「洋画家和田義彦氏の盗作に見る恥ずべき日本の文化レベル」

 

洋画家の和田義彦氏(66)が、イタリア人画家アルベルト・スギ氏(77)の作品を多数盗作していたことが、発覚した。TVで次々と見せられるスギ氏の作品と和田義彦氏の贋作。和田氏本人は、文化庁や報道機関に対して、盗作を否定している。しかし、これだけの数の作品において、色調の異なるものがあるものの、ディテールに至るまでの構図がこれほどまでに酷似しておれば、これを盗作と言わずして、何を盗作というのか。

 

和田氏本人の芸術家としての倫理観は論外である。事件発覚後に報じられた同氏の発言・行動・スギ氏へのFAX内容などを目にし、耳にし、和田氏はそもそも、独自性・創造性に価値観を求めるべきアーティストではなかったと断じた方が正しい見方なのだろう。わたしがここで論じたいのは、日本の芸術家といわれる人々のレベル、芸術評論家と呼ばれる人々の文化レベルの低さをこの和田氏の盗作事件で、再認識させられたことについてである。

 

和田氏が受賞した「芸術選奨」とは、「演劇、映画、音楽、舞踊、文学、美術、放送、大衆芸能、芸術振興、評論等の10分野において、その年に優れた業績をあげ、新生面を開いた者に、芸術選奨文部科学大臣賞または芸術選奨新人賞を贈り、表彰しています」と、H184の政府広報で説明されているが、その所管は文部科学省の下部組織である文化庁である。

 

17年度に選考された受賞者に対する贈賞理由が、文化庁より発表されている。美術分野二人の受賞者の内、和田氏の贈賞理由としては次のように麗々しく記述されている。

 

『和田義彦氏は早くに西欧古典技法を習得、氏の高度な油画技術と正確な素描力と重厚な着彩とは、既に定評がある。その氏が平成17年に行った「ドラマとポエジーの画家 和田義彦展」(三重県立美術館、4月〜6月ほか)は、初期から現在まで46年の作歴を示し、骨太な表現と変化に富む内容は圧巻であった。氏の作画世界は、群像等で劇的な情景を設定しているが、示唆するものは社会の不条理や人々の不安、孤独など内面の実存である。常に問題意識が現代の核心に触れていて、その時事性もまた評価できる。

http://www.bunka.go.jp/1bungei/17-geijyutusenshou.html

 

65日(月)に文化庁の臨時審議会が開かれたが、芸術選奨賞の授賞に関わった審査員7人のうち4人は欠席、残る3人だけで協議し、和田氏への贈賞取消しを決めたと云う。3人だけが美術の担当なのか、欠席の4人も美術担当なのかは、この時点でははっきりしない。もし、欠席者の4人も和田氏選考に関わっておれば、本件に対する認識の甘さは問題とされねばならぬ。

 

わたしがテーマに掲げた「恥ずべき日本の文化レベル」という言葉は、和田氏に向けられたものではない。なぜなら、彼は文化人ではなく詐欺師だからである。

「芸術選奨文部科学大臣賞」は、政府広報に言うように、国が「その年に優れた業績をあげ、新生面を開いた者」として評価した者に贈られるその年の文化面における最高の栄誉ある賞である。そして、その評価者たる選考審査員は、当然のことながら、その分野で最高の知識と評価眼を有する芸術家であるはずである。美術に限らず、各芸術分野で最高水準の者だけが、審査員たる資格を有することを許されているはずである。

 

その審査員たちが前述の贈賞理由により、和田氏を選考したのである。高度な専門性と芸術性を備えた人物たちが、イタリアでは有名な画家であるアルベルト・スギ氏の作品について少しでも知見を有しておれば、こんな日本の文化レベルの低さを世界に喧伝するようなヘマはしなかったに違いない。そして、「常に問題意識が現代の核心に触れていて、その時事性もまた評価できる」などという、こんな歯の浮くような虚ろな「贈賞理由」をわれわれは目にすることもなかった。

 

日本の文化水準の低下は、評論家のアマチュア化が格段に進んだことで、ますますその貧相な様相を深めている。今日、もし小林秀雄のような鋭利・冷徹な評論家がわが国におれば、文化レベルはここまで低俗化することもなかったのではないか、緊張感に溢れた製作者と評論家の関係がもっとあれば、今回のような無様で、赤面するような事態は少なくとも避けることが出来たのではないか、と思えてならない。