彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

阿曇磯良

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔下〕

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔中〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1


神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良(あずみのいそら)




③ 対馬に残る磯良伝説

阿曇磯良の墓であると伝わる磐座が和多都美神社の潮溜まりに残されているように、上古の対馬の歴史を海人族抜きで考えることは難しい。そして、磯良の伝承は神功皇后に寄り添うかのように、皇后の所縁の地に残されている。


【胡禄神社/琴崎大明神】

    住所:上対馬町琴字琴崎3

    社号:琴崎大明神/胡禄神社(明細帳)

    神籬・磐境型式の古代神道

    祭神:海神(大小神社帳)、表津少童命 中津少童命 底津少童命 磯良(大帳)、表田少童命 中津命 底津命 太田命(明細帳)

    由緒

神功皇后新羅征伐し給ふとて、此の琴崎東澳(オキ)を過ぎ玉ふとき、此の海辺に御船を繋ぎ玉ふとき、御船の碇海底に沈む。是に於いて安曇磯武良海中に入り、碇を取り上げると云ふ。今の祭場は皇后の行宮の故跡也。古くは藩が営繕費を総て公衙(コウガ)より支給す。(明細帳)


胡禄御子神社



【五根緒浦(ゴニョウウラ)神社/曽祢崎神社】

    住所:上対馬町五根緒字平山188番地

    社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。

    祭神:五十猛命(イシタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯良

    五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イシタケラ)とも考えられる。同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」

と、あることからも、ここの場合、五十猛=磯武良と比定するのが妥当。


曽根崎神社の対馬海峡に向いた鳥居


    塔ノ崎の四基の石塔の二基は古く、この石積みが何を意味するのかは謎である。何か海岸に位置する鳥居が北面して海上に向かっていることから、この石積みは灯台のようでもあり、航海の安全を祈願する石塔のようにも見える。




④ 阿曇氏の祖である磯良。信州安曇野に残る海人族安曇氏と対馬の影

●穂高神社・穂高見命(長野県安曇野市穂高6079 穂高神社HP

    穂高神社の御祭神が穂高見命。信州の臍にあたる安曇野市穂高に建ち、その奥宮は上高地にある明神池のほとりに鎮座している。毎年、108日、雅楽の調べのなか、二艘の龍頭鷁首(リュウトウゲキシュ)を神秘的な池に浮かべ「御船神事」が催される。さらに峰宮は、北アルプスの主峰、奥穂高岳頂上(標高3190M)に鎮座する。

    穂高見命は、海神(豊玉彦命)の長男でかつ安曇磯良の伯父にあたることから、安曇族の祖神ということになる。安曇族は、抑々は北九州を拠点に栄え、海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもつなど高い文化を誇る海人族だが、なぜ、海に面せぬしかも山深い高地に海神を祀る氏族の拠点が存在するのか。

    そのひとつの理由として考えられるのが、船の建造用木材すなわち森林資源の確保のために良質の木材を擁する山脈を支配したというものである。

    穂高神社は、醍醐天皇の延長五年(927年)に選定された「延喜式の神名帳」には名神大社として列せられている。

    また、穂高見命は、古来、大きな湖であった処の堤を決壊させ、安曇野という沃地を拓いたと伝承される信州の昔話「泉小太郎」と重ね合わせることができる。


●道祖神に残る古代文字たる阿比留文字

 阿比留文字という対馬の阿比留氏(宗家の前の支配者)に伝わったというハングル文字に似た古代文字がある。その文字が刻まれた石碑や道祖神が、北九州や信州安曇野という安曇氏に所縁の深い土地で発見されていることも、海人族と天孫族の抗争を考える上でのひとつの考察の視点であり、今後の課題であると楽しい思いで認識している。



 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔中〕

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔下〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅---17 府中/厳原八幡宮神社

神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良



  磯良伝説が色濃い「志賀海神社」と「君が代」の謎


【志賀海神社(シカウミジンジャ)】

    住所:福岡市東区志賀島877

    全国の綿津見神社の総本宮(海神の総本社)

    祭神:底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)・仲津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)・表津綿津見神(ウハツワタツミノカミ)の三柱(綿津見三神

    4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される

    代々阿曇氏が宮司職に就く。

    『筑前國風土記』(注1)に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述があり、阿曇氏の祖神である阿曇磯良が舵取りを務めたとされる。

