彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)

流刑の地・佐渡で夢幻能を演じて見せた世阿弥を辿る=佐渡の旅

世阿弥が配流された佐渡島で“天領佐渡両津薪能”にパルピテーション=佐渡の旅
2014年6月9日、佐渡・大野亀はトビシマカンゾウが見頃でした=佐渡の旅
彦左の美術館=佐渡の幻想・大野亀
佐渡・“トキの森公園”で、朱鷺色?のトキに“トキ”めいた〜=佐渡の旅

文中3年(1374)、京都の新熊野(いまくまの)神社(東山区今熊野椥ノ森町42)にて観世清次(後の観阿弥)は結崎座を率い”今熊野勧進猿楽”を興行した。

世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字を刻む石碑
新熊野神社に建つ世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字

時の将軍足利義満はそこで藤若丸(後の世阿弥)を認め、その美貌と技量を高く評価し、父と共に将軍の同朋衆へと取り立てた。


世阿弥は生来の素質を開花させ、義満の庇護の下で申楽を能へと大成させていった。

新熊野神社
能発祥の地、新熊野神社

しかし、齢とともに将軍も代が変わりその恩寵も薄れてゆくなか、観世流の本流は甥の音阿弥(世阿弥の弟・四朗の子)が仕切り、公職たる楽頭職も同人に移っていった。


世阿弥71歳の時、著作・『却来華』のなかで「(後継者であった嫡男の)元雅早世するによて、当流の道絶えて、一座すでに破滅しぬ」と記すなど、能の表舞台から遠ざけられ、後継者たる嫡男を一年前に失い前途を悲観していたことがうかがわれる。


そうした失意のなかにあった永享6年(1434)、罪状は定かではないが72歳という高齢で、第6代将軍義教により佐渡配流の憂き目にあうのである。


さて、世阿弥は佐渡で七編よりなる小謡曲舞(こうたいくせまい)集・“金島(きんとう)書” を著している。それに拠って世阿弥所縁の地を訪ねてみることにしよう。


第二編の『海路』に、「下(しも)の弓張りの月もはや、曙の波に松見えて、早くぞ爰

(ここ)に岸影の、爰はと問えば佐渡の海、大田(おほだ)の浦に着きにけり」とあるように、世阿弥は日蓮が上陸した松ヶ崎に隣接する多田の地に配流の一歩を刻んでいる。


「(佐渡に着いた)その夜は大田の浦に留まり、海人の庵の磯枕して、明くれば山路を分け登りて、笠かりという峠に着きて駒を休めたり」とあり、「そのまま山路を降り下れば、長谷と申て観音の霊地わたらせ給。故郷にても聞きし名仏にてわたらせ給えば、ねんごろに礼拝」している。

3.観音堂から見る長谷の山々
長谷寺観音堂から見る長谷の山並み

配流一日目は多田の浦で一泊、翌日、笠借峠(現在の笠取峠・誤記との説も)を越える。そして、長谷(ちょうこく)寺に立ち寄っている。

4.長谷寺・仁王門
長谷寺・仁王門

そこで今では33年に一回開帳される秘仏のご本尊、十一面観音立像三体を世阿弥は礼拝したと記している。

5.階段上に観音堂
自然石の急な石段がつづく

長谷寺の急な石段を登り切った処に観音堂が建つ。

6.長谷寺・本堂
長谷寺・本堂

そして本堂は石段半ばに位置している。

7.世阿弥も参拝した観音堂
観音堂

当時、世阿弥がどちらに礼拝したかはもちろん詳細は分らぬが、説明板は観音堂の前にあった。


長谷寺に立ち寄ったあと、「その夜は雑太(さうた)の郡、新保(しんぽ)と云ところに着きぬ。国の守の代官受け取りて、万福寺と申す少院に宿せたり」とその行程を述べている。

8.世阿弥配処・万福寺跡石碑
佐渡市役所の西側辺りが万福寺跡

いまの佐渡市役所の西に隣接する万福寺跡が最初の配処ということになる。わたしが立つこの地をあの能聖・世阿弥も同じように踏みしめたのかと思うと、”跡”という語感もしみじみと耳に響いてきて趣きがある。

