彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

浄瑠璃寺

京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

木津川市加茂町西小札場40


祇園祭宵山の日中を使って、南山城へと足を伸ばした。

1・宵山・函谷鉾
祇園祭宵山・函谷鉾

先にアップした観音寺(京田辺市)、海住山寺(木津川市加茂町)につづき、皆さんも一度は耳にされたことがあろうかと思う浄瑠璃寺といういかにも旅情を誘う名の古刹を参拝した。

2・浄瑠璃寺参道
浄瑠璃寺参道

当日は生憎、中央の宝池が州浜遺跡の発掘調査中であった。

3・遺跡調査

そのため伽藍配置の美しさが半減したきらいはあったが、人影も見えぬ山深い境内でその在りし日の州浜を思い描きつつ浄土世界に想いを馳せることができたのも一興であった。

4・宝池は調査中
浄土式庭園の中央に宝池、右手に阿弥陀堂、左手に三重塔

パンフレットによると浄瑠璃寺は平安時代、1047年に西小田原浄瑠璃寺(本尊・薬師如来)として創建されたことに始まる。

5・浄瑠璃寺山門
浄瑠璃寺山門

そして、白河院や鳥羽院が治天の君として院政を布いた11〜12世紀頃、京都を中心に皇室をはじめ貴族たちの間で九体阿弥陀堂の建立が争われた。


この浄瑠璃寺においても1107年、その背景となった新たな仏教の教えに基づき、現在の本堂となる九体の阿弥陀仏を安置する “九体阿弥陀堂”が造営される。

6・1九体阿弥陀如来像
本堂に安置された九体の阿弥陀如来像(浄瑠璃寺・絵葉書より)

その新たな教えが九品往生(くぼんおうじょう)という考え方であった。


浄土三部経のひとつ“観無量寿経”のなかにある人間の努力や心がけなど衆生の機根によって極楽往生するにも下品下生(げぼんげしょう)から上品上生(じょうぼんじょうしょう)まで九つの往生の段階があるという九品往生(くぼんおうじょう)という教えである。


この教えに拠って、己の極楽往生を願う貴族たちが、九つの往生のパターンを具現する阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を競うようにして建てたというわけである。

6・九体阿弥陀堂
九体の阿弥陀仏が祀られる九体阿弥陀堂・本堂

あの藤原道長が寛仁4年(1020年)年に建立した無量寿院阿弥陀堂(法成寺阿弥陀堂)を嚆矢(こうし)として30余例が記録に残っているが、唯一現存するのが1107年に建立されたこの浄瑠璃寺本堂である。

7・本堂・中尊の見える空間
本堂正面、一体々々の如来が堂前に一枚の板扉を持つ

そして1178年には、東面する阿弥陀堂(彼岸)の前に苑池を置き、東(此岸)に西面する薬師如来を祀るいわゆる浄土式庭園が造られ、現在の寺観が整備される。

8・此岸から本堂を
東の此岸から阿弥陀堂を見る

現在の浄瑠璃寺の伽藍配置は次の如くである。

9・浄瑠璃寺伽藍配置図
浄瑠璃寺のパンフレットより

中央の宝池を中心に東に薬師如来を祀る国宝・三重塔が建つ。

10・浄瑠璃寺・三重塔  11・彼岸から三重塔を
国宝三重塔、内に秘仏薬師如来像を安置

池の西、三重塔に対するように阿弥陀如来九体を安置する本堂・九体阿弥陀堂が建つ。

12・三重塔階段上から石燈籠と阿弥陀堂を見る
三重塔から西の阿弥陀堂を見る。手前の石燈籠は重文。

このように当庭園は平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)などの擁する浄土式庭園の平安中期頃からの典型的な様式となっている。


さて、ここで浄瑠璃寺のパンフレットの説明に分りやすく書かれているので、簡単に仏さまについて転載しておく。


薬師如来

「東の如来“薬師”は過去世(かこせ)から送り出してくれる仏、過去仏という。遠く無限に続いている過去の因縁、無知で目覚めぬ暗黒無明の現世に光を当て、さらに苦悩をこえて進むための薬を与えて遺送してくれる仏である。」

13・秘仏・薬師瑠璃光如来像
三重塔内の秘仏・薬師如来像(絵葉書より)

釈迦如来弥勒如来

「苦悩の現実から立ちあがり、未来の理想を目指して進む菩薩の道を、かつてこの世に出現して教えてくれたのが、“釈迦”であり、やがて将来出現してくれるのが“弥勒”で、共に現世の生きざまを教えてくれる仏、現在仏という。」


