さて、アップの順序が後先になったが、桂離宮をめぐる人物と後水尾上皇との武家政権にもてあそばれた数奇な関わりについて、述べておこう。
桂離宮は、八条宮智仁(としひと)親王(1579-1629)とその子智忠(としただ)親王(1620-1662/第1王子)の親子二代にわたって、途中の中断をふくめ約半世紀(1615-1662)をかけ建設が続けられ、完成をみた宮家の別荘である。
一方の修学院離宮は、造営開始が桂離宮より30余年遅れたものの、後水尾上皇の手により1655-1663年の短期間で造営、完成を見た離宮である。
桂離宮の創建者である八条宮智仁親王は、第106代・正親町天皇の第5皇子である誠仁(さねひと)親王(1552-1586)の第6皇子である。
その兄たちに、第107代・後陽成天皇(誠仁親王第1皇子)、第170世天台座主や曼殊院門跡にもなった良恕(りょうじょ)法親王(出家後に親王宣下を受けた者/同第3皇子)、織田信長の猶子(ゆうし/養子/養父が後見人)となった邦慶(くによし)親王(同第5皇子)がいる。
良恕法親王の付弟(後継の弟子)が、八条宮智仁の第二王子で、法親王にとって甥にあたる、曼殊院中興の祖と言われる第29世門跡良尚(りょうしょう)法親王である。
第108代・後水尾天皇(生没1596-1680/在位1611-1629)との関係でいうと、八条宮智仁親王は後水尾天皇の叔父にあたり、智忠親王は従弟にあたる。
後陽成天皇は、豊臣秀吉の意向で後継天皇に第一皇子の良仁(ながひと)親王が定められていたものを、秀吉の死後、自身の意思で実弟の八条宮智仁親王へ皇位を譲ろうと画策した。そのすぐ上の兄、邦慶(くによし)親王も、織田信長の猶子であったため、武家の容喙(ようかい)を嫌悪した後陽成天皇は、皇位継承の対象から外していた。
しかし、徳川の時代が明確になるとともに、周囲の延臣や徳川幕府の反対に会い、家康の推す第3皇子、政仁(まさひと)親王(後水尾天皇)に、不本意ながら皇位をゆずることとなった。
こうした経緯から、武家政権の皇位継承権への容喙を嫌う後陽成天皇と後水尾天皇の実の親子でありながらの不幸な仲違いが始まったのである。
徳川政権が確立してゆくなかでの天皇家と武家との根深い確執が、皇位継承に暗い影を落とし、そこに関わる幾多の人間の人生をもてあそぶこととなった。
徳川政権が確立していなければ、天皇となっていたであろう「八条宮智仁親王」、さらにはその人の嫡男として皇統に名を列ねたであろう「智忠親王」と、徳川家康の後押しで天皇となった「後水尾天皇」という、叔父、甥、そして従兄弟の関係にある、政略にもてあそばれた三人の人物が、現世利益やさまざまな思いを胸に抱き、17世紀の前半に造営を企図、心を引き継ぎ、そこで余生を送った建築物が、桂離宮と修学院離宮なのである。
人工美の極致ともいわれる桂離宮。洛北の大自然を取り込んだ雄大な修学院離宮。その二つの建築物には、それぞれの造営主の「天皇」という皇位をめぐる争いにもてあそばれた人間の宿命が、いやでも反映されているように思えてならぬのである。
次から拝観のコース順に写真を参照しながら説明をしてゆくことにする。