「読売新聞の笑止な社説」
6月3日付け読売新聞の朝刊社説「[新聞の特殊指定]「『当面見直さず』の結論は当然だ(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060602ig91.htm)を読んで、メディアが、「新聞業界の考えはイコール国民の考え、世論であると強弁する思い上がりと、笑止な思い込みがここまで来たのかと、呆れてものも言えないというのが正直な気持ちだ。
しかし、言わねばならぬ。次に社説中のとくに笑止な記述を引用する。
「再び不毛な見直し論が提起されることのないよう、強く公取委に求めたい」
「1955年の指定から半世紀、何ら弊害は生じていない」
「民主主義社会に不可欠な情報インフラとしての新聞の意義、日本の文化とも言える戸別配達制度が国民にもたらす幅広い利益といった視点が欠けていたのではないか。新聞業界からみれば、公取委は規制を改悪しようとしている、としか受け止められなかった」
「多方面から反対論がわき起こった」
「国会のコンセンサスと世論の重みを、公取委は忘れずにいてほしい」
メディアの本分は何か。事実・真実を国民に知らしめることであろう。上に引用した意見というか、ご都合主義の解釈、意見を記述したに過ぎぬ。
「再び不毛な見直し論が提起されることのないよう、強く公取委に求めたい」などと、言論の自由を高々と標榜する新聞業界が決して口にすべきことではない。これこそ、正に言論弾圧・統制をペンの所有者が慫慂するという許し難い行為、意思表示である。
加えて、今回、見直しが検討された五業界において、新聞のみが見直しを免れた。特殊指定廃止の中に、新聞よりも、重要と思われる「教科書」が入れられた。読売新聞や他の新聞社のこれ迄の「特殊指定廃止はおかしい」理屈から言えば、日本人の文化や民主主義の基盤を維持・守るには、この廃止により教科書業界も同等か、それ以上の影響があるのではないだろうか。
他の業界については言及せずに、自らの利益を守るためにのみ、牽強付会の議論を進めてきた新聞業界から、「民主主義社会に不可欠な情報インフラ」「戸別配達制度が国民にもたらす幅広い利益」などと、したり顔で言われる筋合いは一切ない。以前にも書いたが、新聞業界が思い込んでいるほど国民は馬鹿でも、愚かでもない。それより、国民の方が、「日本の文化」であった「恥」というものを、新聞業界よりは、よくよくわきまえていると信じるに至った。