阿弥陀如来

「西の如来“阿弥陀”は理想の未来にいて、すすんで衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏、未来仏、また来迎の如来という。」


そして、太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来であり、太陽がすすみ沈んでゆく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来ということなのだそうだ。

14・九体阿弥陀如来像・中尊
九体の阿弥陀如来の中尊像

だから、当寺の寺号はそもそも創建時のご本尊である薬師如来がおられる浄瑠璃浄土に因んでいることがこれによってよく理解できると思う。

さらに本来の礼拝の作法であるが、同じ形態の宇治の平等院でもこの浄瑠璃寺でも、古来、人々は浄土の池の東、当寺では三重塔が建つ側(此岸)から彼岸におられる阿弥陀仏に来迎を願って礼拝したという。

そして、春分・秋分の“彼岸の中日”には九体仏の中尊、来迎印を結ぶ阿弥陀如仏の後方へ沈んでゆくのだという。

浄瑠璃寺は南山城のさらに奥まった静寂の地に位置する。

15・山門から夏の参道を
山門から夏の参道を見る

阿弥陀堂内のうす暗い空間にわが身と九体の阿弥陀さまだけが存在する世界。ひたすらに内向的な心象世界が瞼に映し出される。

そんな聖なる空間をもとめてこの清浄の地へおもむき、現世の懊悩をすすぎ落とし未来の心の安寧を静かに願ってみてはいかがであろう。

京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京田辺市普賢寺下大門13


最近の朝日新聞に関するブログ投稿で荒んでしまった心を落ち着かせねばと、先月、南山城を一日かけて周り、気高き仏様をお参りし心が穏やかに安らいだことを思いだし、写経でもするつもりで心に残ったいくつかの寺院をご紹介する。


まず、南山城、京田辺市にある観音寺である。

1・観音寺
観音寺・本堂を見る

観音寺は白鳳2年(662)天武天皇の勅願により、義淵僧正が親山寺(筒城寺)を開基。その後、天平16年(744)聖武天皇の勅願により良弁僧正(東大寺の初代別当)が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺(そくちょうざん ふけんきょうほうじ)と号し十一面観音立像を安置したといわれている。

2・観音寺略縁起
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そもそも今回、南山城を訪ねる契機となった寺院が実は観音寺であった。


というのは、今年の葵祭を観覧した際に京都国立博物館で開催されていた“南山城の古寺巡礼”展を併せて参観した。

3・南山城古寺巡礼・禅定寺の重文十一面観音立像

南山城地域に点在する十一の寺院の寺宝が一堂に会する機会は稀だということで、ちょうどよい機会と京博を訪ねたのである。

4・京都国立博物館
南山城の古寺巡礼展が開催された京都国立博物館

観音寺もその一つの寺院として参加していた。そして、国宝であるご本尊は出展されていなかったのだが、観覧後、京博の売店で “これは美しい”と記念に買い求めた絵葉書が、実は観音寺の国宝・十一面観音菩薩立像であった。


当日、たくさんの仏像を見たことで、この美しい観音様もいらしたと思い込んで買ったものだ。後日、ブログにその写真を掲載したところ、京博にその観音様は出展されていませんでしたよとのご指摘がコメントで送られてきた。


いやはや、赤面しきりの失態であった。


そこで、今回、祇園祭観覧の合間を縫って、一日、木津川沿いに点在する南山城の寺院巡りを敢行、観音寺の国宝十一面観音菩薩さまにお会いしてきたのである。

5・木津川沿いに多くの古刹が点在する
海住山寺から木津川沿いに観音寺へ向かった

当寺はまず本堂手前左手前にあるご住職(三神栄弘氏)のご自宅のインターフォンで来訪を伝え、ご本尊を拝観したい旨を伝える。

6・ご住職のお宅
住職がお住いのお宅

すると当日は住職の体調が優れぬと奥様が出てこられ、本堂へと案内された。

7・本堂
本堂

本堂の階段を昇り、引き戸を開けて堂内へと導いてくれる。

8・ここから上がります
ここで靴を脱いで正面の引き戸から入ります

堂内に差込む陽光で明るくなった本堂には奥様とわたしら夫婦と運転手さんの4人だけ。身の引き締まる厳粛な空間である。


そこで奥様が諄々とご説明をしてくれるのである。まさにご本尊様を独り占めにしている気分である。

9・本堂斜めより
この本堂内の厨子に十一面観音菩薩立像が安置されている

そして大きな厨子の観音扉が開けられる。あの絵葉書で見た十一面観音立像が現われた。単に気高く気品のある御顔立ちという以上に、どこか母にも似た慈愛に満ちた御顔なのである。

