彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

慶良間列島

沖縄集団自決、軍命令表現の排除―教科書検定に「歴史に向き合う姿勢」を問う!(上)4

沖縄の空

沖縄の空

 

沖縄さとうきび畑

さとうきび畑

 

沖縄の海

 

 

 

 

 

 

                                   

                                       沖縄の海

 

 30日に文部科学省は高校用教科書の検定結果を発表した。「教科書用図書検定調査審議会」が行なった教科用図書検定基準に基づく内容審査を経て提言を受けたものについて、同省は昨年12月下旬に各教科書会社に検定意見(ふさわしくない文言についての再検討)を通知していた。決定保留を受けた教科書会社が修正表の提出を行なったものに対する審議会による再度の審査を経たうえでの検定結果が公表されたものである。

 

この一連の教科書検定制度は学校教育法の第21条の「文部科学大臣の検定を経た教科用図書又は文部科学省が著作の名義を有する教育用図書を使用しなければならない」等の条項にその法的根拠を有する。さらに検定は、それぞれの教科書についておおむね4年ごとの周期で行われている(文科省HP「教科書制度の概要――教科書検定の趣旨」)。

 

さて今回の検定決定の通知によって明らかになったもののなかに、沖縄戦に関する記述について修正提言があり、検定意見が同省より通知された。その修正を行なったうえでの該当教科書をふくんだ検定合格通知であった。

 

 修正意見は沖縄戦が始まってすぐに起きた慶良間(けらま)列島島民の集団自決の説明に関する部分である。申請時の修正箇所の文言は「日本軍に『集団自決』を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた」が、検定意見を受けたのち検定合格となった当該箇所は「追いつめられて『集団自決』した人や、戦闘の邪魔になるとかスパイ容疑を理由に殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた」と前半部分の文言修正がなされた。

 

 わたしは330日、31日付けPJニュースにおいて連載「二つの資料館が語る戦争の異なる実相――ひめゆりの塔を訪ねて」を記した。その書き出しは「(沖縄到着の)325日、その日は62年前に米軍上陸を許した日本軍の命令により559名もの慶良間列島の島民が集団自決させられた前日であった」と始めている。

その記述は159ページからなる「ひめゆり平和祈念資料館」というタイトルのガイドブックのなかに「26日、米軍は沖縄本島上陸の足がかりとして、那覇の西25キロの慶良間列島に進出。軍・民が混在した小島では、命令による村民の集団的な死という惨劇が発生しました(p46)」とあることに基づいたものである。

 

1945年3月23日、慶良間列島への艦砲射撃・艦載機による空襲が始まり、沖縄戦の火蓋は切って落とされた。その3日後の26日に米軍はまず慶良間列島の慶留間島、座間味島、次いで27日には渡嘉敷島に上陸した。そして島民の「集団自決」という惨劇が発生した。渡嘉敷島329人、座間味島177人、慶留間島53人、合計559人もの幼児を含めた多くの島民が犠牲となったものである。(下に続く)

 

 これまでの教科書の記述にあった「日本軍に『集団自決』を強いられたり」が「追いつめられて『集団自決』した」と修正するもとになった「検定意見通知」には「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」とあった。

 

 審議会が「軍の強制」という記述の削除を暗に求めた背景には、梅澤裕(大正51221日生。座間味島で第1戦隊長の元少佐)と赤松秀一(大正9420日生・昭和55113日死亡。渡嘉敷島で第3戦隊長の故赤松嘉次元大尉の弟)両氏により平成1785日に大阪地裁に提訴された、「沖縄ノート」の著者である作家大江健三郎と出版社の岩波書店を被告とする「沖縄集団自決冤罪訴訟」の存在が大きいものと思われる。

 

