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わたしは325日、その日は62年前に米軍上陸を許した日本軍の命令により559名もの慶良間列島の島民が集団自決させられた前日であったが、南国特有の激しい雨が道路を打つ午前中に「ひめゆりの塔」を訪れた。ひめゆり学徒隊は5月下旬に南風原陸軍病院を出て、いくつかの隊に分かれて本島南端部に転進という退却をした。

その落ちついた先のひとつが「ガマ」と呼ばれる洞窟を野戦の病院とした伊原第三外科壕であった。その上に建てられたひめゆりの慰霊塔に献花をし、わたしは手を合わせた。そのときかしげた雨傘を打擲(ちょうちゃく)するように強くたたく雨粒はガス弾攻撃により洞窟内で非業に倒れた学徒女学生たちが流す哀しく重い涙滴のように思えてならなかった。

 

それから学徒の生存者で結成された「ひめゆり同窓会」の努力で1989年に開館のはこびとなった「ひめゆり平和祈念資料館」に入館した。悲しみに打ち沈んでいるように静かな館内に展示された当時のさび付いた医療器具や手術場の様子やひめゆり生存者の証言集など生々しい展示物をじっくりと見て回り、目を通した。そしてパイプ椅子の並ぶ多目的ホールで「平和への祈り」という上映時間25分のビデオを観た。

 

内容はひめゆりの生存者が当時、病院としていた「ガマ」やひめゆり学徒隊解散命令(沖縄陥落の5日前)が出された後に米軍の砲火のなか逃げ惑った場所などを実際に訪れ、当時の惨状をもの静かに語るものであった。その映像のなかである学徒が「多くの学徒が戦場に倒れたのに自分だけが生き残ってしまったという負い目から、戦後ずっと長い間、ひめゆりの実態を語れずにきた」(以下元ひめゆり学徒証言等は資料館発行ガイドブックおよび上映ビデオより引用)と述べたあまりにも悲しく痛ましい言葉に、わたしは胸が締め付けられた。

 

そして、その一方で戦後すぐに「ひめゆりの塔」という小説や映画が大ヒットをしたことで、自分たちの思いとは違ったところで(事実とは異なった)ひめゆりの物語だけが一人歩きをしていった。それはひめゆり学徒が体験したあまりにも残酷で目をそむけたくなり、耳を塞ぎたくなるような非人間的な戦争の実相とは異なり、どんどんかけ離れたものになっていってしまった。

「戦場の惨状は私たちの脳裏を離れません。私たちに何の疑念も抱かせず、むしろ積極的に戦場に向かわせたあの時代の教育の恐ろしさを忘れていません」

「未だ紛争の絶えない国内・国際情勢を思うにつけ、私たちは一人ひとりの体験した戦争の恐ろしさを語り継いでいく必要があると痛感せざるをえません」と、そのおぞましく「忘れたいこと」について重い口を開くことを彼女たちは決断したのである。

 

「生きた人間にウジ虫が湧きギシギシと肉を食べる音」や、「まだ熱を持った切断した兵士の重い足を引っ張って捨てに行った」こと、「脳味噌が飛び出しているし、看護婦も腸が全部とび出している」さま、傷病兵の「手足を支えることが学徒の役目、鋭利な刃物で最初に皮を切り、次に肉を切る。ゴシゴシ鋸で骨が切り落とされた瞬間のたとえようもない手足の重さ」、そして洞窟の「入口は光が少しは射していますから、移した(死んでしまったひめゆりの)友達の死に顔が見えるんですよ。銀蝿が真っ黒くたかっています」など・・・、「忘れたいこと」を語り継いでいくことこそが生存を許された自分たちの使命だと決断し、こうしたビデオにも出て、平和祈念資料館内でひめゆりの実態を人々に向かって語り始めたのだという。

そのしぼり出すようにして語る元学徒たちの証言はどこまでも重く、切なく、苦しい。そして今という時の平和の大切さをどんなドラマや評論家の上滑りの平和論などその足元にもおよばぬ厳しさで伝えてくれる。そして何ものにも増して心の底深くまで届く強い信念を感じ取らせてくれる。

 

この25分間の「平和への祈り」というビデオもそうした痛切な思いのなかで1994年に作成されたものである。資料館を開館した当初は、展示室に掛けられた亡くなったひとりひとりの学友の写真の視線が生き残った自分たちを責め立てているようで苦しかったと元学徒は語る。しかし、戦争を語り継ごうと小さな力だが行動を起こし地道に語り部を続けているうちに、写真の学友の目が昔の優しい瞳にいつしか変わってきたように感じてきたと語った。

 

靖国神社の遊就館の50分間の大東亜戦争を正当化し、尚武の精神を美化するような「私たちは忘れない!」というビデオとくらべて、わずか半分の時間の短いビデオ「平和への祈り」であるが、その内容は数倍も数十倍もわたしに戦争の悲惨さと非条理という実相を訴えてくるものであった。

「私たちは忘れない」のだと声高に叫ぶ声よりも、つらすぎて記憶の外に押し出そうとした「忘れたい」ことをもの静かにしぼり出すように語る言葉にこそ、わたしは今を生きるひとりの日本人として、実相を見抜く眼力を失ってはならぬ冷静さを保ち、平和に対するとてつもなく重い責任を感じ取るべきことを教えられた。

 

 沖縄戦では日本側188千人、米軍側12千人と双方合計で20万人もの人々が尊い命を落とした。そのうち沖縄県民は無辜(むこ)の一般民間人94千人を含む122千人(沖縄県生活福祉部援護課『沖縄県の福祉』より)もの多数の人々が、本土防衛の名のもとに捨石のごとく犠牲にされたのである。

 

「ひめゆり平和祈念資料館」を見終えて、鉛を呑みこんだように重くなった心境になって出口を出ると、午前中の雨はすっかり上がり、南国の空からは三月の日差しが降りそそいでいた。その光景は「平和」という尊い価値は、激しい「雨」を経験した者にこそ本当の価値がわかることを亡きひめゆり学徒たちがわたしに教えてくれたように思えた。