松代散策=1−松代町の概要

松代散策=5−真田家所縁の寺(長国寺・恵明禅寺)

 松代は、元和
8年(1622年)に同じ信濃の上田から移封された初代藩主真田信之に始まり、幕末の真田幸民までの十代、約250年間にわたり、一貫して真田松代藩の城下町として栄えた。


北不明門横に海津城跡石碑
本丸内に立つ海津城跡の石碑

松代城跡石碑
松代城南門跡に立つ石碑
 

 

 町の中核となる松代城はそもそも、上杉謙信との戦さの拠点として武田信玄が築城したものである。三日月掘や丸馬出などの遺構から甲州流築城法で築かれたものと確認されており、川中島の戦いで信玄が茶臼山より移動し入城した海津城がこの城の前身にあたる。往時の城将は武田二十四将のひとり高坂弾正忠昌信であった。

 松代城南門をまっすぐ南下し、長野電鉄の踏切を渡るとすぐ左手に池田満寿夫美術館がある(松代駅すぐ西)が、その前庭に松代城の三の堀の遺跡が発掘時の状態のままで保存されている。そのままにされた自然石に胸が締め付けられるような郷愁を感じるのはなぜだろうか。

長野電鉄線路
長野電鉄の線路を渡ります

三の堀遺跡
発掘状態のままの三の堀跡

甲州流築城の図
三日月堀や丸馬出の図もここにあります


 ところで、話はぐ〜んと飛んでしまうが、美術館に隣接して小布施を本店とする甘味処「竹風堂松代店」があり、そこの「長芋の白糸」はお薄と戴いても、なかなかの絶品でしたよ! 散策に疲れた方は、竹風堂の栗羊羹もいいが、「長芋の白糸」お奨めしま〜す! 本当に冷たくておいしかったよ!!


竹風堂松代店
甘味処「竹風堂」松代店
長芋の白糸
長芋の白糸

竹風堂の方寸とお薄
方寸とお薄 


さて、長芋で元気が出たところで、改めて本題に。

 

その後、海津城には1600年に森忠政が入封、「待城」と改名。1603年に松平忠輝が領主として入封、「松城」へ改名される。そして江戸時代に入り、真田三代藩主幸道の時に幕命により「松代城」と改められた。

 

現在の復興された姿(20044月)になるまでは、城址としてはわずかに荒れ果てた石垣がその往時の面影を残すのみであったという。現在の城郭の姿は江戸時代のものがほぼ忠実に再現されている。


二の丸南門から本丸太鼓門を
二の丸南門より本丸太鼓門を望む

前橋・枡形門・太鼓門を望む
前橋から枡形門と奥に太鼓門を見る

前橋から本丸跡水堀と太鼓門
前橋から本丸水堀と城郭

太鼓門から本丸内を
太鼓門から本丸内を
 

 展望台として利用される城内の「戌亥の櫓台」、ここが実質的な天守閣にあたるところだが、そこに登って四囲を眺め渡す。

 すると、3
kmほど西に妻女山(赤坂山・標高411m)が見える。写真で見ると前方の緑の濃い山の右端にポコンとコブのように見えるのが、妻女山。城から見ると意外に近いことに驚く。そんな小さな山に上杉謙信の陣地があったかと想像すると、歴史に名高い第4回目の川中島の戦いに謙信が懸けた意気込みの凄まじさが、実感で伝わってくる情景である。また北東方向の辺りが激戦のあった八幡原である。

戊亥の櫓台

戊亥の櫓台

本丸内・太鼓門を望む
本丸内・南門を望む

櫓台より妻女山を
手前山裾の右端の小さく突き出た処が妻女山

櫓台より八幡原方面を
北東方向が激戦地・八幡原のあたり

櫓台より北不明門を
北不明門

櫓台より北不明門の外郭
北不明門の外郭

皆神山
UFOの着陸する皆神山

 

そして南東方向3kmほどには、世界最古のピラミッドともUFOの基地とも一時期騒がれた皆神山(標高659m)が特異な台形状の姿を見せている。なるほど奇妙な形ではあるが、この山の下にも戦争末期に掘られた地下壕が存在する。