彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

雷命神社

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 11(霹靂(ヘキレキ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神の宿る海

水際に立つ鳥居

 当社は、対馬神道の元祖である雷大臣命(中臣烏賊津使主(ナカオミノ・イカツオミ))を祀る清浄なる雰囲気に包まれた神社である。鴨居瀬住吉神社や後に語る曽根崎(ソネザキ)神社と同様に参道は海路につながり、水際に一之鳥居が立つ。

神社裏手、朝日山古墳の脇に立つ鳥居から入る

 

右手が朝日山古墳・正面左手が拝殿

切り通しを出て小さな境内に

 陸上からのアプローチは神社裏手にある切り通しに立つ鳥居を抜け、朝日山古墳の真横を通り猫の額ほどの海辺に出る。その小さな場所が当社の境内ということになるが、拝殿前に立って見ると分かるが、この神社を創った人々は、境内はどう考えても海の上であると考えていたに違いないと、確信に似た思いにとらわれるのである。

小さな境内

神秘的で鏡のような海

 そして気の遠くなるような歳月、鏡のように穏やかな海をただ真っ直ぐに見据えてきた鳥居の存在こそが、雷大臣命(イカツノオミノミコト)とその子、日本大臣(ヤマトオミノミコト)が海からこの浜に上陸したとする伝承が単なる作り話ではないことを、われわれに語っているように思えてならなかった。

一之鳥居から海の参道 

一之鳥居

 当社の由緒には、神功皇后の新羅征伐の凱旋の際、随行した雷大臣命がこの浜久須の浜に上陸し、阿曇磯良が5kmほど南東にあたる湾口の五根緒(ゴニョウ)に上陸したとあるが、双方ともに海に面して鳥居が立つ。ただ、海神に連なる(海神豊玉彦命の孫・豊玉姫の子である)磯良が上陸したとされる五根緒の海岸は外海に近く、打ち寄せる波も荒々しく、霹靂の海とは大きく異なっている。

五根緒の対馬海峡に面する塔ノ鼻

 先に見た阿連(アレ)の雷命(ライメイ)神社にも雷大臣命が新羅より帰国の時に、その地に上陸し、亀卜の法を伝えたとの伝承があるが、この浜久須には、亀卜を伝える話は残っていない。

 

 また霹靂神社は、新羅や百済、伽耶系の陶質土器の出土品が多い、海に突き出た朝日山古墳のすぐ脇、その敷地内に神社があると云った方がよい。当社の祭神たる雷大臣命は、新羅を征伐し、百済の女性を妻に娶るなど百済との関係が極めて強い伝承を有す。そこらの入り繰り、つまり新羅や伽耶系の土器も出土した古墳の主との関係をどう捉えたらよいのか、今後、さらに考察を進めねばならぬ点である。

すぐ脇に朝日山古墳

海水に裾を洗わせる朝日山古墳

案内板

 (霹靂神社の概要)

    住所:上対馬町大字浜久須字大石隈1073

    朝日山古墳の脇に在す

    祭神:伊弉諾尊・事解男・速玉男 (大小神社帳)/雷大臣命・日本大臣命・磯武良(明細帳)

    社号:「対州神社誌」に豊崎郷浜久須村の「熊野三所権現」とある。その(注)の「大帳」に「古くは霹靂と号(名づ)く」とある。また、「明細帳」に「霹靂神社」とある。

    由緒

「大帳」に、「神功皇后御時雷大臣命使於百済國便娶彼土女、産生一男名日本大臣也。里人傳云上古自新羅御渡之時大明神は五根緒(ゴニョウ)村浦口(上対馬町・旧琴村)に御上り、此権現は浜久須村に御船を被着御上り給と云。雷大臣也。今號熊野三所権現。」とあり、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)が浜久須村に上陸した故事を伝える。

さらに、「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」とある。

 

 拝殿は神社というより村の集会所のような建屋であり、雷大臣の伝承を考えると、拍子抜けする造作ではあった。

拍子抜けの簡素な拝殿

 その拝殿の裏のガラス戸を開けると、急勾配の石段が見える。本殿は、それを昇った高処に鎮座している。小さな本殿ではあるが、その様はまるで湾奥から海上を睥睨するかのようにも見えた。

裏手の急勾配の石段を昇ると本殿が
 
湾奥を睥睨する本殿

 また、境内の奥の方に、社号が「熊野三所権現」であった時代の鳥居の扁額が無造作に立て掛けられていたのも印象的であった。

熊野権現の扁額

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)
 

雷命(ライメイ)神社は阿連川沿いに面した小さい丘の上にある。古くは「イカツオミ神社」、その後、明治までは「八龍大明神」と呼ばれていた。

 



 
阿連川に流れる水、川沿いに鳥居

 

 

八龍大明神の鳥居扁額
 
鳥居に掲げられる八龍大明神の扁額

 

対馬卜占に関して、伴信友はその著書「正卜考」(1858)の中で、「対馬国卜部亀卜次第」の著者、藤斎延(ナリノブ=斎長の父)がそれ以前にまとめたと云われる「対馬亀卜伝」を引き、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る。雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあることに言及。

 

雷命神社の鳥居扁額
 
雷命神社の扁額

 

