パワースポット、古代吉備国発祥の地・“吉備の中山”、半歩き一日目

さて、吉備の中山登攀二日目は9時26分岡山駅発で吉備津駅へ向かう。当日は、実家の高松(四国)に帰省中の家内と吉備津神社で待合せの予定である。実力不相応の険しい山路登攀を決行するわたしの、謂わば出張介護といったところであろうか。


わたしは家内より一時間ほど早めに神社へ到着、境内の写真撮影をのんびりやりながら妻を待つという当初の段取りであった。ところが、朝に弱いわたしは予定より一電車遅れ、家内が一電車早い列車に乗車ということで、わずかに二両編成の車内で遭遇と相成った。トホホ・・・(*´▽`*)


吉備津駅 JR吉備津線・二両編成
吉備津駅と二両編成の車両


てな訳で、二人一緒に吉備津神社拝殿(神社概要は別稿に譲る)で手を合わせ、当日の難行、御陵登りの開始となった。
吉備津神社
吉備津神社・左本殿、右拝殿

拝殿
拝殿でお詣り

南随身門から長い回廊を抜けて、突当り出口から一般道へ出て50mほどで御陵への登山口(吉備の中山遊歩道)へ入る。

長い回廊 御陵への登山口

道は整備されて歩きやすい。鮮やかな新緑が目に痛いほどである。

整備された吉備の中山遊歩道
登りやすいです
素晴らしい新緑です

300mほど緑陰の遊歩道を登ってまた先ほどの自動車道へ出る。茶臼山(海抜160m)方向を見ると、里山のようなひなびた景色が目に飛び込む。頂きに群れる木々がおそらく御陵を覆う樹林なのだろう。

右手が茶臼山、下ると吉備津神社    一般道より茶臼山を望む
左:170段階段方向からみた一般道。右手が茶臼山    右:茶臼山

200mほどゆくと道路左手に中山茶臼山古墳への170段の階段があった。これを登れば直ぐに御陵である。

杖を支えに注意深く一段一段足を運ぶ。時折、大きな段差があり、「よいしょ」と掛け声をかけて、体を持ち上げる必要があったが、総じて、登りやすい階段であった。

170段の階段です

頂上へ到達すると“御陵”という立札が目の前に飛び込んできた。

170段階段の頂上です

「あぁ、やった〜」とのささやかな幸せ感・・・。一方、数歩先に登り切った相方は息も上げることなく、もう御陵方向を望んでいる。

突当りが御陵
突当りが御陵です

痛む膝をさすりながら左手を見ると、まっすぐ伸びた細道の先に目指す御陵の拝所が見えた。
そして、宮内庁管理のため厳重に柵が廻らされ、下から御陵の上方に建つ鳥居を仰ぎ見た。

大吉備津彦命の墓
大吉備津彦命の御陵

柵の奥に古墳時代前期に築造されたという全長120mの前方後円墳・中山茶臼山古墳の鬱蒼たる森が広がる。

茶臼山古墳の鬱蒼たる森

往古、この山裾まで瀬戸内の海が入り込んでいたという。いまは、“吉備津”という湊を意味する名前にかつてこの辺りに充溢していたであろう潮の香を偲ぶのみであるが、桃太郎に擬せられる大吉備津彦命の墓は、むか〜し、この日のような真っ青な空を背に従え、この吉備の中山の頂きから眼下に広がる瀬戸内海を睥睨していたのであろう。

吉備の中山、左が龍王山、右が茶臼山
吉備の中山:左が龍王山、右手が茶臼山。大昔、この山裾を海の波が洗っていた

その御陵拝所の右手に備前と備中を分ける“国境石”がある。

国境石

吉備国の分国(備前・備中・備後)はいつかということだが、『岡山県通史』(永山卯三郎著)によれば天武10年(682)から持文武元年(697)の間と推定されるということである。この山がそれ以前の大きな吉備の中心にあるので、“吉備の中山”と呼ばれたというのである。

