山口県光市母子殺害事件の差し戻し控訴審が24日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開始された。昨年6月の最高裁の「特に酌むべき事情がない限り、死刑を選択するほかない」と二審の無期懲役判決を破棄しての自判回避から約一年が経過した。

 

被告側の膨れ上がった弁護団はこれまでの事実の認定や量刑に誤りがあるとして、今度の公判ではそれらの誤りを正すとしている。そのひとつの理由として、「被告は自分の過ちを現実感をもってとらえることができなかったが、被告人は26歳になり、反省と贖罪(しょくざい)の意を深めている」ことを挙げた。

 

実はこの「反省と贖罪(しょくざい)の意を深めている」という物事の捉え方にわたしは違和感というか、それは違うのじゃないかと強い反発を覚えるのである。容疑者逮捕後の事件報道や裁判報道において「容疑者は未だ反省の弁を述べていない」とか「被告は涙を流してすまなかったと語った」というアナウンサーの声をよく耳にする。

 

今回の弁護団に覚えた違和感もまさにメディアによるこうした被告の「反省の有無」報道と同様のものであった。もちろん、殺人や反社会的な事件を引き起こした容疑者なり被告が、その犯した罪に反省の弁を述べること自体は人間として当然の行為であるし、そうあって欲しいと願っている。

 

しかしそのこととメディア報道は別物であることを、われわれははっきりと認識しておかねばならない。とくに最近のメディアは、起訴された被告について決り文句のように「『反省の言葉をまだ発していない』『申し訳ないことをした』と語った」云々とやたらに被告の現在の心情について言及する。メディアのこの一面的で表層的な物事の捉え方にわたしはどうも違和感を覚えてしまうのである。

 

それはこれから裁判が進められていくうえで、被告の反省の言葉や姿勢は量刑を下すうえで何ら本質的な事柄でもなく、関係のないことだからである。つまり犯行の事実を解明し真実を究明したうえで、被告の「犯した罪」という「事実」に対して相当する量刑が科されるのであって、罪を犯した被告の反省の弁などはその量刑判断の要素とはなりえぬからである。

 

量刑が確定し、刑に服す過程で反省が深まり受刑態度が良好等の理由により、裁判所の判断で仮釈放することはあっても、そもそもの「犯した罪」の重さを量る量刑判断の段階で、犯行後における被告の反省の気持ちが斟酌されるようなことがあってはならないし、それはまったくのお門違いと言うものである。

 

犯行にいたる際に同情すべき事情があったとして裁判官の裁量で量刑が減じられるいわゆる「情状酌量」は、まさに罪を犯さざるを得なかった事情を斟酌するものであって、罪を犯したあとの反省の有無によってなどではないことは明らかである。「反省の気持ち」が量刑判断の構成要素となることなどあってはならないし、そんなことがあるはずもない。

 

そうであるのに、なぜかメディアは判で押したように「反省の弁は一切ない」「被告が涙ながらに反省の弁を語っている」といった類の報道を垂れ流す。「こんな罪を犯しておいて、反省もしていない、とんでもない奴だ」と、もっと罪を重くしろとでも言うのであろうか。また逆に「手紙まで出してこんなに深く反省している」とこれからの公判で意味を取り違えた「情状酌量」でも期待しているのだろうか。そうした類の報道に何の意味があるのかわたしは心底理解に苦しむ。

 

量刑判決とは犯した罪の重さであるという刑事罰の原則がないがしろにされ、何か情緒的なものでゆるがせにされようとしているように思えてならないのである。何度も繰り返すが、あくまでも犯した罪の事実により量刑は下されるべきであり、その後の反省の有無といったことが量刑判断に影響を与えるべきではない。「犯した罪」に対する正当な「量刑」を下すのが公正な裁判であることは、今更言うまでもないことである。

 

今回の光市の事件においても当時少年であった被告のその後の反省度合いに注目した報道がなされる場面があるが、どうも公判報道においてそうした視点は見当違いのように思えてならないのである。

 

光市母子殺害事件の次回公判は626日から3日連続で開かれる。