神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

これから頻繁に名前が出てくる「中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)」と「雷大臣命(イカツオミノミコト」について、ここで「紀」の記述等を引用しながら説明をしておこう。

 

中臣烏賊津使主(雷大臣命)とは、一体、どういった人物であったのか?

 

まず、「紀」の中で、中臣烏賊津使主に関する部分は以下の通りである。

 

【仲哀天皇(在位西暦192200年)89月 「天皇神託を疑い、崩御」】

「是(ココ)に、皇后と大臣(オホオミ)武内宿禰、天皇の喪を匿(カク)して、天下(アメノシタ)に知らしめず。則(スナワ)ち皇后、大臣と、中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君・物部胆昨連(イクヒノムラジ)・大伴武以連(タケモチノムラジ)に詔(ミコトノリ)して曰(ノタマ)はく、「今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。若し百姓(オホミタカラ)知らば、懈怠有(オコタリア)らむか」とのたまふ。

則ち四大夫(ヨタリノマエツキミ)に命(ミコトオホ)せて、百寮(モモノツカサ)を領(ヒキ)ゐて、宮中(ミヤノウチ)を守らしめたまふ。窃(ヒソカ)に天皇の屍(ミカバネ)を収め、武内宿禰に付(サヅ)けて、海路(ウミツヂ)より穴門〔アナト/P4049〕に遷(ウツ)りて、豊浦宮(トユラノミヤ)に殯(モガリ)し、天火殯斂(ホナシアガリ/喪を秘すために、灯火をたかない殯の意味。ただ、「ホナシモガリ」と云わぬことに疑問)をしたまふ。

甲子に、大臣武内宿禰、穴門より遷りて、皇后に復奏(カヘリコトマヲ)す。是の年に、新羅の役(エダチ/新羅征討)に由りて、天皇を葬(ハブ)りまつること得ず。」

 

と、あるように「中臣烏賊津連」は仲哀天皇の崩御を世の中に秘匿する相談に与るほどに神功皇后の信頼厚い四大夫〔他に大三輪大友主君・物部胆昨連・大伴武以連〕の一人であった。

 

なお、「紀」の(注)で、中臣烏賊津連について、

「神功摂政前紀3月(P417)・允恭紀712月条に『中臣烏賊津使主』とある。前者はここと同一人であるが、後者は同一人・異人、両説ある。『続紀』天応元年7月条に『子公等之先祖伊賀都臣(イカツオミ)、是中臣遠祖天御中主命二十世之孫、意美夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世、使於百済、便娶彼土女』とあり、前者と同一人。しかし、『姓氏録』の『雷大臣(イカツノオミ)』と『中臣氏系図』『尊卑文脈』の『伊賀都臣(イカツノオミ)』の名もあり、これも『中臣烏賊津使主』と同一人か否か説がある。」

 

と、説明されている。「神功皇后の時代に『烏賊津使主』が、百済に使いした際に、彼の地の女性を妻とした」とあるのが、後述する雷大臣(イカツノオミ)の伝承と一致し、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)と雷大臣が同一人であると認定してよい。

 

【気長足姫尊(オキナガタラシニメノミコト)神功皇后(仲哀天皇923月)】

「九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮に崩(カムアガ)ります。時に皇后、天皇の、神の教に従はずして早く崩りまししことを傷みたまひて、以為(オモホ)さく、祟れる神を知りて、財宝国(タカラノクニ)を求めむと欲す。是(ココ)を以(モ)ちて、群臣(マヘツキミタチ)と百寮(モモノツカサ)に命(ミコトオホ)せて、罪を解(ハラ)へ過(アヤマチ)を改めて、更に斎宮(イツキノミヤ)を小山田邑に造らしむ。

三月の壬申(ジンシン)の朔(ツキタチ)に、皇后、吉日を選ひて斎宮に入り、親ら神主と為りたまひ、則(スナハ))ち武内宿禰(スクネ)に命(ミコトオホ)せて琴撫(コトヒ)かしめ、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を喚(メ)して審神者(サニハ)(注1)としたまふ。」とある。

 

(注1)  審神者は、神が憑依した神功皇后の発する御言葉を、解釈し、皆に伝える役で、神事に関わる者である。

 

 以上の「紀」の二か所の記述から、中臣烏賊津使主という人物が、神功皇后の重臣中の重臣であり、かつ皇后に憑依した神の言葉を翻訳し伝える神職の役割を担っていたことが分かる。

 

対馬縣主の祖たる中臣烏賊津使主(雷大臣命)は「対馬神道」の祖である

さらに、「新撰姓氏録(シンセンショウジロク)」(815年嵯峨天皇の命により編纂)の氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」P342)において、氏族「津嶋直」は「本貫地:摂津国、種別:未定雑姓」に分類されるが、「始祖」は「天児屋根命(アマノコヤネノミコト)十四世孫、雷大臣命乃後也」と記載されている。このことから、対馬島内に祭神として数多く祀られている「雷大臣命」と同一人たる「中臣烏賊津使主(イカツノオミ)」が、対馬県主の祖であると断定できる。

 

天児屋根命については、「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、「・・・且(マタ)天児屋命は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」とあり、この国の「占い神事の宗家・元祖」であることが記されている。

 

先述の通り、中臣烏賊津使主は神の憑依した神功皇后の発する言葉を解釈し人々に伝える審神者(サニワ)」と呼ばれる神務に携わる特別な存在の人物であった。そして、中臣烏賊津使主が神事の占い事の宗家たる天児屋根命十四世孫とあるのも審神者(サニワ)」の正統性を裏付けるものである。

同時に、中臣烏賊津使主(雷大臣命)が、対馬神道の特徴をなす「亀卜(キボク)」の伝道者とされ、占いを専業とする「卜部」氏の始祖と伝えられるのも首肯できる。

 

そのことを、「対馬国大小神社帳」は、「対馬国社家之儀者、往昔雷大臣対馬県主に被相任候より以来、雷大臣之伝来を得而祭祀�偃請を仕来り、則対馬神道と申候」と記している。つまり、中臣烏賊津使主(雷大臣)が「対馬県主」に任じられてから、祭祀�偃請(卜の法)を伝授したが、それが即ち「対馬神道」であると云っている。

 

また、卜占に関する伴信友の著書「正卜考」(1858)に本伝とする藤斎延(ナリノブ=斎長の父)の伝書にも、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る、雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあり、対馬亀卜法の起源が、中臣烏賊津使主、雷大臣命にあり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」だと語られている(下線部分は「霹靂神社」参照)。

 

以上より、中臣烏賊津使主(雷大臣命)は、「対馬縣の祖」であると同時に、「対馬神道の祖」であることが分かる。