年末、NHKで放映された「課外授業ようこそ先輩スペシャル」を観た。埼玉県秩父の皆野(みなの)小学校を87歳になる俳人金子兜太氏が訪れ、75歳年下の後輩たちに俳句を通じ「命」の大切さを熱っぽく訴えた。
川原へ子供たちを連れ出し、そこで踊りながら民謡を唄わせ、その歌詞のひと言ひと言が「七、七、五」からなっていることを巧まずして教えていた。そのリズムの良さとわれわれ日本人のなかにそのリズムがDNAとして流れていることを自然と体感で教える、その姿に「師」の真髄を見たような気になった。
画面は一転して俳句を子供たちに詠ませながら自由に講評させる教室内の光景に移った。季語などと難しいことは言わず、子供たちに自分の一番大切なものを「五、七、五」のリズムで自由に詠わせた。
「おじいさん病気になってもスーパーマン」「ばんそうこう形やがらに個性あり」「色えんぴつよく使ってるから小さいよ」などなど。そのなかに「美野山が笑っているよ正月だ」という兜太氏の句もこっそりと紛れ込まされていた。子供たちは同氏の句を評して「作った感じがする」「頭のなかで考えたようだ」と、現代俳句界の異才に容赦のない辛口の寸評を下した。同氏のいつもの激越な舌鋒も影を潜め、目には郷土の後輩たちに対する慈愛の光が灯っていた。
そして兜太氏は先刻行った川や山にいる魚や小さな虫など、自然はすべてに「命」があることを語った。その小さな命を体でしっかりと抱きしめなさい、実際に抱き合ってみてごらんと子供たちに勧めた。そうして初めていろいろなものの命を体感できるのだと熱っぽく語った。87歳になる兜太氏の口元を12歳の子供たちは食い入るように見つめていた。たくさんの小さな瞳が命の輝きを放っていた。久しぶりに目にした子供の瞳の輝きであった。わたしも兜太氏の言葉に、命を抱きしめ体感することの大切さを久しく忘れていたことに気づかされた。
京都の清水寺恒例の2006年の漢字一文字は「命」であった。今年ほど「命」の言葉が世の中で叫ばれた年もなかった。メディアのなかで、学校のなかで、国会のなかで、キャスターや教育コメンテーター、政治家に、果てはバラエティー番組の出演者たちまでが「命」、「命」の大合唱であった。しかし、なぜかその多くの声はむなしく、わたしには空々しく聴こえた。
俳人金子兜太氏の言葉に真剣に耳を傾ける子供たちの姿と瞳の輝きを見て、むなしさを感じた原因が「命を語る」人の実感からではなく「頭のなかで考えた理屈」で「命の大切さ」を訴えることの空々しさにあることに気づいたのである。