「『会見、記者クラブのあり方を考えてみませんかという投げかけだった』と釈明した」
「『問題を提起しただけ。会見や記者クラブに不満があるわけではない。記者とは適度な緊張感を保ちたい。会見続行という結論なら、受け入れる』と、『(定例記者会見の)不要発言』を修正した。
冒頭の文章は5月11日の県政記者クラブとの定例記者会見で行なわれた「記者クラブ問題」について東国原宮崎県知事の発言内容について大手新聞社が報じた記事の表現である。発言内容が不適切であったため釈明、修正したというどこか謝罪のような書き振りである。
この定例記者会見問題は4月16日の宮崎県庁内での定例会見において「定例会見って必要ですかね」「特筆すべき発表事項がないときは、なくてもいいのでは」との東国原知事の発言に端を発している。発言に対し宮崎県政記者クラブの記者からその場で即座に「発表するものがないから開かなくていいのではないかという質問は、トップとして稚拙だ」「定例記者会見を軽視しており開くのは当然」など猛然と批判の声があがり、知事も「毎日取材を受けている、稚拙だとは思わない」など正面から反論するなどその激しいやり取りがTV等で報道されたことは記憶に新しい。それから約一ヵ月を経て初めての定例記者会見であった。
記者クラブ問題はこれまでも幾たびも採り上げられてきた題材である。
また政治の世界では、過去、1994年に当時新生党の代表幹事であった小沢一郎氏が記者クラブ以外の記者も参加が可能な開かれた記者会見を模索したが、既存記者クラブの反発が強く、結局もとの形式に復されたことがあった。
さらに2001年5月には、当時の田中康夫長野県知事が「『脱・記者クラブ』宣言」を発表し、記者クラブ問題に大きな一石を投じた。その宣言は「(記者クラブは)本来、新聞社と通信社、放送局を構成員とする任意の親睦組織的側面を保ちながら、時として排他的な権益集団と化す可能性を拭(ぬぐ)い切れぬ。現に、世の大方の記者会見は記者クラブが主催し、その場に加盟社以外の表現者が出席するのは難し」く、「また、日本の新聞社と通信社、放送局が構成員の記者クラブへの便宜供与は、少なからず既得権益化している」と大手メディアによる情報の独占と県庁建物のスペースや電気・冷暖房等管理経費等も県任せという既得権益享受の実態を厳しく糾弾した。
その改革は知事会見の主催者を記者クラブ側から長野県側へと変更させ、従来の記者クラブスペースを「プレスセンター(後に『表現センター』へ改称)」として開放、フリーランスで表現活動に携わる全ての市民が利用可能とするなど画期的なものであった。
しかし、当然のことのように記者クラブは「今後も記者クラブ主催の会見を求める」と抗議文を田中県知事あてに出すなど猛然と反発し、その後、大手メディアと田中知事の関係が悪化したことは言うまでもない。
ことほど左様に記者クラブの廃止や開放などの動きに対して大手メディアはこれまでも頑強なまでの抵抗を見せてきた。
そして今回の東国原知事の「定例記者会見は必要ですか」との発現の真意は、記者クラブを廃止したり県が設置する記者室の撤去等までを意図した記者クラブ存廃に係る「そもそも論」でないことは明らかであった。ただ公務優先の考え方のなかで、ぶら下がり質問と同様の質問などが定例会見で行われたりすることに問題意識を持った知事が、その効率的運営ができないか、形式的会見の見直しができないかとの建設的な問いかけであったと評される。その程度のというより前向きの問題意識に対してすら、記者クラブ側は「定例記者会見を軽視しており開くのは当然」と猛反発し、態度を硬化させるなどそれこそ「稚拙」な対応を見せた。
その知事とのやり取りを聞いていて、驕り高ぶったような記者クラブの面々は一体何様なのかと、逆に感じたのはわたしだけであっただろうか。「県民に情報を知らしめる権利は自分たちのみが有している」という誤った「選民意識」を彼らが持っているのではないかとすら感じてしまうのである。
大手メディアであれフリーのジャーナリストであれ、そしてパブリックジャーナリストであれ、みんな同一の「知る権利」を有しているはずである。またジャーナリストだけでなく国民一人一人が「知る権利」を有していることは、わざわざ言うまでもないことである。
国民は一民間会社であるメディアの一民間人である記者に、何も頼んでまで「知る権利」を行使する代行者になって欲しいなどと言った覚えはない。国民の「知る権利」を十分に担保するうえでも、さまざまな情報発信者や発信組織があったほうがよいに決まっている。「選民意識」の臭いを強烈に感じさせるごく一握りの大手メディアやジャーナリストに国民の「知る権利」を標榜され「報道の自由」の具現者面をされることは、真に国民が望むところではないはずである。
4月16日の定例記者会見で東国原知事が「あなたたちが聞きたいことが必ずしも県民の聞きたいこととは思わない」と記者クラブの面々に対し反駁(はんばく)した言葉は、まさに記者クラブの主要構成員である大手メディアの大きな勘違いの「使命感」を強烈に皮肉るまさに的を射た発言であったといえる。
加盟社以外の参加を拒む「記者クラブ」は言ってみれば、情報独占というカルテルを結ぶ組織であると言ってもよい。その意味で「知る権利」「報道の自由」の名のもとにそうした既得権益を享受する既存大手ジャーナリズムに真の意味で権力と適切な間合いをとった「真実追究の姿勢」を期待することなど土台無理な相談なのだと思うしかないのだろう。
86.7%(4月20付け宮崎日日新聞調べ)という驚異的な高支持率を誇る東国原知事である。選挙民である県民が味方しているのである。大手メディアを恐れることなく、メディアに襟を正させるべきところははっきりと正させ、悪弊があるとすれば改善を求めるなど、正面きってメディアと対峙して欲しい。
もしそうした知事の挑戦により大手メディアとの間で事が大きくなったとしても、小沢一郎氏や田中康夫氏の時代に比べネット普及は格段に進んでおり、事態は当時とは異なる結果をもたらすことになろう。それは良識ある宮崎県民やブロガーたちが大手メディアの報じぬ情報も一瞬にして日本全国に広め、一般人の手による真の意味の世論を形成することで、必ずそうした知事の政治姿勢なり言動をサポートすることになると思うからである。