9.万福寺跡説明板

ここが、世阿弥の最初の配処である。

10.万福寺跡石碑

現在、万福寺は廃寺となっており、往時をしのぶよすがはそこに建つ石碑のみである。


第四編の『泉』に、「泉と申す所なり。これはいにしえ順徳院(順徳天皇)の御配所なり。・・・鄙(ひな)の長路(ながじ)の御住居、思いやられて傷(いた)はしや。所は萱が軒端の草、忍ぶの簾絶々(たえだえ)なり」とある。

11.黒木御所跡前
県道306号線に面する順徳天皇配処・黒木御所跡

世阿弥は次の第五編で述べているが万福寺より泉という地に移された。その泉の配処・正法(しょうぼう)寺から北へほんの400mほど歩いたところに順徳天皇(承久の変で配流)の仮御所・黒木御所跡がある。

12.黒木御所敷地内
黒木御所跡敷地内

世阿弥は徒然なるままに近くの黒木御所跡をたびたび訪れていたのであろう。


そして22年間の流刑の末、この地で果てた順徳天皇が荼毘に付された真野山・火葬塚(真野御陵)にも世阿弥は足を運んだに違いない。

13.真野御陵
順徳天皇の火葬塚・真野御陵

そこには天皇が失意のなかたびたび散策されたという御陵参道の先に小暗がりの石道があるからである。

14.奥に順徳天皇の御陵
手前柵外から撮る・この奥に火葬塚

おそらくこの石道を世阿弥は順徳天皇に心を寄せながらひとり歩いたことだろう。

15.真野御陵参道
真野御陵参拝所への参道

今では“順徳天皇遺愛の石道”と刻まれた石柱が道端にぽつんと建つのみである。

16.御陵前に建つ”順徳天皇御遺愛の石道”を刻む石柱
御陵参道の礼拝所への曲り角に建つ”ご遺愛石道”の碑

人影のまったく見えぬひっそりとした世の中から取り残されたようなさびしい小道である。


第五編『十社』に、「かくて国に戦起こりて国中穏やかならず、配所も合戦の巷になりしかば、在所を変えて今の泉という所に宿す。さる程に秋去り冬暮れて、永享7年(1435)の春にもなりぬ」とあり、戦によって新穂の万福寺から逃れ、泉の正法寺へと配流先が変わったことを述べている。

17・正法寺山門
正法寺(しょうぼうじ)山門を見る

そして、この正法寺にて、「ここ当国十社の神まします。敬神のために一曲を法楽す」とあり、能を奉納したことが記されている。

18・正法寺本殿
正法寺・本殿

これが佐渡で世阿弥が能を舞ったといわれる唯一の記録である。

19・この本堂内で”ろうそく能”を催す
この本堂内で行われる”ろうそく能”のように、世阿弥もここで舞ったのか・・・

であれば、正法寺に伝わる世阿弥の“雨乞いの面”を被り、世阿弥がこの本堂で能を舞ったということも十分、考えられるのである。

20・神事面べしみ・佐渡HDR写真研究所より
正法寺に伝わる世阿弥の雨乞いの面(佐渡HDR写真研究所より)

後日、分かったのだが、事前に正法寺に電話でお願いしておけば、住職自ら、雨乞いの面を見せていただけるということで、残念至極、無念やるかたないところである。

21・世阿弥太夫御腰掛石
世阿弥の腰掛石

境内には、世阿弥が腰掛けたと伝わる“腰掛石”も史蹟として残されている。

能に興味のあられる方は、是非とも訪れる価値のある正法寺である。

22・山門前に”世阿弥太夫旧跡記念碑”
正法寺山門前に建つ”世阿弥太夫旧蹟記念碑”

