彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

神功皇后

神々のふるさと、対馬巡礼の旅---17 府中/厳原八幡宮神社

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(大吉戸神社と金田城の謎・金田城は椎根にあった!)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 当社は、木坂の海神神社とならび神功皇后の新羅征伐凱旋時の伝承を持つ八幡宮の発祥に深く関わる神社である。木坂八幡本宮(海神神社)に当初納められた八旒の旗が、のちに二旒ずつこの府中八幡宮、黒瀬の大吉刀神社(城八幡宮)、大分県の宇佐八幡宮に分けられたとする伝承が海神神社に残されていることは、同神社の項において詳述したが、府中八幡宮や宇佐八幡宮がこの伝承を一切紹介していないのはきわめて残念であり、日本国民の財産として共有すべき「ひと時の歴史」を私する行為であり、厳しく非難されるべきものと考える。



右手石段を昇ると神門を抜け、拝殿・本殿へ

拝殿

拝殿内

拝殿から本殿を

境内社として延喜式式内社の宇努刀(うのと)神社が
 

(海神神社に残された「八幡」の伝播の伝承)

代々の対馬國総宮司職の家系である藤仲郷(トウ・ナカサト=斎長の子/17331800)が「対州古蹟集」のなかで八幡宮縁起について以下のごとく言及。

「皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州〔木坂八幡宮〕に留玉ふを廟主とす。其の鈴二口宝とす。〔八旒の旗の内〕二口は府の八幡宮に分置し、二口は豊前宇佐宮に分ち、又二口は黒瀬城〔城八幡宮〕に納むと。今、州〔対馬の〕中に伝もの六口也」と、八幡宮の発祥が対馬にあることを述べている。



神門扁額

神門内より

(厳原八幡宮概要)

    住所:厳原町中村字清水山645

    社号:八幡宮。木坂八幡本宮に対し、「新宮」と称す

    祭神:神功皇后、応神天皇、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰



神門を入ると神功皇后の銅像が
 

    由緒(木坂八幡宮と内容的に同一)

神功皇后が新羅御征伐の時、対馬に御着船し、上県郡和珥津より新羅に渡り給ひ、新羅を平げ給ひ、高麗、百済も亦(マタ)来臨し、御凱旋の時、下縣郡與良の地(今、厳原と云ふ)に着御す。清水山を叡覧あり、此の山は神霊の止(トドマ)りぬべき山なりと宣ひ給ひ、御幸ありて、岩上に御鏡と幣帛(ヘイハク)を置かれ、皇后親(ミズカ)ら天神地祇を祭り給ひ、永く異國の寇を守り給へと祈り給ひ、神籬磐境を定め、亦朕が霊も共に此の山に止まらんと宣給(ノタマ)ひし遺蹟なり。天武天皇白鳳四年(664年)の勅により、同六年(666年)此の地に宮を作らし給ひ、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰五柱[ここでは六柱。仁徳は応神の次の天皇である故、当初、仁徳は除かれていたのではないか。後に仁徳天皇時代に外寇ある時、清水山より吹いた神風で敵の船団を壊滅させたとの故事が伝わるが、その時点で仁徳が祀られ、六柱と思われる]の神霊を御鎮祭ありて、八幡宮と称し奉る。八幡宮と称するは、皇后新羅御征伐の時持せ給へる御旗八流残し給ひしに依る。(明細帳)



    厳原八幡宮は、木坂の八幡宮(海神神社)に対し「国府八幡新宮」と称された。また中世の頃は、上県郡にある海神神社を上津八幡宮、下県にある当社を下津八幡宮と称していたこともある。

    上記の由緒ある古社の神官は、宗家以前の対馬の豪族、阿比留氏である。対馬藩主である宗家は、阿比留氏の影響が大きく、「政教」の「教」という重要な伝来の神事を任せることで、その支配をスムースに行おうとしたことがうかがわれる。