上記下線部分は『風土記』に記載なし。


(注1)筑前國風土記

「筑紫の國の風土記に曰はく、糟屋の郡。資珂嶋(シカシマ)。昔者(ムカシ)、氣長足尊(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)、新羅に幸(イデマ)しし時、御船、夜来て此の嶋に泊(ハ)てき陪從(ミトモビト)、名は大濱小濱と云ふ者あり。便(スナハ)ち小濱に敕(ミコトノリ)して、此の嶋に遣りて火を覓(ト)めしたまふに、得て早く來つ。大濱問ひけらく、『近く家ありや』といふに、小濱答へけらく、『此の嶋と打昇(ウチアゲ)の濱と、近く相連接(アヒツヅ)けり。殆(ホトホト)同じき地(トコロ)と謂ふべし』といひき。因りて近(チカ)嶋と曰(イ)ひき。今、訛(ヨコナマ)りて資珂(シカ)嶋と謂ふ。


「君が代」の元歌ではないかとされる志賀海神社の《山誉漁猟祭(やまほめかりすなどりさい)神事》の神楽歌。次に記す通り。


君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで

あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という

花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほやと言い、次に別当が、


志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで

今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ

いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきなと言う。


その後、禰宜がいくせで釣る 別当がよせてぞ釣ると三度繰り返し言う。

*別当《元来は本官のある者が別の役を兼ねて当たる意》


志賀海神社の《山誉漁猟祭(やまほめかりすなどりさい)神事》の神楽歌が「君が代」源流とする説 (「君が代の源流」を参照)


 『君が代』の歌詞には、「現在に残る筑紫の地名や神社そして祭神の名前が多く含まれている。千代は字名、八千代は博多湾のこと。福岡県前原市(伊都国)三雲に細石(サザレイシ)神社が現存。糸島市志摩船越桜谷にある若宮神社(古くは桜谷神社)の祭神が苔牟須売(コケムスメ)神と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)。」と、これだけ揃えば逆に、「君が代」とはまったく無縁というのもそれなりの説明が必要だと思う。


 以上のように志賀海神社の神楽「君が代」の内容や当社代々の宮司が阿曇氏であることなどを考慮すると、阿曇磯良が海人族の長の一人であり、阿曇族が北九州を中心とした一円を支配する大王として崇められていたことは確かと云える。




 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕

阿曇磯良の墓との伝説のある神体石(和多都美神社)


神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良


  海人族の祖である阿曇磯良

神功皇后の新羅征討説話のなかで、占い神事に長けたものとして随行した中臣烏賊津使主(雷大臣)とともに出てくるのが、阿曇磯良である。その時、海人族たる磯良は航海の先導役としての役割を担っていた。磯良は海神とも目され、或いはまた海神(豊玉彦)の娘である豊玉姫の子であるとも云われており、海人族の有力豪族安曇氏の始祖として祀られる存在である。そのため、安曇氏の本拠地とされる福岡県の志賀島周辺にも多くの伝承を残す。


対馬に関わる神々の相関図


【安曇磯良】Wikipediaより)

    安曇(阿曇)磯良は神道の神である。海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。磯武良(いそたけら)と称されることもある。

    石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。


    民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と同神であるとする説がある(磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。


    『太平記』には、磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記している。神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔に牡蠣や鮑がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠(シホミツタマ)・潮乾珠(シホフルタマ)(海幸山幸神話に登場)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。


    阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある(ほかにも諸説ある)。宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(あちめ)」は阿曇または阿度部(あとべ)のことである。


