彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

東福門院

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の4――修学院離宮・中御茶屋5

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後水尾上皇を巡る人物と建築物--1へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2の2へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2の3へ

 

 2の4 修学院離宮・中御茶屋(なかのおちゃや)

 

 さて、それでは中御茶屋・中離宮へと向かうことにしよう。

 

 下御茶屋の東門を出ると、眼前には御茶屋山。右が中御茶屋へ。左が上御茶屋へゆく赤松の並木道である。

 

 左手奥に比叡山の頂上を見上げ、右手に御茶屋山、東山連峰が連なる壮大な景観が広がる。中離宮へ向かう松並木の間に田園風景が広がる

比叡山の頂上が・・・

左手奥に比叡山の頂上が・・・

 

中離宮へ

 

ほぼ正面には東に真っ直ぐ傾斜して上る路と南に90度の角度で真っ直ぐ伸びる平坦な路が見える。それぞれの経路が人の身長を少し超える高さに剪定された赤松の並木道となっている。そして上下の御茶屋への松並木の両側には牧歌的な田畑が広がっている。

 

この田畑はそもそも宮内省(天皇家)の財産であったものが、終戦後、天皇家と雖(いえど)も例外規定は適用されず、農地解放政策により小作人の農家へと解放を余儀なくされた。その私有地となった農地が昭和三十年代に入ると次々と新興住宅地への転用が図られ、そのままでは離宮の景観維持に大きな脅威を与えることになった。そこで景観保護の要請から昭和39年(1964年)に上・中・下の各御茶屋(離宮)の間に展開する8万?に及ぶ水田畑地を買い上げて修学院離宮の付属農地としたという経緯がある。

 そして現在はその田園風景を維持するために元の農家の人々に農作業を委託している。しかし農業を継ぐ後継者が少なく、ここにも高齢化のという時代の波が押し寄せ、田畑を荒廃させずに今後、この景観を維持してゆくことに別の意味の難題が持ち上がってきているという。

 

 中御茶屋は表門、中門を抜けて、まず楽只軒から客殿をぐるりと回り、また袖塀付きの表門から出て、南・東の松並木の分岐点へと戻る経路をとる。中御茶屋が当初の離宮造営の構想に入っていれば、おそらく中御茶屋から上の御茶屋へ直接向かう別経路の道が造られていたに違いない。

 

中御茶屋(中離宮)表門中離宮表門

  

 この中御茶屋は後水尾天皇と女官櫛笥隆子の間にもうけられた第八皇女朱色光子(あけのみやみつこ)内親王(16341727 享年93歳)のために建てられた朱宮御所に東福門院(後水尾上皇の皇后・徳川二代将軍秀忠の娘・光子の養母)崩御後に女院御所の一部を移築し、拡張したものが基礎となっている。

 

従来の慣行であれば、女官との間に出来た皇女は内親王宣下を受けずに比丘尼御所で一生を過ごすのが通例であったが、この光子は東福門院の養女となり、内親王宣下されるという厚遇を受けている。

 

 光子内親王は上皇の崩御後、落飾得度しこの御所を林丘寺として読経三昧の生活を過ごしながら、捨て子を引き取り養育するなど慈善活動にも力を入れた心根のやさしい女性であったようだ。そうした心豊かで聡明な女性であったからこそ、父帝は光子を特別に寵愛したのであろう。

 

 紫衣事件など幕府との対峙において朝廷の権威を守ろうとした後水尾上皇。そして上皇の敵である将軍秀忠の娘の徳川和子(東福門院)が、夫たる上皇と女官との間に出来た娘を養女に迎え慈しんだこと。その一方で第一皇女をその営んでいた庵を撤去させ奈良に追いやってまでして離宮を造営、光子内親王という愛娘は離宮の傍に住まわせた上皇。

 

 そうした凡人の愛憎感情を超えた苛烈なまでの人間模様、すなわち自己欲成就の為に実の娘に宿命という桎梏(しっこく)を思うがままに強(し)いる男、また与えられた宿命を甘んじて許容する女に思いを馳せたとき、人間という生き物の自己実現への欲望の凄まじさ、そしてまったく別の次元の意味において自己実現に対する人間の果かないほどの従順さを見てとるのである。

 

 そう考えたとき後水尾上皇という男が、さまざまな人間の気持ちを懐深い心栄えのようなものへと変質させる魅力、人間力といった強烈な引力のようなものを持っていたように思えてならない。

 

 それでは余談はそれくらいにして、それでは中御茶屋の建物の紹介へと話を移していこう。

 

 【後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の5へつづく】

東門からの景観

東門を出た正面の景観

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の1 =修学院離宮5

後水尾上皇を巡る人物と建築物 1 へもどる
 

2の1---修学院離宮の沿革と拝観留意事項


 総門
工事中の総門
総門より修学院道を
総門から修学院道を 
総門拝観者集合場所
拝観者集合場所(総門前)