    式内社として、宇努刀(うのと)神社平(ひらの)神社が境内社として祭祀されている。



この石段上に今宮・若宮神社が
 

    さらに今宮・若宮神社(天神神社)が境内社として祀られている。祭神は小西行長の長女として生まれ対馬の宋義智(宗家20代・徳川幕府初代対馬藩藩主)夫人として金石城に入った小西夫人マリア(クリスチャン)とその御子。今若・若宮神社として祀られていたものが天神神社と合祀されて現在に至っている。



今宮・若宮神社
 

宇努刀(うのと)神社】

・祭神:素戔嗚尊

・境内看板に「本社は神功皇后新羅征伐畢らせ給ひ凱還の時上県郡豊村に着給ひて島大国魂神社を拝し夫より佐賀村に着せられ此の地に島大国魂神社の神霊を分つて皇后親から祭り給ふ。延喜式神名帳に載る上県郡宇努刀神社定なり。延徳三年六月十四日佐賀村より下県郡厳原町八幡神社境内に遷し祭る」と由緒が記されている。


宇努刀神社
 

【平(ひらの)神社】

・祭神:天穂日命(アマノホヒノミコト)・仁徳天皇・日本武尊・菟道稚郎子皇子(ウジノワキイラツコノミコ)

・境内看板に「本社は瓊々杵尊の朝天日神命津島県主たりし時に祖神天穂日命を祭られしなり其の後日武尊仁徳天皇莵道皇子の三神を加祭す。延喜式神名帳にのる下県郡平神社是なり」と由緒が記されている。




    天穂日命(アマノホヒノミコト):天照大神の第二子、出雲国造・出雲大社宮司の祖。天照大神の第一子(天穂日命の兄)が天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)で、天皇家の祖。天忍穂耳尊の子が瓊々杵尊(ニニギノミコト)。瓊々杵尊の子が海幸帆・山幸彦。

    菟道稚郎子皇子(ウジノワキイラツコノミコ):応神天皇と和弭臣の祖で日触使主(ヒフレノオミ)の女、宮主宅媛(ミヤヌシヤカヒメ)との間の皇子



 



 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)



海神神社一之鳥居


海神神社一之鳥居



   我が国の八幡宮の起源「木坂八幡本宮」



 神々のふるさと、対馬巡礼の旅---番外編(神功皇后は実在した1・2)」で見たごとく神功皇后の実在の可能性が高いとする一つの根拠が、対馬に数多く残る皇后の新羅への出征時および凱旋時の対馬寄港の伝承であり、凱遷時に国防祈願をしたという八幡宮の存在である。そうした話を神社の由来として伝えるのが、かつて木坂八幡本宮と呼ばれた海神神社であり、木坂から遷された厳原八幡宮である。この二つの神社には神功皇后の凱旋時にまつわる酷似する伝承が残されており、全体の物語の構成としても不自然さがないことに、リアリティーという点で注目したいところである。



神功皇后の新羅征伐に係る対馬に関する「紀」の記述は以下の通りである。



【神功皇后(摂政前紀 仲哀天皇99月―10月) 「神助により新羅親征」】

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ=3日)に和珥津(ワニツ)より発ちたまふ。時に飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中の大魚悉に浮びて船を扶く。則ち大風順に吹き、帆舶波に随ひ、櫨楫(カヂカイ)を労(イタツ)かずして、便ち新羅に到る。・・・」との記述。

和珥津(ワニツ):対馬北端、上県郡対馬町の鰐浦。



「神功皇后(摂政元年3月―53月)「誉田別皇子の立太子」の記述のなかで、人質とした新羅の奈勿(ナモチ)王の子、微叱己知(ミシコチ)が奪還される場面で、対馬に宿泊。その時、人質奪還をされた土地の名が「サヒノウミ」の「水門」であると以下の通り登場する。

「〔人質の微叱己知(ミシコチ)と新羅の使者毛麻利叱智(モマリシチ)等と神功皇后が見張りとして随行させた葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)と〕共に対馬に至り、�窶海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る」



