新聞には「版建て」という記事の締め切り時間の違いによる紙面記号がある。紙面の欄外に13版とか14版と書かれているのがそうである。版数が小さい方が記事の締め切りが早い紙面づくりとなっていることを表わす。
朝日新聞社大阪本社整理部次長(当時)の河内哲嗣(かわちてつし)氏が平成17年4月18日に関西学院大学で行なった「新聞と現代社会」という講義のなかで、そのことを「10版は午後10時半の締め切り」「13版の締め切りというのは午前0時前後です。14版になりますと午前2時前ぐらいです」と説明している。要は版の違いによって同じ新聞社であっても紙面に掲載される記事の項目や内容に異なる部分が出てくることになる。具体的に東京地区でいうと同一新聞社の紙面内容で、多摩地区の一部で宅配される新聞と23区内で宅配されるものは微妙に異なったり、場合によっては大きく異なることがありうると言うことである。
時々刻々事態が変化してゆく事件報道などは、記事掲載時点でのリアルタイムな情報を載せるため、遅い版の方がより情報量が多くなり、その説明や解説記事もより詳細となることが多い。そうした場合は報道の迅速性に照らしてみても、版により記事内容が異なることに異論はない。読者に少しでも早く情報を知らせるという適時性の原則に適っているからである。
しかしスクープ記事で多く見られるケースだが、企業の合併報道など12版で報道が可能である状態にもかかわらず、スクープを他社に気取られることを嫌って敢えて14版の最終版まで記事掲載を意図的に延ばすケースがある。一社のみが朝刊一面トップをそのスクープ、特ダネで飾ることは記者冥利につきることであろう。実際に日本新聞協会は、毎年、スクープと呼ばれる記事のなかで一年間のうち最も顕著な功績をあげた新聞人に「新聞協会賞」という伝統ある賞を与え、そのジャーナリストの功績を長く称えることになる。編集部門のなかのニュース部門受賞作を最近の3年間で見ると、06年度「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」(日経)、05年度「紀宮さま、婚約内定」(朝日)、04年度「UFJ、三菱東京と統合へ」(日経)とその赫々(かっかく)たるヘッドラインから、伝統の重みとジャーナリストのプライドの充溢がわかろうというものである。
早刷りや最終版毎の宅配エリアの違いは新聞社毎に工場の立地や数によって異なるが、おおまかに東京本社管轄を例に取ると、関東圏で言えば12版は東京から遠い関東地方、13版は近い首都圏、14版(最終版)は東京23区と多摩地区の一部や横浜市・川崎市の一部などとなっている。自宅で読んできたはずの一面記事が、会社に行ってまったく異なっていた、大特ダネを会社で知ったという類の経験を持つ人々が結構多いのではなかろうか。つまり最終版を待ってスクープを掲載することは、関東圏を例にとれば結果として、「東京23区と多摩地区の一部や横浜市・川崎市の一部」の購読者のみにその新聞社は意図的に情報優位性を与えていることになる。
昨年3月に日本新聞協会が世間に対して表明した「新聞特殊指定の堅持を求める特別決議」において、新聞の特殊指定廃止は再販制度を骨抜きにするとし、その堅持すべき理由に「販売店の価格競争は配達区域を混乱させ、戸別配達網を崩壊に向かわせる。その結果、多様な新聞を選択できるという読者・国民の機会均等を失わせることにつながる」と訴えた。これを読み替えれば同一紙での情報提供は読者・国民に「機会均等」になされるということのはずである。
ところが、この「読者・国民の機会均等を失わせることにつながる」行為を新聞社自らが「スクープ記事」という情報提供においては確信犯的に行なっていることになる。ジャーナリズムいやジャーナリストの使命とは、つかんだ事実をいち早く正確に読者・国民に伝えることが大原則のはずである。「国民の知る権利」を錦の御旗として公権力や不祥事を行なった企業、犯罪被疑者等に立ち向かっていく姿勢は、あるときは力強く頼もしく見える。しかしその一方で、知る権利を声高に叫び、必要以上の取材攻勢をかけ人民裁判のような報道姿勢を見せることも現実である。そのときはある種ペンという権力を振りかざすタイラントのように見えることがある。
自己の既得権益擁護に弄する「機会均等」の理屈は、スクープというジャーナリストとしての「功名が辻」にはまったく援用されない。いや「機会不均等」を敢えて行なうことは、ジャーナリストとしての良心を後ろに置き忘れた背信行為であるとすらわたしには思える。ましてや「特別決議」でいう「同一紙同一価格」のスローガンを掲げながら、スクープという意図的な情報格差を生じさせる行為はあきらかな読者差別であり、そのスローガンが自己権益擁護のみを目的としていることをはしなくもさらけ出していると言わざるを得ない。