今から10年前の721日から23日、沖縄県名護市の万国津梁館で第26回主要国首脳会議、通称、沖縄サミットが開催された。

 

 その日、議長ポストには森喜朗総理が座っていた。しかし、札幌、千葉、横浜、大阪など八地域がサミット開催地として手を挙げたなかで、前評判で一番不利と見られていた沖縄に決定したのは、時の総理大臣小渕恵三(2000514日現職総理のまま逝去)であった。国際会議開催の難易度が高い沖縄を開催地とした決断を各報道機関は英断であると評し、「久々に政治を見た」と書いた新聞もあったほどである。

 

 小渕総理は早稲田大学在学中から沖縄東京学生文化協会に所属、毎年夏休み期間は沖縄に滞在した。沖縄決戦で12万人余(うち民間人9万4千人)の県民の死者を出した沖縄の人々の複雑な日本政府への心情、そうしたなかでの本土復帰への強い思いなどを自分の行動と肌で感じ、沖縄の痛みを地元の人々との交流の中で分かち合って来たのだという。

 

 その沖縄との深くて長い関わりについては、衆議院本会議での村山富市元首相(当時社民党衆議院議員)が行なった追悼演説(530日)のなかで、「サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若い頃からの思いに目をつぶることでした。だが、易きにつくため信念を曖昧にし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほど分かります」と語った言葉でよりよく窺い知ることができる。

 

 そして、首相経験者への追悼演説は野党第一党党首が行なうのが慣例であり、時の野党第一党である民主党党首は鳩山由紀夫現総理であったが、遺族の強い拒絶から、沖縄への思いを共有する村山氏の追悼の辞となったものである。

 

後日の国会で前総理への哀悼の意を表明した鳩山党首に対し、野中広務自民党幹事長(当時)が「前首相の死の一因があなたにあったことを考えると、あまりにもしらじらしい発言」と痛烈に批判したことは、現在の普天間移転問題での鳩山首相の一連の言葉と行動の「寸毫(すんごう)の軽さ」を暗示していたように思えてならぬ。
 

 鳩山首相は昨日(54日)の稲嶺進名護市長との会談のなかでも、「沖縄の方々の負担を軽減させることは不可欠な要因」とか、「きょうは今、外で(県内移設反対の)活動(を)しておられる方々の思いというものも勉強させて、拝見させていただきながら、また政府がアメリカともしっかり交渉できる態勢を作る一助にして参りたいとも考えております」といった軽くて空虚な言葉を連発している。

 

 はっきり言って、殊勝らしさを装う臭い演技や言葉面だけでその場凌ぎをするのは、もうやめて欲しい。

 

 沖縄の基地問題は言わずもがなだが、国の安全保障の要諦に関わるものである。ここに来て、「北東アジア情勢がどうの」、「海兵隊の抑止力の認識が浅かった」、「環境が大事」、「辺野古の海を汚したくない」なんて、もう「ど素人」じゃあるまいし、滅茶苦茶な発言、暴言、妄言が飛び出している。

 

 正直、この人物は沖縄問題について真剣に考え、県民の痛みに本気で思いを致した経験は実際のところ一度もないのではないか。でなければ、これまで繰り返し、呪文のように首相の口から発された沖縄県外への基地移転を期待させる言葉の意味が理解できないのである。

 

 今回のたった一日の訪沖で、「気持ちは今でも県外なのだ」と直接伝えることで、沖縄県民の理解を少しでも得ようと考えたのかも知れぬが、あまりにこの人物の常識のなさと現実味のなさに返ってあきれ果ててしまった。県外移転へ期待をふくらませてきた沖縄県民の怒りはいかばかりであろうか。本当に国民、就中、沖縄県民を愚弄し、人の気持ちをもてあそぶにもほどがある。今度という今度は、わたしも心の底から怒りを覚える。

 

 政治は冷徹な現実世界の問題を理想と折り合いをつけるところに、その意味がある。そして政治家はそれを実際に決断、実行させる者として、存在意義を有する。

 

 その意味において、今の民主党政治は政治の体をなしておらず、鳩山由紀夫という人物は政治家としての要件を著しく欠いた人間であると言わざるを得ない。

 

沖縄問題に真剣に取り組んできた故小渕総理の10年目の命日を約一週間後に控えた本日、寸毫の軽き言葉を発し続ける鳩山という人間と較べ、政治家の本質とは何かをしみじみ考えさせられたのである。