「紀」の注では、『「�窶(サヒ)」は「鋤」に同じく農耕具で、鋭利な武器でもあったか。鰐はその鋭利な歯から、「サヒ持ちの神」(古事記)といわれたことの連想によるか。』とあり、「サヒノウミの水門」は「和珥津」と同地と推定している。



但し、「対州神社誌」の「府内」の「(厳原)八幡宮」の厳原町久田道字宝満山に鎮座する「村社・與良祖神社」の「明細帳」(注)において、「山幸海幸の説話の(注)に、『海宮は津島の事なり。小船の着しは津島下県郡鴨居瀬村の東海瀬戸なり。爰(ココ)に小島あ、此島南北に連流し、此小島と鴨居瀬との間に瀬戸あり。�窶(スキ)の水戸と云。春気を受け紫藻を生ず。紫瀬戸と云。津島の東海絶景の第一とす』とある。



 これによれば、「紀」による人質奪還の場所、「�窶海の水門」は、現在の鴨居瀬の住吉神社の建つ場所ということになる。



 このように新羅征伐の一連の記述の中で、対馬は新羅征伐への出立地及び凱旋後の新羅からの人質を奪還された場所として、北端の港である「和珥津(ワニツ)」や鴨居瀬とも推定される「�窶海の水門」の名が登場するのみであり、凱旋時に国防祈願として造営した八幡宮に関わる話は、「紀」のなかにおいては一切言及されていない。



その一方で、巷間の伝承などを参考としたであろう「対州神社誌」や「海神神社神社明細書」に「木坂八幡本宮」、「明細帳」に「(厳原)八幡宮」の由緒が詳述されている。



(海神神社概略)

    住所:峰町木坂247

    社号:「対州神社誌」に「八幡宮」、「大小神社帳」に「木坂八幡本宮」とある。厳原の新宮に対し、本宮と呼ぶ。明治時代までは八幡宮と称していた。明治3年に、和多都美神社と改称し、さらに明治6年に海神神社となる。

    祭神:応神天皇・彦火火出見尊(山幸彦)・仲哀天皇・豊玉姫(山幸彦の夫)・武内宿禰

    由緒(対州神社誌より)

藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、この八幡宮を「日本八幡宮の旧本社なり」と主張している。当神社の由来書によれば、次記の通り。



「神功皇后御征韓の役を終わらせ給い、帰途対馬をよぎらせ給う御時、佐賀の浜に八幡を建て給い、木坂山に鰭(ヒレ)神を祭らせ給う」とある。そして「津島紀事」に「皇后は佐賀の浦に斎庭をしつらえ、三韓出征の折、宗像神から授かった『振波幡』、『切波幡』、『振風幡』、『切風幡』、『豊幡』、『真幡』、『広幡』、『拷幡』の八旌の旌旗と鈴とを浜辺に張り巡らし捕虜の釈放(放生会の始め)や矛舞など凱旋の祝いを行った。次いで八旒の旗をこの地に蔵し国土守護の『うけひ』をせられた。仁徳天帝癸丑の年に、佐賀八旒を木坂に遷して廟主となし、神功皇后を奉祭しこの社を一宮と称した。さらに継体帝丁亥の年には、応神天皇以下の神を木坂の伊豆山に奉祀し、この神功・応神両神廟を八幡宮と称えた」とある。

「津島紀事」とは、対馬府中藩士の平山東山(ヒラヤマトウサン17621816)が郡奉行の任にある時、視察のため来島した幕臣土屋帯刀(タテワキ)に命じられて対馬の史誌を編修し、幕府に提出したもの。

    一宮を木坂伊豆山に奉祀した由緒(海神神社神社明細書より)

「神功皇后新羅より還御の時対州西面の要害を御船より巡検し給ふ時、木坂山を叡覧ありて、此の山は神霊強き山なり、彼の山頭に鰭神等祭祀し異国降伏祈らんと宣ひ、武内大臣を奉じ、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め、斎き祭り給ふとなり」とある。これは、厳原の八幡宮(新宮)の清水山由緒に同種の記述あり。



