湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=西明寺
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の秘仏一挙公開を廻った=金剛輪寺
湖東三山巡りの最後に、十一面観世音菩薩をご本尊とする百済寺(ひゃくさいじ)へ向かった。
百済寺に向かう細い参道にベンガラを塗った家並みがつづく。何だかここから別世界へ入ってゆくような気がしてくる。
百済寺は飛鳥時代・推古14年(606年)、聖徳太子の発願により百済国の梵閣龍雲寺に擬して造られた。標高772mの押立山の山腹にあり、戦国時代に城塞化された城郭寺院だった頃の石垣遺構も残る湖東三山の中で最も古い寺院である。
平安時代に天台宗に改宗してからは300余坊の塔頭を構え、「湖東の小叡山」と云われるほどの大寺院として栄えた。
その後、大火事や兵火によってほとんどが焼失、その後、本堂などの再建は果たしたものの往時の殷賑を取り戻すことはなかった。
さて、駐車場で車を降りると大規模な石垣のようなものが見える。
その一画を割るように設けられた石段を昇った先に喜見院本坊(不動堂・書院・庭園)の建つ境内に入る裏門(受付)がある。
裏門をくぐると眼前に平坦地が広がる。
遥か昔、二百を超える僧坊が林立していたかのと思うと、意味合いは異なるが、これもひとつの“兵どもが夢の跡”なのだとの思いが胸に去来した。
往時をしのぶ唯一の縁といえば、本坊辺りを二百坊跡、表門を挟んだ反対側を百坊跡と呼びならわす呼称のみである。
不動堂脇から書院横を抜けて池泉回遊式庭園へ出る。
切り出した自然石を池の周りに幾何学的に配した庭園である。
切石を伝って池の反対側の狭い石段を昇ると、そこが天下の絶景を見渡せる自然の展望台となっている。
展望台に立ち、前方を見はるかすと書院の甍の向こうに湖東平野が広がる。その向こうに初夏の陽光に白く光る琵琶湖をわずかに見下ろすことができる。
さらに視線を凝らすと、とおくに薄墨を掃いたような比叡山の山容が認められる。
その比良山脈の遥か先にこの地に多く住みついたという百済人の母国、百済国があるという。悠久の歴史を見つめてきた壮大な浪漫に満ちた望郷の丘である。
そして庭園を抜けて、いよいよ本堂へと向かう。長い石段が上っている。
この百済寺城の石垣の大半は織田信長が築城した安土城の礎とするため“石曳き”され、途中にわずかに城郭寺院時代の石組みも残されている。
なかなか雰囲気のある味のある参道である。
そして、巨大な草鞋を掲げる仁王門に到達する。
そこから石段がまっすぐに本堂へと登っている。急勾配の石段を一歩一歩、踏みしめながら歩む。
やはり中世の一時、百済寺城であったことを偲ばせる苔生す石組みが圧倒的存在感を示している。いまにも鬨の声が頭上より響(とよめ)いてくるようなそんな気分になってくる。
そして石段を登り切るとそこは標高350mの押立山の中腹。突当りに城郭の石垣のような石組みにぶつかる。
石垣を右に迂回して、重要文化財の本堂の側面へ出る。
百済寺は唐破風付き庇を掲げる正面から堂内へと入る。
堂内は簡素かつ剛健な造りである。
その正面をふさぐ格子の内にお目見えが叶うご本尊、十一面観音立像が安置されていた。
高さ3・2mにおよぶ大きな観音様である。
百済国の龍雲寺と百済寺の本尊は、同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わっている。巨木の上の部分が龍雲寺、下の根っこの部分から彫り出したのが百済寺の観音様であるという。そのため、秘仏・十一面観音立像は“植木観音”とも呼ばれているのだそうだ。
湖東三山最後の秘仏をゆっくりお参りし、しずかな境内へ出る。本堂左手に千年菩提樹が植わっている。
信長の焼き討ちの際に本来の幹は焼け崩れたものの、樹霊が命をつなぐかのように、その蘖(ひこばえ)は成長し、いまも本堂の脇に立っている。
絶対権力者の暴挙により形ある大伽藍は姿を滅したものの、百済寺の菩提樹は連綿と時を刻み、その命を紡いできている。
こうした姿を見せられると、ひょっとして神様、仏様はやはり存在しているのだ、人の心の中に秘かに棲まわれているのだと、そんな心持ちに捉われていったのである。
湖東三山・秘仏巡り、思いがけず一挙にその礼拝が叶い、また一段と仏像の魅力に魅かれてゆく老夫婦であった。