彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

日本書紀

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―1)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(神功皇后は実在した!―2)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 13(能理刀(ノリト)神社)


  これまで、この「対馬巡礼の旅」のなかで、神功皇后の伝承を数多く紹介してきた。そのことは、対馬がまるで神功皇后の伝承を載せて浮かぶ島のようにも思えてくるのである。

 

しかし、巷間云われるように皇后が単なる伝説上の人物で、記・紀で語られることがすべて神話で作りごとであるとなれば、対馬に伝わる伝承も実体の裏付けのない、大人が真顔で語るのも憚られる世迷言にもなりかねない。

 

 そこで、そもそも「神功皇后」なる人物は実在したのか、三韓併合などという歴史的事実が存在したのかという素朴な疑問に答えられなければ、対馬に伝わる皇后伝承も色褪せた不毛の作り話と看做さざるを得ず、ここらで、そういった点につき、触れておく必要があろう。

 

1. 神功皇后とは記・紀においてどのような人物として描かれているのか

 

神功皇后(在位201269年〔321389〕)は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子の第14代天皇たる仲哀天皇の御后である。「紀」では、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)、「記」では息長帯比売命(同左)と云う。父は息長宿禰王、母は葛城高ヌカ媛(カズラキノタカヌカヒメ)とされている。

 

「紀」における神功皇后の取り扱いは、摂政であるにも拘わらず独立した項目が立てられ、しかも相当数の頁が割かれている。なかでも、朝鮮半島との軍事抗争にはかなりの労力がかけられている。そして、神功皇后の在位期間が201269年と三世紀前半としていることが、魏志倭人伝で描かれている卑弥呼(景初2年(238年)以降に「親魏倭王」に任じられた)に擬せられる一つの要因となっている。

 

一方、「記」において、神功皇后は夫である仲哀天皇の項立のなかで語られ、独立した取り扱いとはなっていない。但し、仲哀紀のなかで肝心の天皇についての記述は冒頭の崩御の場面だけで、残り全ては神功皇后の事蹟に関することである。要は仲哀紀を神功紀と読み替えて欲しいと云っているようなものであり、その意味で、皇后に対する取り上げ方は、「紀」と同様に、朝鮮半島との確執の中心にいた人物として描かれていることは確かである。

 

 記紀において、神功皇后は、仲哀天皇が神託に背いたことで神の怒りに触れ、崩御した後、神託に沿って新羅親征を進め、それを完遂した人物として描かれる。そして、神が皇后自身に憑依する巫女的性格を色濃く持ち、しかも神の意思を体現し、実行する人物として描かれている。さらにこの話の中では、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)ではなく、武内宿禰が審神者(サニハ)としての役割を果たしている。

 

なお、皇后の在位期間で〔 〕内の年は、紀の干支と百済本記の干支による年次を2運(120年)繰り下げると、朝鮮半島の歴史上の出来事の年次と符合する。その「2運」下げした年次を参考として記載した。

 

2. 神功皇后は実在したのか、三韓征伐などあったのか

日・韓の正史である「日本書紀」と『三国史記(注1)』の中で新羅征伐に関わる記述を拾い、比較考量を行ない、神功皇后の実在および三韓征伐の史実につき検討する。

 

(注1)「三国史記」

高麗17代仁宗の命により作成された、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを紀伝式で記述した朝鮮最古の歴史書(1145年完成)

 

まず、「紀」の「新羅親征」から見ていくことにする。

 

【紀:気長足姫尊 神功皇后 「神助により新羅親征】―(A)