    さらに、藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、「皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州に留玉ふを廟主とす。其の鈴二口宝とす。〔八旒の旗の内〕二口は府〔厳原〕の八幡宮に分置し、二口は豊前宇佐宮に分ち、又二口は黒瀬城〔現・金田城〕に納むと。今、州(対馬の)中に伝もの六口也」と、述べている。



    「仁徳天皇の御宇、異国の賊船数百艘西方海上に顕れた際、木坂の伊豆山の頂より神風が強く吹き起こり、異船ことごとく行方知れずになった」との言い伝えがあるが、後に白髪翁が現れて、「是即ち気長足媛尊(神功皇后)の祭り置せ給ふ国主和多都美の御神霊の為す所よと喜ひて」(海神神社明細書)と、仁徳紀に八幡と鈴が木坂に遷された由縁が分かる。さらに国府(厳原)と黒瀬と宇佐へと鈴と八旒が遷された。これに関連して、現在、八幡宮の総本社とされる宇佐由緒では、欽明天皇三十二年に八幡神が現れたとなっている。



    統一新羅時代(8世紀)の銅造如来立像(国の重要文化財)が収蔵されている



    大小神社帳に、境内社として本殿左に建つ五宇が紹介されている。即ち、一ノ宮(祭神:神功皇后)・若宮(同仁徳天皇)・新霊(同菟道皇子)・軍殿(同日本武尊)・瓊宮(ニノミヤ・同豊姫霊)。この5社は「官社」であると記載されている。

また、木坂八幡本宮は古くは「和多都美神社」又は「上津(カウヅ)八幡宮」と号したとある。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―1)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―2)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)


  これまで、この「対馬巡礼の旅」のなかで、神功皇后の伝承を数多く紹介してきた。そのことは、対馬がまるで神功皇后の伝承を載せて浮かぶ島のようにも思えてくるのである。

 

しかし、巷間云われるように皇后が単なる伝説上の人物で、記・紀で語られることがすべて神話で作りごとであるとなれば、対馬に伝わる伝承も実体の裏付けのない、大人が真顔で語るのも憚られる世迷言にもなりかねない。

 

 そこで、そもそも「神功皇后」なる人物は実在したのか、三韓併合などという歴史的事実が存在したのかという素朴な疑問に答えられなければ、対馬に伝わる皇后伝承も色褪せた不毛の作り話と看做さざるを得ず、ここらで、そういった点につき、触れておく必要があろう。

 

1. 神功皇后とは記・紀においてどのような人物として描かれているのか

 

神功皇后(在位201269年〔321389〕)は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子の第14代天皇たる仲哀天皇の御后である。「紀」では、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)、「記」では息長帯比売命(同左)と云う。父は息長宿禰王、母は葛城高ヌカ媛(カズラキノタカヌカヒメ)とされている。

 

「紀」における神功皇后の取り扱いは、摂政であるにも拘わらず独立した項目が立てられ、しかも相当数の頁が割かれている。なかでも、朝鮮半島との軍事抗争にはかなりの労力がかけられている。そして、神功皇后の在位期間が201269年と三世紀前半としていることが、魏志倭人伝で描かれている卑弥呼(景初2年(238年)以降に「親魏倭王」に任じられた)に擬せられる一つの要因となっている。

 

一方、「記」において、神功皇后は夫である仲哀天皇の項立のなかで語られ、独立した取り扱いとはなっていない。但し、仲哀紀のなかで肝心の天皇についての記述は冒頭の崩御の場面だけで、残り全ては神功皇后の事蹟に関することである。要は仲哀紀を神功紀と読み替えて欲しいと云っているようなものであり、その意味で、皇后に対する取り上げ方は、「紀」と同様に、朝鮮半島との確執の中心にいた人物として描かれていることは確かである。

 

 記紀において、神功皇后は、仲哀天皇が神託に背いたことで神の怒りに触れ、崩御した後、神託に沿って新羅親征を進め、それを完遂した人物として描かれる。そして、神が皇后自身に憑依する巫女的性格を色濃く持ち、しかも神の意思を体現し、実行する人物として描かれている。さらにこの話の中では、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)ではなく、武内宿禰が審神者(サニハ)としての役割を果たしている。