「対馬亀卜法」の伝道者が雷大臣命(中臣烏賊津使主)であり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」であることが、ここに語られている。

 


阿連の海 

 

 

雷命神社の入口前には鳥居が連なるが、一之鳥居の手前50mほどに、伝教大師入唐帰国着船之地という碑が立っている。

 


 
最澄着船の石碑

 

「対馬歴史年表」(対馬観光物産協会HP)に、「805年 第16次遣唐使に同行した最澄が対馬の阿連(あれ)に帰着。行きの船は、4船中最澄の乗った船以外はすべて難破、帰りの船も流されて対馬に漂着した。当時、玄界灘を渡るのは命懸けだった」とある。

 


 
境内へと鳥居が列ぶ

 

現在、当社は阿連の海まで500mほどの距離を隔てるが、この碑の存在が、当時、この地点が湊であったことを示し、雷命神社の一之鳥居も海辺乃至は水際に面し、立っていたことは確かと云える。

 


 
陽光に反射する阿連の海

 

 当日は、豆酘から久根田舎、小茂田浜を抜けて、阿連に入った。小茂田から山懐へ入り、曲がりくねった道が続いたが、最後の峠を越えると、突然、視界が開けて、阿連の海が目に飛び込んで来た。晴天に恵まれたこともあり、太陽の光に反射する海原は、まばゆく、神々しく、美しかった。

 


階段下の境内



階段の上に拝殿が

 

(雷命神社の概要)

    住所:厳原町阿連字久奈215

    祭神:対馬県主雷大臣命

    由緒(大帳)

県主雷大臣命の住せ玉ふ所也。又云八龍殿とは今云八神殿の事也。・・・載延喜式神名帳雷神是也。後�畍祭于與良郷加志村大祝詞神社之同殿。

(境内社の)若宮神社の祭神は日本大臣命(ヤマトオミノミコト)也。古くは阿惠乃御子神社。

・・・神下云、大八龍〔中臣烏賊津使主〕小八龍〔日本大臣命〕。亀卜傳云、昔神功皇后御時使于(ユク)三韓皈(カヘ)津島、留阿恵村傳亀卜於神人也。続日本紀云天応元年〔781年〕七月右京人正六位上柴原勝子公言、子公等之先祖伊賀都臣、是中臣遠祖天御中主命(注1:アメノミナカヌシノカミ)二十世之孫意美佐夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世使百済便娶彼土女、産一男名日本大臣。遥尋本系、皈於聖朝時賜美濃國不破郡柴原地、以居焉。厥後(ソノゴ)因居命氏遂(ツヒニ)負柴原勝姓。伏乞蒙賜中臣柴原連。於是子公等男女十八人依請改賜云云。」
 

(注1)

『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神で、その後に顕れた高御産巣日神、神産巣日神と合わせた『造化三神』のひとつ。『紀』においては、『神代上』の『天地開闢と三柱の神』の第四に「次(二番目)に国狭槌尊(クニサツチノミコト)。又曰く、高天原に生(ナ)れる神、名(ナヅ)けて天御中主尊〔造化3神〕と曰す」とある。

 


 
雷命神社



 
拝殿

 
橘の神紋

拝殿に橘の神紋

 


拝殿の奥に本殿

 


境内社の若宮神社
 
境内社の若宮神社(祭神:雷命の男子、日本大臣命(ヤマトオミノミコト))

 

 

「続日本紀」では、中臣烏賊津使主は「生二男。名曰本大臣。小大臣」と、二人の男子を百済の女性との間にもうけたとあるが、「大帳」では「産一男名日本大臣」となっており、その点も異なっている。

 

対馬の伝承では「一男」とあり、その男子は「日本大臣(ヤマトオミノミコト)」となっている。おそらく対馬には、亀卜の法を伝え、対馬県主に任じられた「日本大臣」のことのみが話として残り、「小大臣」は対馬を離れ、美濃国栗原の地を賜り、「栗原」の姓を名乗ったものと考えられる。

 

さらに「大帳」の由緒は、「姓氏録」を引用し、「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」と記す。その対馬県の始祖たる天児屋根命「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、

 

「・・・且(マタ)天児屋命(アマノコヤネノミコト)は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」と、「占い神事の宗家」であると記されている。

 

このことは、中臣烏賊津使主(雷大臣)とその子(日本大臣)が「対馬県主の祖」であると同時に、烏賊津使主が伝えた「対馬の亀卜法」がこの国の「占い神事の宗家」に連なる正統なる本流であることを示している。

 

 

境内より阿連川越しに田園風景

 

そして、対馬神道が雷大臣の伝来に始まると考えた時、雷大臣が、当初、住みついた阿連の地が、「対馬神道のエルサレム」であるとする鈴木棠三(トウゾウ)氏の言葉は、わたしが山間から目にしたキラキラと輝く神々しい阿連の海原と相まって、まさに得心のゆくところである。

最新記事
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

月別アーカイブ
記事検索
プロフィール

彦左衛門

livedoor動画検索
本ブログパーツの提供を終了しました
NAVERまとめ
「NAVERまとめ」ブログパーツは、サービスを終了しました。
  • ライブドアブログ