【神功皇后の三韓征伐説話の中に安曇磯良が登場】「紀の中の安曇氏」

1.「八幡愚童訓(ハチマングドウクン)」(鎌倉中後期/著者不明・石清水八幡宮の僧との伝/八幡神の霊験、神徳を説いた寺社縁起)に残る説話


「仲哀天皇の御世のことである。異国が攻めてきた。天皇は長門の豊浦まで来て戦われたが討ち死にされた。その後、神功皇后に天照大神の『三韓が攻めてくる前にこちらから向いなさい』という託宣があってから、住吉大明神が現われた。皇后は48艘の船をお造りになった。住吉大明神が『梶取には、常陸国の海底にすむ安曇礒良が良い』というので、皇后は礒良を召し出そうとされたがなかなか来ない。住吉大明神は、自らが拍子をとり神楽を催した。すると、礒良は慌てて足袋と脚半を着け、亀に乗って常陸から豊浦までやって来た。そして、顔が醜いので袖で隠し、首には鼓をかけて、細男(せいなう)舞(注1)を舞った。皇后は妹の豊姫を使いとし、高良大明神と水先人の礒良を伴わせて竜宮へ行くよう命じられた。一行3人は海の竜王から旱珠・満珠を借りることが出来た。安曇礒良は、筑前国では鹿島(しかのしま)大明神、常陸国では鹿島(かしま)大明神、大和国では春日大明神という。異名であるが同一神である。神功皇后は軍船を率いて敵国に向われた。梶取は志賀島大明神、大将軍は住吉大明神、副将軍は高良大明神である。敵は大軍であった。しかし、皇后は旱珠・満珠をお使いになり、敵を溺れさせて勝つ事ができた。


(注1)細男舞(セイナウマイ)

    「続日本紀」天平3年7月の条に、「筑紫の風俗が宮廷に献上され、雅楽寮で宮廷楽舞として伝習されるようになった」とあるが、これが細男舞ではないかと推測される。

    現に、「細男舞」は奈良の日若宮神社の例祭「おん祭」において現代も舞われている。

    海人族の長、阿曇氏の先祖である阿曇磯良が、神功皇后と応神八幡に従属した様子を模したという。応神が海中に舞台を構え、磯良が好む細男舞を奏すと、磯良は首に鼓をかけ、浄衣の舞姿で亀に乗って浮き上がって来た。しかし長いこと海中にいた為、顔に鮑や牡蠣がくっつき見苦しい為、白覆面をして舞ったという。


 


 


 


 


 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―2)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について) 



入江に向かい建つ鳥居の奥に拝殿

 

 胡禄御子神社は対馬を去る日の最後に訪れた神社となった。胡禄神社を目指し、間違って辿り着いたのが、胡禄御子神社であった。事前に調べた資料は役に立たなかったが、こうして「対州神社誌」を再度、めくり確認すると、ここが延喜式・式内社の「胡禄神社」に比定されるとの「大帳」の記載もあり、江戸時代(18世紀の末)において既に、「胡禄御子」と「胡禄」神社の区別が分からなくなっていたことを知った。

 


胡禄御子神社の扁額

 

 住吉三神と阿曇磯良という海神を祭神とする神社であれば、荒海に面した鳥居を有す、琴崎大明神即ち胡禄神社の方が、同じく磯良伝承を残す曽根崎神社と酷似した立地となっていて、ふさわしいとの思いは強いが、そちらには飛行機の時間の関係で行くことはできなかった。

 



鳥居がならぶ奥に簡素な拝殿が


簡素な拝殿

 

 そこで、ここでは胡禄御子(コロクミコ)神社について記載することにする。

 







夏草に坐す阿吽の高麗犬

 


(胡禄御子神社概要)

    住所:上対馬町琴字琴崎3

    社号:がうの浦(対州神社誌)・郷崎大明神(大小)・郷崎神社(大帳)・胡禄御子神社

    祭神:海神(大小神社帳)、表筒男・中筒男・底筒男磯武良(大帳)、表筒男命・中筒男命・底筒男命・磯武良

    由緒

古帳の神人三十一人人在り、神社は神功皇后が祀り賜わる也。郷崎は甲崎の訛ったものである。その甲浦が濁ると国家に凶事があると云われている。延喜式神名帳に載る胡禄神社は是也(大帳)

神功皇后祭り玉ふ所也と云ふ。(明細帳)

 


 



拝殿内

拝殿内に大江神社という別の神社名が・・・

 

 飛行機の時間が迫るなか、目印もない当社に辿り着くのは至難であった。近くまで来て集落の橋の上で談笑する数名のご婦人方に「胡禄神社」を訊ねてもはっきりしなかった。「この海岸縁の路を行くと神社がある」とのことで辿り着いたのが、この「胡禄御子神社」であった。帰京後、対州神社誌を読み直し、当社が胡禄神社に比定されてもいる事実を知り、これも何かの縁であると感じたところである。

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