彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

龍馬伝

龍馬伝、京都を歩く

龍馬伝、長崎を歩く


京都のロケ地めぐり 1 =鴨川の飛び石

京都のロケ地めぐり--- 2 = 巽橋・白川一本橋(行者橋)

京都のロケ地めぐり--- 3 =法観寺(ホウカンジ)・八坂の塔

京都のロケ地めぐり―――4=南禅寺水路閣


  つい先日、福山雅治扮する坂本龍馬が京都河原町の近江屋で暗殺され、NHK「龍馬伝」は最終回を迎えた。


昨今の不甲斐ないわが国の政治情勢を見るにつけ、この維新の時代を駆け抜けた龍馬をはじめとする青春群像は、あまりにまぶしくわたしの目に映った。そうした想いもあってこの八月に長崎を訪れた折に、龍馬ゆかりの亀山社中や長崎奉行所などを訪ね歩いた。


長崎・亀山社中前の龍馬ブーツ像


そして最終回を迎え、龍馬が勇躍闊歩し最後に凶刃に倒れた京都を訪れ、ゆかりの地を歩いた。


同郷の土佐人で神戸海軍操練所からの龍馬の友でもある望月亀弥太が遭遇した池田屋事件の跡地を訪れた。三条小橋の旅館池田屋の跡地には、かつてのパチン店が閉鎖となり、今では居酒屋チェーンの海鮮茶屋「池田屋はなの舞」が後を襲い、池田屋の名をこの地に復活さていた。その店内には、幕末ドラマで誰しも一度は目にしたことのある「池田屋階段落ち」の8メートルの階段もご丁寧に設けられているという。


池田屋の跡・居酒屋「池田屋 はなの舞」


池田屋騒動の石碑と説明書き


池田屋正面


その池田屋のすぐ近く百数十メートルほど東に、東海道五十三次の西の起点となる三条大橋がある。


東海道五十三次の起点・弥次さん、喜多さんの銅像


欄干の二つ目の擬宝珠に池田屋事件の際に付けられたといわれる刀傷が残っている。その刀傷は大きく切れ込み、当時の時代の騒擾を今に伝えるようである。


擬宝珠に池田屋騒動の際の刀傷が


次いで、海援隊の京都における活動拠点である「酢屋」を訪ねた。「酢屋」は享保6年(1721)に屋号「酢屋」として創業した材木商である。当主が土佐藩出入りの商人であったことから、その二階を海援隊に提供し使用させた。「酢屋」はその後「千本銘木商会」と社名を変えながら現在も10代目当主の中川敦子千本銘木商会社長のもとで同じ材木を商う事業を営んでいる。


酢屋外観


坂本龍馬寓居の跡・石碑


 当日は生憎開館前(ギャラリー開館:11:0017:00)に訪ねたため内部を拝観できなかったが、二階部分を「龍馬の部屋」として当時の姿に再現しているという。「酢屋」は今回廻った龍馬ゆかりの地のなかで唯一幕末維新を偲ぶことのできる建造物であった。現在は隣地が駐車場となっているため、横から建物を眺めることができる。京都特有の間口が狭く奥行きの深い敷地の上に細長く「酢屋」が建っていることがよく分かる。


京都特有の間口が狭く、奥行きの深い構造


最後に龍馬終焉の地である醤油屋「近江屋」の跡地(
中京区河原町通四条上ル)を訪ねた。人通りの多い場所であり、歴史を偲ぶものはと言えば、ただ「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地」の石碑が立つのみである。跡地には当世を象徴するコンビニが建っている。自分の終焉の地のこの変わりように、龍馬もおそらく草場の陰で苦笑いしていることだろう。写真を撮るのも忙(セワ)しない、そんな当世絵図であった。



いまも龍馬暗殺の地に花が手向けられている


近江屋跡に建つコンビニ


前を走る河原町通り


 また龍馬が足繁く通ったであろう長州藩邸の跡地が、宿泊先の「京都ホテルオークラ」が建つ場所であったことに、今回の旅の不思議な縁を感じたものである。ホテル前に龍馬の盟友桂小五郎の銅像が建っていることも今回初めて知った。

長州藩邸跡に建つ京都ホテルオークラ



桂小五郎の銅像


龍馬伝、長崎を歩く

龍馬伝、京都を歩く



長崎奉行所(長崎市立山1-1-1

亀山社中(同伊良林2-7-24

グラバー邸(同南山手町8-1

 

 福山雅治主演のNHK大河ドラマ「龍馬伝」も、最終回の1128日(第48回)まで残すところあと2ヶ月となった。914日の長崎往訪中に、龍馬ゆかりの地を歩いた。まだまだ猛暑が続く日々であったが、さすがに龍馬伝効果であろう、ゆく先々の人出は多かった。

 

 まず、龍馬が薩長連合に動くなか、龍馬に厳しい探索の目を光らせた幕府の長崎奉行所立山役所を訪れた。

 


長崎歴史文化博物館・長崎奉行所跡地に立つ。奉行所も復元


館内に入ると龍馬像(左)と岩崎弥太郎像が立っている


龍馬と長崎奉行所に関わる展示がされている 

 

 

現在は発掘作業も終わり、江戸時代の奉行所の姿が、残された図面に沿って復元がなされていた。この奉行所には、イギリスのイカルス号乗組員が殺害された「イカルス号事件」で、海援隊士の関与を疑われた際に、実際に龍馬が訪れたという。もし、龍馬らが捕縛されていたら取り調べを受けたであろうお白州なども館内に復元されている。

 

長崎奉行所のお白州復元
お白州も奉行所内に復元されている 

 

 立山役所の正門も当時の石段や石組みを出来るだけ使用し、精確に再現されていた。

 

