神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1



 


左の舗装道をゆっくり上った先、左手に「玉の井」 ・正面、三柱鳥居

 

古くは和多都美神社の地続きの境内であったのだろうが、今は三之鳥居と四之鳥居の間をりっぱな舗装道路が横切り、その道路を車で1、2分行った左手、浜辺に降りる細い坂の先に「玉の井」はある。10mほどの坂を下ると、右手に石の鳥居があった。扁額に和多都美神社とある。その鳥居正面奥の木陰に「玉の井」が見えた。

 


玉の井周辺の地図


鳥居の奥正面に「玉の井」

玉の井の鳥居の扁額
和多都美神社と書かれた扁額 



玉の井で出逢う山幸彦と豊玉姫
 

 

「紀」の「神代下第10段」に、『(彦火火出見尊は)忽(タチマチ)に海神(ワタツミ)の宮に至りたまふ。其の宮は、雉�犬(チテフ・注1)整頓(トトノホ)り、台宇(ダイウ・注2)玲瓏(テリカガヤ)けり。門前に一つの井有り。井上(イノホトリ)に一の湯津(ユツ・注3)杜樹(カツラノキ・注4)有り。枝葉扶疏(シキモ=繁茂)し。時に彦火火出見尊、其の樹下に就(ユ)き、よろほひ彷徨(タタズ)みたまふ。良久(ヤヤヒサ)しくして一(ヒトリ)の美人(ヨキオトメ)有りて、闥(ワキノミカド・注5)を排(オシヒラ)きて出づ。遂に玉鋺(タママリ)を以ちて来り水を汲まむとす。因りて挙目(アフ)ぎて視(ミ)つ。乃(スナハ)ち驚きて還(カヘ)り入り、其の父母に白(マヲ)して曰(マヲ)さく、「一の希しき客者有り、門前の樹下に在す」まをす。海神、是に・・・』

とある。海神の宮に着いた山幸彦(彦火火出見尊)が門前の井戸のほとりにある桂の木の枝に腰かけ、水を汲みに来た豊玉姫が井戸の水面に映る山幸彦を見つける有名な場面である。

 

 その美しい鋺(ワン)に因んだ「玉の井」がこの満珠瀬と干珠瀬に挟まれた小さな浜のほとりにあった。脇に大きな木があり、緑の葉を繁茂させていたが、桂の木ではなかった。

 

大きな木の下に強い日差しをさけるように玉の井が
 

 

この井戸は今でも水が湧き出ているとのことであり、柄杓が井戸の蓋の上に置かれていた。周囲に夏草が生い茂り、草いきれも激しかったが、目を閉じて小さい頃に読んだおとぎ話を瞼の内に浮かべて見ると、雑草と思われた夏草は龍宮城を飾る色とりどりの藻に変じ、むっとした草いきれは、桂の木が放つ爽やかな薫りのように思えてきた。

 


今でも湧水が出ているという玉の井


周辺には夏草が生い茂る 

 

 

鳥居を背にして眼前には太田浜が広がっている。すぐ左手には満珠瀬があり、その左隣の浜が真珠の浜となる。満珠瀬には豊玉姫の銅像が建てられている。また、目を右手に転じると、汀に沿ってちょっと斜め右手に干珠瀬が見えた。穏やかで、豊な海がどこまでも広がっている、そんな気持ちがわたしを包み込んだ。わたしは、この和多都美の宮殿のほとりに、いま、まさに立っているのだと実感した。

 


穏やかな太田浜の水面


山の落ち込んだ突端部が干珠瀬(満珠瀬より撮影)


満珠瀬に建つ豊玉姫の像
 

 

 鳥居の脇に小屋があった。中に二艘の和船が置かれていた。二人の若者が一生懸命、船の手入れをしていた。近く、競漕があるとのことで、その準備に余念がないといった様子であった。後で調べたところ、その競漕は「船ぐろう」と呼ばれるものであった。

 


「船ぐろう」に 出る二艘の和船

 

境内の拝殿前の建屋に和船が一艘、収められていたが、この「船ぐろう」でかつて優勝でもした船であったろうか。

 


拝殿前の脇に置かれた和船 

 

和多都美神社では、古式大祭として毎年旧暦81日(今年は98日)に、「船ぐろう」と呼ばれる櫓漕ぎ和船二艘による競漕が行なわれる。櫓を11丁使い、神社へ向かって沖合から片道200mで争われる。

 


壱岐にも「船グロウ」と呼ばれる同様の習俗が残っている。当社の「船ぐろう」は昭和56年に復活したそうだが、対馬内でも海神神社をはじめとし多くの神社や海村で、この「船ぐろう」は催されている。船には神官が乗ったり、神功皇后の新羅征伐を彷彿とさせる女装をした老練の漁師が舳先に乗る例もあり、古来の神事と思われる習俗である。

 

出雲の美保関で白装束の氏子による二艘の古代船による競漕は、「諸手船(モロタブネ)神事」と呼ばれ、今に、「大国主命が国譲りの際に美保神社の祭神・事代主命に諸手船で使者を送った」との故事を伝えている。

 

対馬や壱岐の「船ぐろう」が沖(海)から浜(陸)へ向かって競争し、浜に飛び降り、旗や日の丸、御幣などを取り合うという行為は、今の私たちに何を伝えようとしているのだろうか。

 

対馬の随所でこの「船ぐろう」が絶えては復活、絶えては復活を繰り返しながら、現代に継承されて来ていることに、対馬の人々の血のなかに、神功皇后の新羅征伐を援けた海人族としての誇りというDNAを見つけたような気がした。

 

時間は移ろい、さっき歩いた真珠の浜に潮が満ちはじめ、二之鳥居までが潮に浸かっていた・・・

 


いつしか潮が満ちて来た・・・(満珠瀬より) 

 

(紀の注1)雉�犬(チテフ):城の長く高い女垣。「雉(チ)」は城の垣の尺度の単位で、横が三丈、高さが一丈。

(紀の注2)台宇(ダイウ):「台」は、「説文」に「台は四方を観るに高き者也」とある。「宇」は軒、屋根の意。二語でウテナの意。

(紀の注3)湯津:「神聖な」の意。

(紀の注4)「杜」は境界木としての木の意(新撰字鏡)で、ここでは、カツラの木(楓はヲカツラ、桂はメカツラ)。天神の降臨の木として登場。

(紀の注5)「脇の御門」の意で、宮廷人が日常通用する小門。