「特殊指定維持! 開いた口がふさがらぬ!!」
とうとう、やられてしまった。自民党の中川秀直政調会長は31日、新聞の宅配制度や同一紙の全国一律価格を支えている「特殊指定」問題で、公正取引委員会が当面、指定維持を決めたことを明らかにした(共同ニュース5/31)そうだ。
与野党議員がそろって特殊指定維持を声高に小学生の音楽の授業のように歌い上げていた最近の様子から、竹島公取委委員長は、いつまで見直しの姿勢を崩さずに頑張れるか、心配していた。しかし、冒頭の報道のごとく、公取委は6月2日に発表した(http://www.jftc.go.jp/pressrelease/06.june/06060205.pdf)「特殊指定見直しについて」で、「新聞特殊指定については、今回の見直しでは結論を出すことを見合わせることとした」と、新聞業界に対し全面的に白旗を掲げた。
ペンの力とは何ぞや! 報道の自由とは何ぞや!
メディアは誰がために存在するのか!
わたしたちがマスメディアに対して報道の自由の権利を与えているのは、国民の知る権利、表現・思想の自由を担保するためであると、わたしは考えている。決して、メディア業界の私利私欲を満足させるために、ペンの力を容認しているわけではない。特殊指定廃止については、これ迄の一連の報道は「厚顔無恥」「牽強付会」「文化の啓蒙者はメディアのみ」といった言葉がぴったりくる、いつしか傲慢でいやらしい化け物となってしまったメディア業界が、その力を存分に発揮した「事件」であったといえる。
こうした「破廉恥な事件」を「社会の木鐸」「社会の公器」と常々、自らが唱えて憚らぬ新聞業界が起こしてしまったことを、世の良識ある人々はどう判断し、どう糾弾していくのだろうか。わたしは、民主主義は「権利」と「義務」の間に緊張感のある厳正な運用ルールがなければ、健全な形の民主主義は維持できないと思っている。
その厳正な運用ルールを最も厳格に護らねばならぬのが、ほかならぬ「時の権力をチェック」し、「国民の知る権利の代理人」としてのメディア業界であると考えていた。しかし、それはあまりに子供じみた幻想であった。このようなマスメディアしか存在せぬ日本に、しっかりとした民主主義が根ざすとはとても思えぬ。土曜日の朝からこんな不愉快なことを記すつもりはなかったが、この国の行く末を考える時に、こんなことで本当に良いのだろうかと、私の気持ちは、まるで今朝の天気のように暗く沈んでしまった。