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ)に、和珥津より発ちたまふ。時に、飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中(ワタナカ)の大魚(オフヲ)悉(コトゴトク)に浮びて船を扶(タス)く。則ち大風順に吹き、帆舶波(ホツムナミ)に随ひ、艣楫(カジカイ)を労(イタツ)かずして、便(スナワ)ち新羅に到る。時に、船に随へる潮波(ウシホ)、遠く国中に逮(ミチイタ)る。即ち知る。天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)の悉に助けたまへるかといふことを。新羅王(コニキシ)、是に戦戦慄慄(オヂワナナ)きて厝身無所(セムスベナシ)。則ち諸人(モロモロノヒト)を集へて曰く、「新羅の国を建てしより以来(コノカタ)、未だ嘗(カツ)て海水(ウシホ)の国に凌(ノボ)るといふことを聞かず。若(ケダ)し天運尽きて、国、海と為らむとするか」といふ。是の言(コト)未だ訖(ヲハ)らざる間に、船師(フナイクサ)海に満ち、旌旗(セイキ)日に耀き、鼓吹(コスイ)声を起し、山川悉に振(フル)ふ。新羅王、遥に望みて、非常(オモヒノホカ)の兵(イクサ)将(マサ)に己が国を滅さむとすと以為(オモ)ひ、讋(オ)ぢて失志(ココロマト)ひぬ。乃今(イマシ)醒めて曰く、「吾が聞かく、東に神国有り、日本と謂う。亦(マタ)聖王(ヒジリノキミ)有り、天皇(スメラミコト)と謂ふといふことを。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵(イクサ)を挙げて拒(フセ)くべけむや」といふ。即ち素旆(シラハタ)あげて自ら服(マツロ)ひ、素組(シロキクミ)して面縛(メンバク)し、図籍(シルシヘフミタ)を封(ユヒカタ)めて、王船(ミフネ)の前に降(クダ)る。

・・・・・ (中略) ・・・・・

爰(ココ)に新羅王波沙・寐錦(ハサムキチ)、即ち微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)(注1)を以ちて質(ムカハリ=人質)とし、・・・官軍(ミイクサ)に従はしむ」

 

と、出征の途上、対馬に寄り、和珥津から新羅へ向かったことが記されている。そして、対馬と半島との関係の中で皇后の名前が出てくる。

 

 この神功皇后の対馬寄港については、島内各所にさまざまな云い伝えや伝承地を残すが、これについては各々の由緒等において詳述する。ここでは、人質「微叱己知(ミシコチ)」の記述に着目し、実在云々の検討を進めてゆく。

 

(注1)         微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)

「微叱己知」は奈勿王(ナコツオウ)の子「未斯欣」(『三国史記』)のこと。次に記す「紀」のBの「微叱己知(シチコチ)」と同一人。「三国遺事」は「美海」、「未叱喜」とも。「波珍干岐(ハトリカンキ)」は新羅17等官位の第4「波珍飡(海干)」にあたる。〔以上、「紀」の注。P430

【2につづく】

女系天皇について---5

 女系天皇について

 この一月二十日から第164回通常国会がスタートした。この国会は「小泉改革の総仕上げ」と謳われるが、この改革の中に圧倒的多数の与党議員を背景として女系天皇の容認を骨格とする「皇室典範改正案」が上程され、可決されようとしている。まだ、自民党内には改正案がこの国の歴史、伝統を無視するといった慎重論を含め反対議論が数多く存在するが、法案は党議拘束をかけて粛々と提出されようと準備が進められている。「女系天皇について--機廚能劼戮燭茲Δ法△海量簑蠅老法第一章第一条の「日本国民の統合の象徴である天皇」即ち日本国民の心の柱の部分に関る国民の心の礎の問題であり、これまで2000年弱に亙ってこの柱を守り、継承してきた日本国の先達たちの叡智と努力を平成のたった10ヶ月間の議論で無にするものである。  

