「出処進退――永田寿康衆議院議員」

 

 今回の永田寿康衆議院議員の起こした偽メール騒動を見ていて、つくづくと云おうか人間の出処進退の難しさを感じるとともに、日本人から行動の美学という規範が根こそぎ失われてしまったことにほとほと愛想が尽きた。

 

 衆議院懲罰委員会自体のやりとりは、政党間の党利党略で行なわれており、そのことをここでとやかく言う気はない。言いたいのは、人間、ことに男の出処進退についてである。永田議員の本件における振る舞いは、一言で斬り捨てるとすれば、「見苦しい!」の寸言に尽きる。よく言われることだが、人間、間違いはある。だから間違いを犯した人間がすべて責められるべきではないし、間違いを起こした人間がその価値を失うわけでもない。そんなことは今更言うまでもないことである。しかし、人の価値は過ちを犯した後の行動でこそ量られるべきものであり、場合によっては、現在の自分の社会的地位を捨て去る出処進退によってこそ量られるべきものであると考える。こんなことを言うこと自体、日本人の誇り高き先祖の人々たちの苦笑、いや失笑を買うことは分かったうえで、敢えて永田議員の出処進退について苦言を呈せざるをえない。

 

 彼は今回の責任の本質が何であるか分かっていないのだと思う。怪しげな情報仲介者に騙されて武部幹事長の次男を誹謗したことや、ライブドアのホリエモンの疑惑を殊更に言い募ったことにあるのではない。責任は予算委員会と云う国政において最も大事な議論の場を混乱させ、年金制度の見直しや構造偽装事件の解明等国民にとって大切な問題についての審議をすべてストップさせ、国民の目にアイマスクをかけてしまったことにある。そう考えた時、彼の責任の重みがどれ程のものであり、そのことが判断できれば自づから取るべき行動は判然してくるはずである。人々がその人物の出処進退を注視するのは、過ちの責任をとやかく責めるために言うのではない。その人がその過ちの重みをどう量り、どう自身が判断しているかの結果を行動であらわすのが、「出処進退」という行為であるということをよく分かっているからである。

 

 そこに古来よりこの日本という国の人々は、行動の規範、美学を求めていたように思う。こう考えが及んだ時に、渡部恒三民主党国対委員長が言われる「若い者も侍として腹を固めるときがあることを知るべき」との言葉の重みを永田議員並びに民主党の若い指導者層の議員たちに感じて欲しいと切実に思う。