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香川県木田郡三木町井戸
お遍路第87番札所の長尾寺で初めて知った静御前と讃岐のつながり。ナビにもうまく入らず、納経所で丁寧に教えていただいた道順で鍛冶池傍らに立つ静御前のお墓を探すも、結構、悪戦苦闘。
道しるべが一切なく、畦道を舗装した車一台通るだけの農道をおそるおそる進んだ先にようやく鍛冶池らしきところへ到達。
駐車場へ車を止め、わずかな坂道を上る。そこに静薬師の説明書きがあった。
階段の上に小さなお堂が見えた。そこが静薬師庵である。
説明書きによれば、長尾寺で得度し、尼となった静御前(宥心尼)はここにささやかな庵をむすび義経の菩提い、この地で没したとある。
そもそも静御前と讃岐の縁であるが、舞の名手であった静御前の母、磯禅師は大内郡入野郷小磯浦、現在の東かがわ市小磯705と番地までわかるほどの豪農、長町庄左衛門とツタの娘として生まれたと詳細な消息が知られている。伝誦とは知りつつも、やはり、番地までが特定さると信憑性が増すから不思議だ。
都へのぼった母に舞を教わり都随一と名を挙げた静御前であるが、義経との悲恋ののち親子して母の郷里である讃岐に戻り、世をはかなみ先の長尾寺で二人して得度、剃髪したのだという。
そして、静御前が宥心尼(ユウシンニ)、磯禅師が磯禅尼(イソノゼンニ)と名乗った。その断髪の際に切り落とした髪を長尾寺に埋めて供養したのが、あの剃髪塚なのだという。まさに“びっくりポンや!!”のお話なのである。
親娘は得度の後、この庵に移り住んだ。そこに侍女の琴路が都からやってきて、三人して義経や鎌倉で殺された静の子の冥福を祈る生活にふけった。
だが、翌年に磯禅尼、その一年後の建久3年(1192年)3月14日には静が24歳という若さでその命を閉じる。
それから7日目の夜、後を追うように琴路も鍛冶池に入水して相果てたという伝説が残っているのである。
そうした哀しい伝誦を伝える鍛冶池は、この日、ほとりに咲く白い花を咲かせ、静かな水面には過ぎ去りし800年余の時空を昇華させたに違いない底抜けの蒼穹を美しくも哀しく映しこんでいた。
湖畔の説明版によると、鍛冶池をめぐる遊歩道は、“四国のみち(四国自然歩道)”の一部をなしていて、諏訪神社から前山ダムまでの約5・5kmの“木漏れ日の道”と名付けられた路ということである。
湖畔の路に立ち、静御前が眺めたであろう景色を目に焼き付けようとした。
北の方角に美しい山容を見せる讃岐富士(白山)が見渡せた。静はこの堤に立ち、あの白山を目にし、東国へ渡るときにいとしい人を想いながら仰ぎ見た富士山を思い起こしていたのかも知れぬと思った。
庵のそばには長年の風雪でお顔も定かならぬ数体の石地蔵が口も開かずさびしげにならんでいた。
抒情あふれる道草遍路の次は第86番志度寺へと向かう。ここも道草遍路のメッカである。次回ブログをお楽しみに。