 訴状の請求原因のなかの「集団自決命令は架空だった」において島民の証言として「原告梅澤少佐に弾薬供与を懇願に行った5人のうちで生き残った女子青年団長は、一時期部隊長の集団自決命令があったと証言し、その後、原告梅澤に対し、部隊長の自決命令はなかったと謝罪している。また、自決した助役の弟は、座間味島の戦没者、自決者の補償交渉に当たる座間味村の担当者となり、原告梅澤少佐による自決命令があったと証言していたが、昭和62年3月28日、座間味島を訪ねた原告梅澤に『勝手に隊長命令による自決とした事はすみませんでした』と謝罪している」旨が言及されている。 

 

 一方で昨年には、関東学院大学の林博史教授により「慶留間島の住民への尋問で『住民らは日本兵が米軍が上陸してきた時は自決せよと命じたと繰り返し語っている』と記述されている。『集団自決』発生直後の記録として、住民への命令状況を伝える」と記された米歩兵第七七師団砲兵隊による1945年4月3日付『慶良間列島作戦報告』が米国立公文書館で発見された。それは「沖縄戦時下の慶良間諸島の『集団自決』をめぐり、日本兵が住民に『集団自決』を命令したことを示す記録である」と沖縄タイムス紙(2006.10.3)は報じている。

 

 このように『島民の集団自決』を正式に軍が命じたのかどうかについては、現在、その事実は定かでないと言える。またその問題は、軍の命令による集団自決とする「沖縄ノート」(岩波書店1970年発刊)を著した大江健三郎氏と曽野綾子氏の日本軍の住民自決命令はなかったとする「ある神話の背景」(文芸春秋社1973年発刊)など言論界においても、過去、正反対の議論や意見があったところでもある。(下に続く


二つの資料館が語る戦争の異なる実相(下)5

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わたしは325日、その日は62年前に米軍上陸を許した日本軍の命令により559名もの慶良間列島の島民が集団自決させられた前日であったが、南国特有の激しい雨が道路を打つ午前中に「ひめゆりの塔」を訪れた。ひめゆり学徒隊は5月下旬に南風原陸軍病院を出て、いくつかの隊に分かれて本島南端部に転進という退却をした。

その落ちついた先のひとつが「ガマ」と呼ばれる洞窟を野戦の病院とした伊原第三外科壕であった。その上に建てられたひめゆりの慰霊塔に献花をし、わたしは手を合わせた。そのときかしげた雨傘を打擲(ちょうちゃく)するように強くたたく雨粒はガス弾攻撃により洞窟内で非業に倒れた学徒女学生たちが流す哀しく重い涙滴のように思えてならなかった。

 

それから学徒の生存者で結成された「ひめゆり同窓会」の努力で1989年に開館のはこびとなった「ひめゆり平和祈念資料館」に入館した。悲しみに打ち沈んでいるように静かな館内に展示された当時のさび付いた医療器具や手術場の様子やひめゆり生存者の証言集など生々しい展示物をじっくりと見て回り、目を通した。そしてパイプ椅子の並ぶ多目的ホールで「平和への祈り」という上映時間25分のビデオを観た。

 

内容はひめゆりの生存者が当時、病院としていた「ガマ」やひめゆり学徒隊解散命令(沖縄陥落の5日前)が出された後に米軍の砲火のなか逃げ惑った場所などを実際に訪れ、当時の惨状をもの静かに語るものであった。その映像のなかである学徒が「多くの学徒が戦場に倒れたのに自分だけが生き残ってしまったという負い目から、戦後ずっと長い間、ひめゆりの実態を語れずにきた」(以下元ひめゆり学徒証言等は資料館発行ガイドブックおよび上映ビデオより引用)と述べたあまりにも悲しく痛ましい言葉に、わたしは胸が締め付けられた。

 

そして、その一方で戦後すぐに「ひめゆりの塔」という小説や映画が大ヒットをしたことで、自分たちの思いとは違ったところで(事実とは異なった)ひめゆりの物語だけが一人歩きをしていった。それはひめゆり学徒が体験したあまりにも残酷で目をそむけたくなり、耳を塞ぎたくなるような非人間的な戦争の実相とは異なり、どんどんかけ離れたものになっていってしまった。

