9月15日、22台の地車(だんじり)の曳行がなされる勇壮な「やりまわし」で有名な「岸和田だんじり祭」を心ゆくまで堪能した。今年の祭は15日の宵宮、宮入りのある本宮が16日と三連休前半の二日間の日程にも恵まれ、58万人もの多くの人出があった。
「岸和田だんじり祭」の由来は赤穂浪士討ち入りの翌年、元禄16年(1703年)にまでさかのぼる。時の岸和田藩主である岡部長泰(ながやす)公が京都伏見稲荷を岸和田城内の三の丸に勧請(かんじょう)した際に催した稲荷祭に端を発すると伝えられる。
府道臨海線の岸和田港南側のT字路、「カンカン場」と呼ばれる場所に設えられた観客席から次々とやってくる地車(だんじり)を俯瞰(ふかん)した。高さ4メートル、重さ4トンほどの地車の大屋根に大工方(だいくがた)と呼ばれるいなせな法被(はっぴ)姿の男が乗っている。テレビなどで一度は目にしたことのある有名な光景である。臨海線の左右からやってくる「だんじり」は、いったんT字路の手前で停止したあと、交互にスタートをきる。
大太鼓、小太鼓、鉦(かね)といった鳴り物が「半きざみ」から「きざみ」と呼ばれる旋律へと急速にリズムを高揚させてゆく。そして大勢の曳き手の「そ〜りゃ」の掛け声がひとつになり「きざみ」が最高潮に高まったとき、「だんじり」は一挙にスピードを上げ、直角に方向を変え、岸和田駅方面へ向かう本通りへとなだれ込むように曲がってゆく。
これが勇壮な「やりまわし」である。
大工方が路上を走る「だんじり」の大屋根でバランスをとりながら、跳ね上がり、踊るその様はあまりにも有名である。その危険でドキドキする光景が今、まさに自分の目の前で展開されていた。団扇を両手にした大工方の華麗な舞いが決まったときには、観客席から「ワーッ!」とうねるような歓声があがった。
この日は4時過ぎから20分ほど強いスコールのように叩きつける雨が降ったが、「だんじり」は意にも介さず次から次へと「カンカン場」にやってきては、「やりまわし」を披露しては去ってゆく。傘をさすことを許されぬ観客もびしょ濡れになって、大工方の勇姿に酔いしれ、熱い声援と拍手を送っていた。
「カンカン場」という奇妙な名前の由来を隣席に座る地元の宮本町の男性が語ってくれた。男性が子供のころの5、60年前、府道臨海線の向こう側は海であったという。その当時は、この辺りはコークスの陸揚げ場になっており、コークスの重量を計る「カンカン」という機械が設置されていたので、この地を「カンカン場」と呼ぶようになったという。
また宮本町は宮座の中心的な役割を占め、くじびきなしの「宮本一番」といわれる格式があるのだという。宮入りの順番は毎年、『くじ』により決められるが、宮本町、沼町、上町などくじなしで優先的に宮入りが決まっているいくつかの町がある。宮本町はその栄誉ある先頭ということだそうだ。その説明をしてくれたときの70歳近くに見える男性の顔は誇らしげに輝いて見えた。
そして、その話を聞きつつ目の前を通りゆく「だんじり」を眺めながら、祭りが本来持つ伝統の意味合いについても考えさせられた。こうした祭りを300年間も大切に町中で守ってきたこと、そのことを町に育った者として誇りにできることに、現代、すでにほとんど失われ、崩壊したといわれる共同体というものの存立意義をそのとき見出せたように思えたのである。