お臍に穴をあけて、というより、生まれた時に結び合わせた結び目を久方ぶりに解き放つという方が、この場合は適切な表現のような気がする。
何はともあれ、お腹にひとつ穴を開け、そこに一本の管にまとめられた3本のファイバーを差し込み、3D角度を出して、肝臓の下にくっつくようにしてある胆のうを切除し、体外に摘出するのである。想像するだけでちょっと気分は滅入ってしまうが、全身麻酔によって全く分からぬうちに手術は終わっていた。
そんな小さな穴から「どうやって胆のうを取り出すのかい?」という疑念が当初からあったが、お臍の穴は意外と大きく広がるのだそうだ。術後の執刀医の説明で家内が見せられたのだが、ファイバーを収納した管(これを臍穴から入れる)の直径は2cm弱はあったというのだから、結構大きな穴が必要となるはずである。
家内も、人間の皮膚っていうのはずいぶんと柔軟で丈夫なのだと他人事ながら妙に感心したという。その孔を縫合しなおした傷口はまったく分からない。何せお臍の結び目をほどき、また結び直しただけなのだから、外見からも昔のままのわたしのお臍である。先生の技能が優れていたので、出べそにもならず綺麗なものである。
そして尾籠(ビロウ)な話で恐縮だが、手術前にお臍の掃除をしろと云われ、オリーブ油を垂らし、綿棒でお臍の穴の掃除をした。その結果、数十年分の垢を落としたのだから、逆に術前より美しくなったというべきか。お臍丸出しルックを厭わぬ女性には特にお奨めの方式である。
まぁ、そういうことで4時間弱の手術(内、1時間は麻酔を醒ますため手術室にいた)は予定通りで無事に終了。本人は気づいたらベッドの上。家内とおしゃべりをしたが、やや頭は朦朧気味で、その日はおしまい。
そして術後の翌日、早速、歩行が始まる。お腹の中心部が痛いが、シクシクとかジクジクといったものではなく、身体を動かすと痛いというだけである。それも開腹手術と違いお臍に穴を穿つだけなので、ひきつるような痛さとも違う。ただ、痛い。う〜ん、例えて言えば、体育会系的な痛さ?である。
昼過ぎにやって来た家内と話しながら、内容は忘れたが笑おうとしたら、お腹の中心が痛くて笑えない。「冗談を云うのは止めてくれ」とつい頼んでしまった。まだ点滴の管が身体に装着され、わたしが気が滅入っているのだろうと気を回し、折角、面白い話でもと持ち出したネタなのだろうが、これが堪らない。
咳をするのもお臍の傷に堪えるが、それは一瞬の痛みである。まぁ、それも薄倖の佳人がコホンコホンと儚(ハカナ)い咳をするようにやるのだが、う〜ん、やはり痛味が走る。
しかし、その「笑い」という動きが、身体の中心を絶えまなく小刻みに揺るがす運動であることに、この時、気づいた。つまり、よく分かるのである。お腹の全筋肉が相互につながって池の波紋がじわ〜っと湖面全体に伝わるように、筋肉の蠢動が小刻みに伝わってゆくのである。その伝播と一緒に、痛みもお腹全体に広がってゆく。痛みが拡散し、弱まるのではない。同量の痛みがロスなく正確に廻りの筋肉に伝えられるのである。
咳は一瞬の筋肉の動きであるが、笑いは波紋のようにしかも同量のエネルギーを廻りに伝える、何だか随分と効率のよい運動なんだと気づいた。
「笑い」は癌などの免疫力アップに良いとする治療が施されているという話を仄聞したことがあったが、今回、その意味するところが分かった気がしたのである。
これほど腹腔の筋肉を意図的に全て蠢動させることは、どんな理学療法士でも難しいだろう。でも、ひとつの楽しい話から生み出される「笑い」が、自律的に体内の筋肉そして多分、内臓の動きも微細に持続的に動かす。
命のエネルギーが細胞から細胞へ、生きる喜びのパワーが波紋のように体の隅々にまで沁み込んでゆく。
手術を終えて、痛みを味わうことで、「笑い」が持つ命のパワーを実感したものである。暗いニュースが氾濫する社会に、せめて健康的な「笑い」が家庭内でも仲間うちにでも溢れたら、もっとみんな健康に幸せに生きられるのだと感じた。
最後に胆のうを取ると油ものが食べれなくなると色んな人に訊かされていたが、事前に主治医が「そんなことはない」と言っておられたように、俗説でありまったく問題はない。ダイエットにまい進する家内と娘を横目に、美味しいものをこれからもどんどん食べられる・・・、それもわたしだけで・・・と思うと、また「笑い」の虫が蠢き出し、ちょっとまだ腹筋が痛む。これって、違う痛みなのかも・・・