古墳時代後期にかぶさる飛鳥時代、その政治・文化の中心であった三輪山麓の南西部山裾、大和川を跨いで海柘榴市(つばいち)という交易市場が存在した。
海柘榴市から南西方向に池之内(橿原・磐余)から明日香にかけた一帯には、大和政権のその時々の天皇が居住し、政務をこなす宮殿が数多く存在した。
実在した初めての天皇とされる第10代・崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、桜井市金屋にある志貴御県坐(しきのみあかたにます)神社の辺りと比定されているが、海柘榴市から北西に500mほどの至近の位置にある。
また、百済からの仏教公伝の舞台となった第29代・欽明天皇の磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)は、海柘榴市から南東へ500mほど県道105号線の高架下、大和川沿いにある磯城嶋公園の辺りに比定されている。
海柘榴市という市場はことほど左様に古代大和の中心に存在していたのである。
それほどに歴史的価値の高い場所であるにもかかわらず、現在、この辺りが海柘榴市であったという縁(よすが)は、海柘榴市観音堂(桜井市金屋544)にその名をわずかに認めるのみである。
それも、人家を抜けた路地の奥、三輪山の末裾に接するまことに小さな境内にぽつんと建つ現代風の簡易な造りの本堂からは歴史の重みを感じ取ることは至難で、ましてや千数百年前に殷賑を極めた海柘榴市のワクワクするような情景を思い浮かべることは甚だむずかしい。
その観音堂から300mほど南下すると大和川(初瀬川)にぶつかる。
そこに架かる馬井出橋の両袂に“仏教傳来之碑”と“海柘榴市跡の説明板”が建っている。
この馬井出橋の辺りに飛鳥と瀬戸内海を結ぶ水運の拠点となる湊があった。現在の大和川の水量からは想像しにくいが、西行する川筋を橋の中央部から見やると、その先に小さく二上山が見える。
次に上流を振り返ると遠くに忍坂(おさか)山が見渡せる。
すぐ足元の河川敷には海柘榴市歴史公園が整備されているが、百済の使節を歓迎した様子を再現するかのように飾馬の可愛らしいレプリカが置かれている。
その海柘榴市は五世紀後半、三輪山をめぐる山の辺の道、北へ淡海へと通じる上ツ道、磐余や飛鳥へ南西する安倍山田道、西に羽曳野・堺、東に長谷、伊勢へと至る横大路など幹線道路が交錯する陸路の要衝であった。
しかも、それぞれの道路は正味の路面幅で18mから35mにおよぶ大幹線道路であった。ちなみに現在の高速道路の一車線の標準車線幅は3・5mであるので、5車線から10車線の道路というとてつもなく大規模な道路網であったことが、最近の発掘調査によって徐々に明らかになってきている。
さらに古代物流の大動脈であった海路においても、三輪山南麓に沿って流れる初瀬川の河港として海柘榴市は大きな役割を担っていた。
初瀬川は下流で三輪山の北裾を流れる纏向川と合流、さらに下って飛鳥川や佐保川など奈良盆地を巡る支流を束ねて大和川となり、難波津において瀬戸内海へ出ることになる。
そして、その潮路は遠く外洋へと続いており、その意味で海柘榴市は、唐、天竺など国際社会と繋がる古代シーレーンのまさに起点であり、異国文化との交流も盛んな国際色豊かな地であった。
日本書紀の推古紀15年(607)7月に小野妹子が隋へ遣わされたことが記されている。この時の国書がかの有名な聖徳太子の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」である。
その翌年4月に遣隋使は隋の使者・裴世清を伴ない帰国、8月に明日香に到着。
紀の推古紀16年8月条に、「唐客(裴世清一行)、京に入る。是の日に、飾馬七十五匹を遣して、唐客を海柘榴市の衢(ちまた)に迎ふ。額田部連比羅夫、以ちて礼辞を告(まを)す」とあり、推古天皇の住まう小墾田宮から北東5・5kmにある海柘榴市に儀典用の飾馬75匹を引き連れて額田部連比羅夫が向かっている。
この記述から海柘榴市が7世紀初頭において海外からの賓客を迎える河港であったことがわかり、シルクロードの起点といって過言ではない殷賑を極めた市場でもあったことが容易に想像される。