正法寺は記録で確認される限り世阿弥が最後に能を舞った処である。まさに能のパワースポットともいえる場所である。


そして、嫡男元雅亡き後、後継者と定めた女婿・金春禅竹に宛てた書状、永享7年(1435)6月8日付の “佐渡状”を最後に、世阿弥の足跡は張りつめた絹糸を断ち切ったように見事なまでに絶たれ、その行方、没年も杳(よう)として知れないのである。


一説によれば、嘉吉3年(1443)、世阿弥は81歳で他界したという。

観月能・紅葉狩り
厳島・観月能

その歿地も佐渡であったのか赦免されてどこか他国にて死去したのか、宿敵義教暗殺が観能の最中だったという宿怨、まさに怨霊を演ずる夢幻能のごとく世阿弥はその現身を霧の中にかき消すようにして己の生涯の幕を閉じたのである。


能を能たらしめた夢幻能を世阿弥自身が存在を晦ますことによって昇華させたとしか云えぬ不思議な夢現の生涯であったように思えてならない。





能・発祥の地、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)を訪ねた

友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

国宝の北能舞台(西本願寺)を拝観しました!

中天の満月に水上能「融」を愉しむ=パルテノン多摩


新熊野神社(いまくまのじんじゃ)=
東山区今熊野椥ノ森町42

能が貴人の素養として確立してゆくスタートの地となったのが、ここ新熊野(いまくまの)神社です。境内には「能楽大成、機縁の地」として「謡曲史跡保存会」の立札があり、りっぱな「能」という字が刻まれた石碑が建立されている。


能大成の地
謡曲史跡保存会の説明書き

能の石碑
「能」の字の刻まれた石碑 



場所は東福寺から東大路通りへ出て東山五条方向へ500m、泉湧寺道交差点からは東大路通りをやはり北方向、東山五条方向へ200mほどゆくと道路に面し左手にある。当神社を創建(1160年)された後白河上皇のお手植えといわれる樹齢900年の「影向(ようごう)の大樟(おおくすのき)」の巨木が見えるので、それを目印に行くとよい。


大樟
樹齢900年の影向の大樟

大樟の石碑
大樟の石碑(京都市天然記念物)



「謡曲史跡保存会」の立札には『当地は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中三年(1374)のころ父の観世清次と共に大和の猿楽結崎座を率い勧進興行を行なったところで、「世に今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた室町幕府第三代将軍足利義満が、その至芸に感激、二人を同朋集衆に加え、父子を、それぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地である。時の将軍の援助をうけた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜、研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた』と説明されている。要は猿楽という芸能が能という一段高い芸術性をもった芸能に変成する機縁となった場所が、この新熊野神社なのである。

今回の旅は、厳島の観月能に始まり、京都の能に所縁のあるところを巡るものであったが、この新熊野神社は観阿弥の「卒都婆小町」など能の題材となる小野小町ゆかりの随心院拝観の後に偶然、その道筋に立ち寄ったもので、世阿弥に引き寄せられたような気がして、それこそ不思議な機縁を感じたのである。


新熊野神社扁額
新熊野神社鳥居扁額

新熊野神社本殿
本殿

本殿内部
本殿内部

新熊野神社
新熊野神社鳥居正面


最後にこの新熊野神社は、熊野信仰に篤かった後白河上皇が熊野神社の新宮・別宮として創建し、「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する今の熊野という当時の都人の認識がその由来となっていると、当社の「御由緒」にある。当地の現在の地名は「今熊野」といい、町名の「椥(ナギ)ノ森」の「椥」は櫟科の常緑樹で、熊野の御神木となっているものである。そうしたことから推し、しかも古来、この社が「椥(なぎ)の宮」とも呼ばれていたとの言い伝えもあり、この地が大昔は熊野神社の御神木である椥の木が鬱蒼と茂った厳粛な森であったことが容易に窺い知れる。だから、この小さな本殿の後背には中四社や若宮社、下四社が祀られており、本殿をぐるりと一周すれば、熊野詣に匹敵する御利益に与れるという。

熊野詣でが出来ます
本殿を一周すれば熊野詣と一緒の御利益があります

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