 

なお、皇后の在位期間で〔 〕内の年は、紀の干支と百済本記の干支による年次を2運(120年)繰り下げると、朝鮮半島の歴史上の出来事の年次と符合する。その「2運」下げした年次を参考として記載した。

 

2. 神功皇后は実在したのか、三韓征伐などあったのか

日・韓の正史である「日本書紀」と『三国史記(注1)』の中で新羅征伐に関わる記述を拾い、比較考量を行ない、神功皇后の実在および三韓征伐の史実につき検討する。

 

(注1)「三国史記」

高麗17代仁宗の命により作成された、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを紀伝式で記述した朝鮮最古の歴史書(1145年完成)

 

まず、「紀」の「新羅親征」から見ていくことにする。

 

【紀:気長足姫尊 神功皇后 「神助により新羅親征】―(A)

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ)に、和珥津より発ちたまふ。時に、飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中(ワタナカ)の大魚(オフヲ)悉(コトゴトク)に浮びて船を扶(タス)く。則ち大風順に吹き、帆舶波(ホツムナミ)に随ひ、艣楫(カジカイ)を労(イタツ)かずして、便(スナワ)ち新羅に到る。時に、船に随へる潮波(ウシホ)、遠く国中に逮(ミチイタ)る。即ち知る。天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)の悉に助けたまへるかといふことを。新羅王(コニキシ)、是に戦戦慄慄(オヂワナナ)きて厝身無所(セムスベナシ)。則ち諸人(モロモロノヒト)を集へて曰く、「新羅の国を建てしより以来(コノカタ)、未だ嘗(カツ)て海水(ウシホ)の国に凌(ノボ)るといふことを聞かず。若(ケダ)し天運尽きて、国、海と為らむとするか」といふ。是の言(コト)未だ訖(ヲハ)らざる間に、船師(フナイクサ)海に満ち、旌旗(セイキ)日に耀き、鼓吹(コスイ)声を起し、山川悉に振(フル)ふ。新羅王、遥に望みて、非常(オモヒノホカ)の兵(イクサ)将(マサ)に己が国を滅さむとすと以為(オモ)ひ、讋(オ)ぢて失志(ココロマト)ひぬ。乃今(イマシ)醒めて曰く、「吾が聞かく、東に神国有り、日本と謂う。亦(マタ)聖王(ヒジリノキミ)有り、天皇(スメラミコト)と謂ふといふことを。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵(イクサ)を挙げて拒(フセ)くべけむや」といふ。即ち素旆(シラハタ)あげて自ら服(マツロ)ひ、素組(シロキクミ)して面縛(メンバク)し、図籍(シルシヘフミタ)を封(ユヒカタ)めて、王船(ミフネ)の前に降(クダ)る。

・・・・・ (中略) ・・・・・

爰(ココ)に新羅王波沙・寐錦(ハサムキチ)、即ち微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)(注1)を以ちて質(ムカハリ=人質)とし、・・・官軍(ミイクサ)に従はしむ」

 

と、出征の途上、対馬に寄り、和珥津から新羅へ向かったことが記されている。そして、対馬と半島との関係の中で皇后の名前が出てくる。

 

 この神功皇后の対馬寄港については、島内各所にさまざまな云い伝えや伝承地を残すが、これについては各々の由緒等において詳述する。ここでは、人質「微叱己知(ミシコチ)」の記述に着目し、実在云々の検討を進めてゆく。

 

(注1)         微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)

「微叱己知」は奈勿王(ナコツオウ)の子「未斯欣」(『三国史記』)のこと。次に記す「紀」のBの「微叱己知(シチコチ)」と同一人。「三国遺事」は「美海」、「未叱喜」とも。「波珍干岐(ハトリカンキ)」は新羅17等官位の第4「波珍飡(海干)」にあたる。〔以上、「紀」の注。P430

【2につづく】

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