10・大御堂観音寺・国宝十一面観音立像
国宝・十一面観音菩薩立像(京博売店絵葉書)

そして、仏様に対してこう申し上げるのは甚だ不謹慎であることは重々承知であるが、その腰のくびれた立ち姿はどこか艶めかしく、肉の量感が伝わってくるのである。


厨子の真ん前に立ち喰い入るように見上げていると、奥様が少し離れてご覧になったほうがこの仏様はもっと美しいですよと教えてくれた。


そして見る方向でお顔が変わって見えるとも教えてくれた。そこで左斜め、右斜めと立ち位置を変えてみると、あら不思議、仏様のお顔がふっくらと見えたかと思うと、今度はすっきりしたお顔に見える。


名工の造形の妙であろう、光の加減なのだろうか、本当にその面立ちが変わって見えるのである。仏像の国宝は数多くあるが、これほど艶めかしく、にも拘らずに気高く美しい仏様は珍しい。木心乾漆造という手法がこの質感と嫋(たお)やかな曲線美を造りだしているのだろうか。


美しい菩薩さまといえば、わたしは薬師寺東院堂の聖観世音菩薩もその御顔立ち、シルエットともにやはり気品のある美しい仏様で大好きである。

11・薬師寺・西塔  12・聖観世音菩薩
薬師寺廻廊越しに西塔    聖観世音菩薩立像

鋳造と乾漆の違いなのだろう、十一面観音立像はその体温までがわたしのところに伝わって来るかのような温かみのある嫋やかな曲線美をもつ仏様であった。


そして、最後に一番のビューポイントを奥様が教えて下さった。


住職が日々の勤行をされる時にお座りなる場所、磬子(けいす)の前の座布団に坐って仰ぎ見るお姿が一番美しいのだと。


そこで、わたしたちも順番にそこへ坐らせていただき、御本尊のお顔を仰ぎ見た。


美しく、荘厳である。


京博で勘違いした仏様・・・こうしてお会いできて本当に幸せであった。


それから外へ出て、本堂手前左手の小高い丘陵の上に、当寺の鎮守である地祇神社が祀られていた。鳥居が本堂のすぐ脇にある。

13・地祇神社
地祇神社鳥居

延喜式神名帳に『山城国綴喜郡 地祇神社』とある式内社に比定されており、社名はクニツカミノヤシロと読むが、地元ではチギ神社と呼ばれているとのこと。


創祀は聖武天皇の時代、この観音寺(普賢寺)が創建された頃まで遡るという古社である。延喜式には祭神一座とあることからみると、オキナガタラシヒメ(神功皇后)を主祭神とするらしい。


地祇神社が建つこの地は、もともとの普賢寺「息長山普賢寺」があった場所と推定され、塔の礎石や7、8世紀の古瓦などその遺構と思われる遺跡、出土品が存在する。

14・本堂前に池
往時は大伽藍を擁した観音寺(普賢寺)もいまは本堂前に小さな池があるのみ


また、普賢寺に隣接する天王地区には、これも延喜式式内社である朱智(しゅち)神社が位置している。貞観11(869)年に朱智神社の祭神として祀っていた迦爾米雷命(カニメイカヅチノミコト=牛頭天王)を祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院に遷したことから八坂神社の勧請元となる神社である。


そうした縁起から朱智神社は“元祇園社”と呼ばれ、祇園祭に際しては朱智神社の氏子が奉じた榊をここ天王地区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷」という行事があり、その榊を受けて山鉾巡行を始めたとい言い伝えが今に残されている。現にわたしはその伝誦を観音寺の奥様から直にお伺いした。

15・鐘楼の前に東大寺お水取りととの所縁の石碑
鐘楼前に”お水取り”の竹送りの碑(良弁上人の所縁)

祇園祭を楽しみに京都を訪れ、たまたま美しい観音様にお会いしに伺った場所の辺りが“元祇園社”と呼ばれる深い所縁を持つ神社に所縁のある場所であったとは、何か十一面観音様のお導きのようなまことにもって不思議な縁を感じたのであった。


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