?沿革
 後水尾上皇には徳川幕府への反骨姿勢や皇位後継問題にからむ後陽成天皇への根深い思いなど粘着質の強いかつ苛烈な意志力を感じる。そうした人物がその造営に甚だしいこだわりをみせた離宮のひとつが修学院離宮である。

 

 修学院離宮の(わたしの撮った写真による)拝観前にその沿革について記すが、宮内庁監修の小冊子「修学院離宮」(平成18年版)の「修学院離宮の歴史」にわかりやすく記載されているので、それを忠実に以下に引用させていただく。

 

「修学院の名は、10世紀後半ここに修学院という寺が建立されたのが始まりであった。南北朝時代以後この寺は廃絶したが、地名は修学院村として残った。修学院離宮は、桂離宮におくれること30余年、明暦元年から2年(西暦16551656年)にかけて後水尾上皇によって造営工事が起こされ、万治2年(1659年)に完成した山荘である。離宮の造営より早く上皇の第一皇女梅宮が得度して、現在の中離宮付近の円照寺に草庵を結ばれていたが、早くから別荘としての適地を探しておられた上皇は円照寺を大和の八嶋に移し、上【かみ】と下【しも】の二つからなる御茶屋を建設した。幕府との間に緊張が続いた時代であっただけに、短期間にこれほど大規模な山荘を造営し得たことは一つの驚異でもある。中【なか】の御茶屋は創建当時の山荘にはなかったものであるが、上皇の第八皇女光子【みつこ】内親王(朱宮【あけのみや】)のために建てられた朱宮御所に東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)亡き後の女院御所の建物を一部移築して拡張した。上皇崩御の後、光子内親王は落飾得度してこれを林丘寺【りんきゅうじ】となされた。明治18年(1885年)林丘寺門跡から境内の半分が楽只軒【らくしけん】、客殿とともに宮内省に返還されたので、離宮に編入したものである。昭和39年(1964年)上・中・下の各離宮の間に展開する8万?に及ぶ水田畑地を買い上げて付属農地とし、景観保護の備えにも万全を期して今日に至っている」【】は筆者の注

 

?拝観にあたっての留意事項

 参観者入口で宮内庁職員のチェックを受け、参観者休所でビデオにより数分間、拝観コースや建築物等の説明を受ける。その後、職員の先導により総面積54.5万?、標高差40mの宏大な苑内拝観がスタートする。苑路約3km、所要時間約1時間20分のコースである。当日(117日土曜日)の参観者はおよそ30名弱でした。

 

 修学院離宮は西から東に約40mの標高差があるので、中御茶屋に向かう松並木以外は全般的に登り坂か反対に下り坂という高低差がある。したがって1時間20分の徒歩による踏破には、かなりの体力と脚力が必要となる。実際に杖を携行していたわたしは、入苑の際に職員から「起伏のある3kmだが大丈夫か」と念押しをされた。ちなみに3年2か月前(200511月)の参観の際には、杖を携行していたが何も言われなかったので、やはり足元不如意と見られる歳になったのだと、年齢を実感させられたものである。もちろんわたしは昂然と「大丈夫!前回も回っているから」と、言い放った。3年前などと言わぬのは当然のこと。

 

参考のために申し上げると、後でアップする「桂離宮」は飛び石伝いに歩く行程が多いので、歩きやすさの面から見れば修学院離宮(基本的に砂利道)のほうが平易である。ただ高低差と苑路距離の面で、桂川沿いの平坦地に建つ桂離宮(参観距離約1km)に較べ、修学院離宮はやはり脚力がしっかりしていないと、後半、歩くのに一生懸命で、景色をゆっくり見る余裕がなくなるという情けない結果となる。

 

 今回も参観の後半、足を痛めた老夫婦(奥様が杖携行)が汗をかきながら景色を愛でる姿は、ちょっと可哀想であった。かく言うわたしも下御茶屋から雄滝に下る急坂以降は何のことはない必死の「八甲田山行軍」であった。1月というのにしっかりと汗をかかせていただきました。と言うことで、足元不如意の参観希望の場合は、事前に宮内庁にご自身の状態をよくお伝えしたうえで、大丈夫と判断されて行かれることをお奨めする。折角の名園拝観が、嫌な思い出にならぬよう入念な準備と調査が必要である。

 

周遊コース途中で引き返す方も実際にいらしたとのことだが、職員が先頭に一人(この方が説明者)、最後尾に一人という見学単位で、途中リタイアということはつまり休所に戻らねばならず、職員の人手やショートカット出来ぬ回遊式庭園の特徴から自他ともに多大な負担をかけることになるので、申込み前の周到な事前ヒアリングがことさらに必要と言う理由なのである。

 

 桂離宮は滑りやすい飛び石注意(雨天は危険)でハイヒールは避け、歩きやすく滑りにくい底の靴がよい。

 修学院離宮は起伏があり距離もあるので、足に負担のかからぬ靴がよく、自身の脚力・体力で大丈夫かを入念にヒアリング(既見学者・宮内庁)しておくと安心。

 

 前置きが長くなったが、それでは苑内、まず下御茶屋に入ってゆくことにしよう。

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の2 下御茶屋につづく

 

  


 

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