 皇統と云うものは一体何であるのか、なぜこの国では永年に亙り「天皇」と云う権威が時の権力とは分離されて存在し得たのか、天皇の誕生に深く関る「日本書紀」に基づき少し論じてみたい。その允恭(インギョウ)紀4年9月(西暦415年)に皇統を考える上で参考になる『盟神探湯(クカタチ)により氏姓を正す』という記述がある(現代訳引用は下記の【】内)ので紹介する。(以下引用は小学館日本古典文学全集「日本書紀2」より) *允恭天皇:第19代天皇で仁徳天皇(第16代)の子で応神天皇(第15代)の孫。第17代履中天皇、第18代反正天皇は兄。 【四年秋九月の辛巳朔(シンシサク)の巳丑(キチュウ)(=九日)に、詔して、「上古の治世では、人民は定着し、姓名(カバネ)に混乱はなかった。今、私が即位して四年になるが、上下は互いに争い、人民は安寧ではない。ある者は誤って自分の姓を失い、ある者は故意に高い氏(ウジ)を自認している。そもそも治世の至らないのは、おそらくこのためであろう。私は不肖とはいえ、どうしてその混乱を正さずにいられようか。群臣は検討して奏上せよ」と仰せられた。群臣はみな、「陛下が過失を挙げ不正を正して氏姓(ウジカバネ)を定められるなら、私どもは生命をかけてお仕えいたしましょう」と申しあげた。天皇はこの奏上を裁可なさった。 戊申(ボシン=28日)に、詔して、「群卿・百官と諸国の国造(クニノミヤツコ)たちは皆それぞれ、ある者は皇帝の子孫であると、ある者は霊妙な天孫(アマクダ)りの末裔である語っている。しかし天地人が顕れ分れて以来、幾多の歳月を経た。ここに至って、一氏が繁栄して万姓となり、その真偽を確かめるのは困難である。それゆえ、諸氏族の人々は沐浴斎戒(モクヨクサイカイ)して、それぞれ盟神探湯(クカタチ)をせよ」と仰せられた。そこで味橿丘(アマカシノオカ)の辞禍戸岬(コトマガトノサキ)に探湯瓮(クカヘ)を据え、諸人を連れて行かせ、「真実を言えば何事もなく、偽れば必ず害を受けるだろう」と仰せられた。そこで諸人はそれぞれ木綿(ユウ)の襷(タスキ)をして、釜のそばに行き探湯(クカタチ)をした。すると真実を言う者はそのまま何事もなく、偽っている者みな傷ついた。これによって、故意に偽る者、恐れてあらかじめ後ろへ退き、釜の前に進むことはなかった。この後、氏姓は自然に定まって、もう偽る人はなかった。】 この内容は、古事記にも「姓を正し氏を撰ひ、遠飛鳥に勒(ヲサ)めたまひき」、「姓氏録」(西暦815年編纂の古代氏族名鑑だが、それ以前にも存在していたと伝えられる)の「序」でも「允恭御宇、万姓紛紜ス・・・」と同様の事実が記述されている。  

 この事実は王家の本質、王統というものの本質を表すものとして興味深い。つまり、「王の統治権」が血統というものにその正当性の根拠が求められていた証であることを示している。そして今から千数百年前にも、既に血統の乱れによる混乱があり、それを正す事件があったことを示している。王の権威というものが「王統なる血筋」という血の継承により正統化されていたと云ってよい。それが乱れれば、天皇による治世の正当性が失われることを当時の人々はよく理解し、納得していたということである。「貴種」に対する畏敬の念があった時代、統治することを授権された王家の証が「正統に継承されてきた血統」であったということである。  その血統こそが、その時代の統治の正統性を担保する唯一のものであったと思われる。だからこそ、「記紀」にもその紛紜を正した允恭天皇の行為が特筆されているのだと考えられる。それ程に当時は血統の乱れに対する百官、民衆の関心は今の時代とは全く異なる捉え方が成されたのだと思われる。統治権の賦与を、唯一、正統化するものが王家の血統の系譜であったという事実を、それから千数百年経って「国民の統合の象徴」と位置づける我々がどう考え、現在の時代に即して「男系天皇の存続の危機」に対してどう対処すべきか、先達が継承してきたわが国の歴史と将来の歴史に責任を負うべき現代人として、慎重な上にも慎重な議論を尽くすべきであると考慮するが、如何であろうか。

  次回の靴任蓮崙本書紀推古紀三二年」の記述から、「女系天皇」について考えてみたい。

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