「戦場の惨状は私たちの脳裏を離れません。私たちに何の疑念も抱かせず、むしろ積極的に戦場に向かわせたあの時代の教育の恐ろしさを忘れていません」

「未だ紛争の絶えない国内・国際情勢を思うにつけ、私たちは一人ひとりの体験した戦争の恐ろしさを語り継いでいく必要があると痛感せざるをえません」と、そのおぞましく「忘れたいこと」について重い口を開くことを彼女たちは決断したのである。

 

「生きた人間にウジ虫が湧きギシギシと肉を食べる音」や、「まだ熱を持った切断した兵士の重い足を引っ張って捨てに行った」こと、「脳味噌が飛び出しているし、看護婦も腸が全部とび出している」さま、傷病兵の「手足を支えることが学徒の役目、鋭利な刃物で最初に皮を切り、次に肉を切る。ゴシゴシ鋸で骨が切り落とされた瞬間のたとえようもない手足の重さ」、そして洞窟の「入口は光が少しは射していますから、移した(死んでしまったひめゆりの)友達の死に顔が見えるんですよ。銀蝿が真っ黒くたかっています」など・・・、「忘れたいこと」を語り継いでいくことこそが生存を許された自分たちの使命だと決断し、こうしたビデオにも出て、平和祈念資料館内でひめゆりの実態を人々に向かって語り始めたのだという。

そのしぼり出すようにして語る元学徒たちの証言はどこまでも重く、切なく、苦しい。そして今という時の平和の大切さをどんなドラマや評論家の上滑りの平和論などその足元にもおよばぬ厳しさで伝えてくれる。そして何ものにも増して心の底深くまで届く強い信念を感じ取らせてくれる。

 

この25分間の「平和への祈り」というビデオもそうした痛切な思いのなかで1994年に作成されたものである。資料館を開館した当初は、展示室に掛けられた亡くなったひとりひとりの学友の写真の視線が生き残った自分たちを責め立てているようで苦しかったと元学徒は語る。しかし、戦争を語り継ごうと小さな力だが行動を起こし地道に語り部を続けているうちに、写真の学友の目が昔の優しい瞳にいつしか変わってきたように感じてきたと語った。

 

靖国神社の遊就館の50分間の大東亜戦争を正当化し、尚武の精神を美化するような「私たちは忘れない!」というビデオとくらべて、わずか半分の時間の短いビデオ「平和への祈り」であるが、その内容は数倍も数十倍もわたしに戦争の悲惨さと非条理という実相を訴えてくるものであった。

「私たちは忘れない」のだと声高に叫ぶ声よりも、つらすぎて記憶の外に押し出そうとした「忘れたい」ことをもの静かにしぼり出すように語る言葉にこそ、わたしは今を生きるひとりの日本人として、実相を見抜く眼力を失ってはならぬ冷静さを保ち、平和に対するとてつもなく重い責任を感じ取るべきことを教えられた。

 

 沖縄戦では日本側188千人、米軍側12千人と双方合計で20万人もの人々が尊い命を落とした。そのうち沖縄県民は無辜(むこ)の一般民間人94千人を含む122千人(沖縄県生活福祉部援護課『沖縄県の福祉』より)もの多数の人々が、本土防衛の名のもとに捨石のごとく犠牲にされたのである。

 

「ひめゆり平和祈念資料館」を見終えて、鉛を呑みこんだように重くなった心境になって出口を出ると、午前中の雨はすっかり上がり、南国の空からは三月の日差しが降りそそいでいた。その光景は「平和」という尊い価値は、激しい「雨」を経験した者にこそ本当の価値がわかることを亡きひめゆり学徒たちがわたしに教えてくれたように思えた。

 

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