謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
奥宮へは要石を通過してから香取の樹林を抜けて門前町へ裏から回り込むようして辿り着く。
二之鳥居の方へ逆戻りしており、どうして、奥宮が本殿の手前にあるのかと不思議に思う。
しかし、この謎は香取神宮の往昔の成り立ちを知れば、なるほどと納得する。
つまり、“謎めいた経津主(フツヌシ)神を祀る香取神宮をゆく(下)”で述べたとおり、経津主神が海路上陸して来られた津の宮がそもそもの香取神宮の表参道口であったという事実である。
津の宮の方位は香取神宮の真北に当たり、いにしえは浜鳥居を一之鳥居として参道は南進し、現在の北参道側から本殿に至っていたことになる。
その経路であれば、奥宮が本殿のさらに南、すなわち今の位置に鎮座していることは至極、当然のことだということになる。
この奥宮へ向かう入り口には雨乞塚がある。
聖武天皇の御代、天平4年(732)、この地が大旱魃の時に、ここに祭壇を設け雨乞いをしたところだということだが、この辺りが古より霊験あらたかな場所であったことの証でもある。
奥宮の手前左手に天真正伝神道流始祖・飯篠長威斎(イイザサチョウイサイ)家直の墓がある。
室町時代に長威斎が開いたこの香取神道流からは、中条流、影久流が生まれているほか、かの有名な塚原卜伝もこの流派を修めてから鹿島新当流を興しており、我が国最古の剣の流儀の始祖として剣聖とあがめられている。
そしていよいよ、経津主大神の荒御魂(アラミタマ)を祀っている奥宮へと入ってゆく。
真新しい石標のすぐ後ろに簡素な神明系靖国鳥居が立つ。
数段の階段を上ると、まっすぐに伸びた細い参道の突当りに奥宮の社殿が見える。
樹齢を重ねた杉並木はひっそりと鎮まっている。
時折、風の悪戯だろうか、それとも気まぐれな神様の戯れだろうか、樹間から一閃の光芒がわが身に放たれる。
細い参道の突当りに奥宮は鎮まる。
誰もいない森閑とした大気のなか、経津主神の荒魂(アラタマ)というより和魂(ニギタマ)がわたしを包み込んでくれているのかのようで、いつしか心は穏やかに安らいでいることに気づく。
奥宮の社殿は昭和48年の伊勢神宮ご遷宮の際の古伐をいただいて建て直したという小さな社である。
お参りをした後、木の柵で囲われた社を廻ったが、本当に小さなものである。
そしてここに神代の時代から経津主神の荒魂が鎮まっているのだと想うと、先ほど浴びた一閃の陽光は遠い過去からの問いかけのようにも感じたのである。
自然のなかに生かされ、そこに神を感じ、その慈しみと恵みに感謝して生きていた太古の人間たちは、いったいどこに消えてしまったのか。
今の世の中、人間はどこまで傲慢になっているのか・・・、そしてまだ、なお大欲を腹蔵し、自然をどこまで破壊し続けてゆく気なのかと。
杉の巨木の幹に手を当て、その命の鼓動を聴きながら、そんな問いの答えを探り続けたのである。