 

旧長崎奉行所立山役所の正門へ・古い石組は発掘された遺構を利用


正門下の防火用水用溜池遺構
正門前の防火用の貯水池

井戸の復元
階段わきの井戸

奉行所の石垣遺構を組み込み復元
階段脇の石垣・遺構を利用


長崎奉行所正門階段
幕府の権威を感じさせる正門階段


 

正門より表玄関を・龍馬もこの門をくぐり入って行ったのだろう 

 

 

写真で見て、変色した部分が発掘された遺構が残された部分である。建物全体や正門の威容を見るに、幕末とは云え、想像していた以上に徳川幕府の威厳は無視しがたく、強大なものがあったと実感した。

 

海援隊時の龍馬の署名文書
大洲藩の帆船購入の保証人に才谷楳太郎の署名が
才谷は龍馬の変名 

 

 

そして、土佐の一介の脱藩浪士がその幕府を倒し、新たな時代を築こうと、その大望に向かいひた走った若者たちがいたことが、途轍もないことだったのだなと感じたものである。

 

 次に、亀山社中を訪れた。眼鏡橋から中島側沿いに上流に500m、大出(オオイデ)橋を山手方向に渡ってゆく(その日は一本手前の編笠橋を渡った)。

 

編笠橋の石柱
編笠橋石柱

編笠橋
元禄12年(1699)に架けられた編笠橋(S57二回目の架け直し) 
  

 

禅林寺と深崇寺の間の「龍馬道り」と名づけられた幅の狭い階段道を登ってゆく。

 

龍馬通りの石柱
通りの入り口に立つ石柱

亀山社中案内板
龍馬通りの入り口案内板


  

この細い坂を210m登る 

 

 

亀山社中跡まで210mと案内図にあった。結構、勾配がきついが、その途中に海援隊の隊士の紹介が順次なされるなど、休憩をとりながら登る工夫もされている。

 

龍馬通りの途中に隊士の紹介が
陸奥宗光の紹介・途中にいくつもこの看板がある 

 

「龍馬茶屋」というここ23年前に出来た店でラムネを呑んだ。

 

龍馬茶屋案内
龍馬茶屋の立て看板 

 

 亀山社中は外見は普通の一軒家で、表から海援隊の紅白の旗「二曳(ニビキ)」が見える。

 


 

小さな一軒家が亀山社中

亀山社中門
社中跡の石碑


階段を昇り、建屋内へ

門前の守衛さん
門前階段で社中を守っているのか・・・ 

 

 

屋内は狭く、ここに社中の20数名が住んでいたとはにわかに信じがたい。10畳の座敷?には、今は、月琴やブーツなど龍馬ゆかりの品が飾られていた。 

 

旅行者には、ボランティア・ガイドの男性が説明をし、月琴を抱えた記念写真を撮ってくれていた。室内が狭いうえ、見学者が多く、その撮影の間、その10畳の部屋でゆっくりすることが難しく、やはり、龍馬伝が終了し、静かになってからできればもう一度、行くのがよいと感じた。

 

 社中の門を出て、右手に数メートル行った場所に、「龍馬のぶーつ像」なる変わったモニュメントがある。亀山社中創立130年を記念して建立されたものである。

 


 

龍馬のブーツ像 

 

どの見学者も皆、そのブーツに足を入れて記念写真を撮る。なにしろ、変なモニュメントだから、つい、写真を撮ってしまう、哀しい人間の性(サガ)ではあった・・・

 

 龍馬伝の最後は、グラバー邸である。

 


 
グラバー邸



グラバー像
 
邸内にあるグラバー像

 

かなり昔に行った時には、こんなではなかった。邸内にエスカレーターあり、ビヤガーデンあり、さらには明治村よろしく旧三菱第2ドックハウスや西洋料理屋旧「自由亭」など、明治時代の建物が移築され、テーマパーク化していた。

 


  

旧三菱第二ドックハウス

三菱第二ドックハウスの二階バルコニーから
ドックハウス二階バルコニーから

三菱第二ドックハウス一階回廊
ドックハウス回廊 

 

まぁ、色々あった方が旅行者にしてみれば、一挙に見学できるので便利と云えば、便利だが、かつての豪商ならではのグラバー邸の佇まいを記憶している者にとっては、ちょっと、豪商らしからぬ小賢しい商人(アキンド)の邸内のようで、少々、気落ちしたものである。

 

整備された広い邸内
整備された広い邸内

  

グラバー邸

ダイニングルーム
邸内の食堂


前庭よりグラバー邸を

グラバー邸前庭
邸内より前庭を 

 

 ただ、グラバー邸室内の天井裏の隠し部屋を目にした時には、幕末の緊張感や徳川幕府というとてつもない権力に立ち向かった龍馬や高杉晋作の勇気と度胸が、ストレートに胸に迫って来た。やはり、時代は「若者」が変えてゆくのだと感じた次第である。

 

天井の隠し部屋
天井裏の隠し部屋・夫人の部屋に入り口があるという
 

 

 坂本龍馬という若者が幕末という時代に顕れ、何の肩書もない一介の脱藩浪士が窮地に陥った日本を救った。なぜ、そんなことが出来たのか。わたしはグラバー邸のベンチからぼんやりと港を見下ろした。

 


 

夕暮れ時の港を見下ろす・・・ 

 

 すると、

 

「私心を捨てさえすれば、何事も可能になるぜよ!」

 

と、夕暮れの空の向こうから龍馬の声が届いたような気がした。激動の幕末を一瞬にして駆け抜けた龍馬。生き方も一陣の風のようであったが、その言葉も簡潔で爽やかであった・・・。

 

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