備前國御津郡 備中國吉備郡
左:備前國御津郡   右:備中國吉備郡
備前国  備中国
左:備前國                  右:備中國

その備前と備中の国境を標す国境石。御陵正面の方が備中、向こうが備前である。

小さな石であるので、見落とさぬよう注意が必要である。


さて、御陵前のベンチつまり備中側で持参のお握りで軽く昼食をとり、息を整えてから本日お目当ての“石舟古墳”を目指し、歩き出した。

古墳を廻る土塁
国境石を越え、古墳の東側へ向かう。古墳を廻る土塁に沿ってゆく

そして、国境石を越え備中國に入り、古墳を右手東側に回り込む細い山路をたどる。木の根っこなどがあり、足の不自由なわたしは注意深く足を運ばねばならぬ悪路である。

御陵の東側・前方墳から後円墳に向けて撮影
古墳の東側、前方墳から後円墳を見る

ちょうど前方後円墳の前方墳から後円墳に向けてうねる起伏の径を歩いてゆく。

途中に、“穴観音”があった。説明版によると、「昔からの云い伝えで、側面の穴に耳を当てると、観音様のお声が聞こえるという俗信仰があり、縁日には参拝客が多い。古墳築造時よりこの場所にあり、原始的祭祀行事の場所であった」 とある。

穴観音と後方に後円墳

いまでは、そんなに人が訪ねて来るといった様子ではなく、山深い古墳の裾にひっそりと鎮まっており、なかなか雰囲気のあるパワースポットといった趣きである。

後円墳の東に鎮まる穴観音

ここは、この下50mほどにある八徳寺(神社)の奥宮であったと推測され、これらの岩は古代、まさに磐座であったと考えるべきである。

手前の磐座に穴が開いている
手前の石の横に穴が穿たれている

そして、穴観音の位置は茶臼山古墳の後円墳の中心部分の東側となっており、横穴式石室があるとすれば、ここが古墳を拝する正面部分に当たる。

また、竪穴式墓室としてもここから真西に墓室があることになり、この場所は本来、古墳を拝する最も聖なるポイントということになると、わたしは考えている。


さて、そこを離れて石舟古墳を目指して歩いていると、胸に“古代吉備文化センター”と印した男性が私たちを追い抜くや、ちょっと振り返って、どちらまでと問うた。


石舟古墳と答えると、わたしの覚束ない足で急坂を下るのは難しいという。そこで、家内と相談のうえ、石舟古墳を断念。紹介された近くの吉備桜を鑑賞しにゆく。見ごろは過ぎていたが、その大きさ、りっぱな枝ぶりには驚嘆した。

吉備櫻 満開は過ぎていました
四股に分かれた吉備桜の古木 満開は過ぎていたが、大きさにビックリ

そして、ちょっと下った先にある、往古の高麗寺跡に比定される八徳寺に立ち寄る。寺というより、さびれた小屋のように見えたが、一応、お祀りはしているようである。高麗寺は源平盛衰記に「大納言(藤原成親)の御座する有木の別所高麗寺というのは備前と備中の境・・・」とあり、写真の石柱が高麗寺金堂の礎石の一つの跡を標すものである。

山腹の平坦地に八徳寺・右斜め上御陵

八徳寺は明治初期の「一品吉備津宮社記」の末社に関する記載中に「波津登玖(ハットク)神社。小祠。此地坪今属備前国。祭神温羅命」とあり、この八徳寺という山寺が波津登玖神社と同一のものと考えられるとのこと(「考えながら歩く吉備路」・薬師寺慎一著)。

八徳寺

大吉備津彦命が退治した温羅(ウラ)を祀る神社がその御陵のすぐ脇にあることが不思議と言えば不思議である・・・。本当に温羅は悪者だったのか・・・。民に慕われていたのではないのか・・・。ひっそりと佇む八徳寺を見ていると、そういう気が確かにしてくるのである。

手前石柱の下に高麗寺礎石が埋まる
手前の石柱の下に高麗寺の礎石が埋まっている

それから、そこを後にして御陵の横に広がる“古墳公園” の広場に向かった。

八徳寺から古墳公園への道
手前、八徳寺から古墳公園への道

茶臼山山頂にぽっかり広がる平坦地。そこから遠くに常山が見え、眺望は最高である。

古墳公園 古墳公園・奥にいくと御陵
左:古墳公園からの眺望 右:この奥は170段階段、その先、御陵へ通じる

そして、そこからまた170段の階段を下り、吉備津神社へと戻って行った。


石舟古墳を見られず誠に残念であったが、この日は天気も良く、絶好のハイキング日和であり、眩いほどの新緑のなか、それなりの幸せを感じられた一日であった。


また、万歩計も前日に引き続き14000歩を越え、わたしのリハビリにはきわめて充実した一日であった。