなかったのか。まるで評論家、部外者のように語る人に、今後の日本のサッカー界を任す気にはならぬし、この人たちが居座る限り日本サッカー界に将来はないのだと思う。

 

中田英は、日本に戻ってくるのだろうか。帰ってくる必要はない。こんな狭量で、無責任な国など強靭な精神力を身につけた彼なら捨て去ることができる。そのほうが彼の持てる力、サッカーに限らず素晴らしい才能を存分に発揮し、世界に貢献することができると強く思った。